パンカム村への道4

朝5時過ぎに起床。その1時間ほど前に竹で編んだ壁から光が漏れているので、もう外は明るくなっているのかと思い、トーチを出して時計を見てみると、まだ4時前であった。

Kさんは午前3時半くらいにトイレに起きたそうだが、そのときには村の眺めが見えるくらい、月が煌々と照っていたのだそうだ。私が見た壁から漏れる光も月のものであったらしい。

午前5時過ぎのパンカム村に朝日が昇る。
パラウン族の仏教寺院

朝5時半に隣の仏教寺院に行くと、朝の勤行はすでに終わりの頃合いであった。この時間帯の気温は20度と涼しい。やはり高度が少しあるからだろう。海抜1,000mもないとは思うが。

朝食。一番手前はバニヤンの葉のスープ煮。こんなの初めて!

朝食は、卵焼き、ナスの煮物、昨日と同じ米とバナナの花のおこげ、そして特記すべきはバニヤンの葉のスープだ。バニヤンといっても大きくなるバニヤンとは少し種類が異なるものだそうだ。このあたりでは野菜、野草以外にも食用となる木の葉も多いようだ。食物繊維の摂取にはいいだろう。

泊めていただいた民家二階の寝室
村を出発

朝8時に村を出発。あとはほとんど下るだけである。昨日とは違うルートで、より緩やかな感じだ。このルートは雨季には使わないのだという。ところどころで川になってしまうからだそうだ。でもこのトレッキングを雨季に行なうのはかなり大変だろう。足元はぐじゃぐじゃになるし、ヒルも出るしで、苦痛を伴うこと必至だ。

東南アジアの川らしくないほど澄んでいる。

幾つかの川を渡る。簡素な橋もあれば、切り倒した木の幹を向こう岸に渡しただけのものもある。後者は浅瀬になっているから可能。イチジクの木もあり、実が落ちていたが、ここでは食用にはしないとのこと。割ってみても、においをかいでみても、間違いなくイチジクであった。日本のそれよりも固めで、外観はより赤いが。バニヤンの葉のような、まさか食用にするなどとは想像もつかないものが食卓で供されたかと思えば、我々にとっては当たり前の「果物」が食用にされないとは興味深い。

画像奥のほうでは、村の子供たちが水に飛び込んで遊んでいた。

川の水際の豊かな風景を楽しむ。子供たちが川にザブンと飛び込んで遊んでいる。増水期にはそうもいかないだろうが、この時期ならば小さい子供たちだけで戯れていても大丈夫だろう。日本の江戸時代の村の様子もこんな具合であったのではないだろうか。

このところ経済面で大いに注目されているミャンマー。最大の商都ヤンゴンはこれから大きな変化の波に揉まれていくことになるわけだが、こうした山間の村々もまた同様に、スタート地点があまりに低かっただけに、今後の変化の度合いは非常に大きなものとなることだろう。

だが気になるのは、多様な生活文化を持つ少数民族の人々が、これまで長く伝統的なライフスタイルを大切に世代を継いで継承してきたわけだが、その変化の大波の中でそうしたものが時代遅れで未開なものであるとして切り捨てられてしまうのではないかと、気になっている。

村のコミュニティの中の人々で、経済的にベターな暮らしを得ることができるようになった人々が出てくると、彼ら自身もまたそのような価値判断を持って、自らの民族の文化を軽んじるような方向に行くようなことがないことを願いたい。

スィーパウの町からパンカム村へは、日帰りも可能だ。朝5時過ぎか6時くらい出発して、少し早いペースで飛ばせば昼前には着くだろう。登りの傾斜もゆるやかなので途中キツイ場所もない。村でしばらく休憩してから午後1時くらいに出て、少々早足で下れば、スィーパウの町に日没までには到着できるだろう。

だがこのルートの醍醐味は、やはり村に宿泊することにある。そう遠からず、もっと奥の村へのルートも旅行者たちの間で知られるようになり、ミャンマーのこのあたりといえば、少数民族の村々を訪れるトレッキングが楽しいということが、内外に広く知られるようになるのも時間の問題ではないかと思う。

<完>

パンカム村への道2

シャン族の家
村の「学校」

点在する村の居住する少数民族がマジョリティとなる山の中では、ビルマ語はあまり通じなくなるらしい。いろいろな言語が散在するこの国らしいことではあるが、村で同じ民族で集住しているため、使う必要がないということもあるだろうし、学校教育の普及程度の関係もあるだろう。

食料品類は基本的に自給自足の生活であるようだ。こうした形で少数民族が村単位で存続できた背景には、それで生活していけるだけの地味の豊かさがあったからに違いない。また周辺地域を統一しようとか、勢力を拡大しようという野望もなく、人々が平和に共存していくことができる状況が続いていたということにもなるのではなかろうか。

もちろん少数民族といっても皆が村に住んでいるわけではなく、町に出て働いている人たちも少なくないはずなので、皆がそういう伝統的な環境で暮らしているということにはならないが。

あれは仏教の寺だとWin氏が指差した先にあるのは、大きいながらも簡素な建物だ。門の上に翻る仏教旗がなければ、これがそうであるとはちょっと気が付かないだろう。規模が大きめな家屋ではないかと思うところだった。

シャン族の寺

通称、「シャントラック」と呼ばれる、中国製のクルマのシャーシーとエンジンと足回りを流用してトラックに仕上げた、創意工夫の賜物ともいえるトラックが大き目の農家の軒先にあったりする。近くを流れる川の水を有効に活用して、米、野菜、トウモロコシなどが栽培されている。このあたりでは様々な食用になる野草もふんだんにある。

シャントラック
トウモロコシの脱穀作業中
旨そうなスイカ

ガイドのウィン氏が指差した先には「マラリアに効く」という野草があった。当然、マラリア原虫を駆除する効力はないはずなので、こうした山間の村で医療施設もないようなところに住んでいる人たちにとって、最大の予防は疲労をためないこと、ひいては睡眠時間をたっぷり取ることしかないだろう。

他にもデングのように同じく蚊が媒介する病気、赤痢やコレラといった他の伝染病も普通にあるはずなので、平和に暮らしていながらも人口があまり増えることがなかったということも、民族ごとの村落社会が長く継続できた理由かもしれない。川から汲んだ水を飲む村人たちの姿を見て、そんなことをふと思う。運不運もあろうが、地域の生活環境に適応できる丈夫な人たちが淘汰されて生き残っているわけである。

山道は、もちろん舗装などされていないダートであるため、雨季の水の流れによって削られていくためであろう、平坦ではなく幾筋もの溝が続いているような具合だ。それでも上のほうから中国製のバイクで駆け下りてくる人たちが少なくない。

ウィン氏によると、そうした人々の多くはパラウン族であるとのこと。元々は馬をよく利用していた人たちであるとのことだが、今の時代になると生身の馬から機械の馬へと乗り換えるようになっているということのようだ。同じような地域に暮らしていても、やはり民族性というのはあるようだ。

シャン族とパラウン族とでは、居住するエリアもかなり違うようで、前者はなるべく平らなところ、そして川の流域に好んで居住するが、後者は山の上のほう、尾根のような見晴の良い場所に村を形成するのだという。また、野生のシカや鳥類などを求めて、よく狩猟をするとのことでもある。集落内の家屋を外から眺めると同じように見えるのだが、生活様式はかなり異なるのではないかと思われる。

さらにどんどん上へと歩いていくと、やがて「ここからパラウン族の地域」とガイド氏は言う。住み分けの境界は少なくともこの地域でははっきりしているようだ。シャンとパラウンが混住する村は、町の近郊ではあるそうだが、それ以外では当混じって住むことはないという。シャンの村はシャン人だけ、パラウンの村はパラウン人だけという具合らしい。

顔立ちは私たちからすると同じに見えるが、言葉や生活習慣も異なるため、また住んでいるエリアが異なるということもあるのだろう。異なる民族間での結婚というのも多くないという。ただそれが不可能というわけではなく、ときにはそういうケースもあるのだそうだ。同じ仏教徒であればそう難しいことではないとも。このあたりの少数民族コミュニティは父系社会なので、異民族と結婚した女性が男性側の村に嫁入りすることになるという。

ただし相手の民族がどうあれ、宗教がクリスチャンであったり、ムスリムであったりということであれば、かなり困難であるそうだ。

「インド出身のムスリムでありながらも、シャン族の仏教徒コミュニティの中に同化していった私の祖父はその中の例外です。」とウィン氏は穏やかに笑う。

山道の上のほうから黒光りする銃器を持って駆け下りてくる男の姿があり、「山賊では?」とちょっと背筋が凍る思いがしたが、ウィン氏と顔見知りのパラウン族で、これから狩りに出かけるとのこと。背後からは彼の子供たちも続いて下りてきた。

チークの木に巻き付くバニヤンの木があった。木は逃げることができない。これから何年か先には、チークの木はバニヤンに絞殺されて、バニヤン自体が大きな木に成長していることだろう。

バニヤンに絞殺されつつあるチークの木

パラウン族の村の地域に入ると山の斜面に茶の木を見かけるようになってくる。この民族の間では茶の木の栽培が盛んであるとのことだが、ダージリンその他のインドの茶のプランテーションでのたたずまいとかなり違う。通常、木は等間隔で密の植えられるものだが、ここではずいぶん間隔が空いているし、木の背も高くなってしまって伸び放題だ。こんなに背が高くなってしまっている茶の木はインドでは見ない。

普通の木のようになってしまっている茶の木

収穫された茶葉は、家内工業として粗く製茶されるようだ。「粗く製茶」と言っては失礼かもしれないが、素朴な味わいの中にお茶本来の旨みが感じられて悪くない。

<続く>

ヤンゴンのクリスチャン墓地

ヤンゴン郊外のクリスチャン墓地

先日取り上げたミャンマーのヤンゴン郊外の日本人墓地のすぐ北にクリスチャン墓地がある。英国人をはじめとする欧州系の人たちの墓が沢山あるのではないかと予想していたが、そうではなかった。

墓地に埋葬されている方々のほとんどはミャンマー人

敷地内の墓石の大部分はミャンマー人のもので、クリスチャンネームとともにビルマ名も刻まれている。世俗の生活の中で、もっぱら使用していたのは当然後者のほうだろう。この国においては、ヒンドゥーもムスリムも日常用いているのはビルマ名である。

無造作に積まれている墓石

欧州人たちの墓は、ごく小さな一角にまとめてあった。想像していたよりもはるかに少ないが、相当整理されてしまったに違いないことは、墓石が無造作に積まれている有様からも見てとれる。

時は移ろう。世を支配する立場の側にあった人たちも鬼籍に入り、世間に影響を及ぼすことはなくなる。人々の間の記憶から忘れ去られていき、歴史の過去に消えていき、この世に生きる私たちとは無縁の存在となっていく。

付近にはシーア派ムスリムの方々の墓地もある。当然、インド亜大陸からの移民(および少数ながらイラン系の移民)ということになるので、ぜひ訪れてみたかったが、すでに日没の時間となってしまったので断念せざるを得なかった。

ヤンゴンの日本人墓地

ヤンゴンの日本人墓地
ミャンマー最大の都市、ヤンゴンの空港から北東方向にクルマで20分ほど進んだ地域に、日本人墓地がある。もともとはあちこちに埋葬されていたものを、ある時期にこの場所に集合させたものであるとも聞いている。背景には在ヤンゴンの日本人会による尽力も大きかったとのこと。
大正時代に亡くなられた方の墓石
連合軍墓地のように高度に組織化された感じではないが、様々な異なる背景を持つ日本人たちがこの地に眠っている。石の表面が摩耗して、もはや判読することすら難しくなっているものも多いが、古くは没年が大正時代のものあったし、昭和一桁に亡くなった人の墓もかなりある。第二次世界大戦が始まる前の当時のミャンマーで、個々の人たちにとって具体的にどんな縁があって移り住むことになったのかはわからないが、大英帝国の海外植民地の大都市のひとつとして繁栄したこの街だけに、様々な商機があったのだろう。この時代に日本から渡ったからゆきさんも少なくなかったようだ。
戦没者関係の慰霊碑や墓石が目立つ
連隊の従軍概要についても記されていた。
戦没者たちへの鎮魂碑
戦没者関係の石碑は非常に多い。
「ビルマの竪琴」の主人公のモデルとなった人物の関係の石碑もあった。
亡くなったご本人もまた軍国主義の時代の被害者。決して繰り返してはならない歴史である。
墓地内で、最も存在感があるのは、やはり戦没者関係である。大きな石碑が多く、具体的な記述があるためでもある。個々の墓碑、所属していた連隊等の戦友たちによる慰霊碑、戦没者の出身県による同類の石碑等々。だがこの時期の墓碑に特徴的なのは、個人の名前も何も刻まれていないものがかなりあることだ。これらの人々が亡くなったとき、個々の身元確認が困難であったり、混乱を極めた時代であったりしただけに、埋葬先にまで故人の基本的な情報の伝達すらうまくいかないという状況があったのではないかと推測できる。
また先述のとおり、各地に埋葬されていたものを、この地にまとめて改葬したということもひとつの原因かもしれない。日本人の墓であることは判っていても、そこに葬られているのが誰なのかが分からなくなっているというケースもあってもおかしくない。
戦没者埋葬エリアでは氏名も亡くなった日付もない墓石が多い。
個人的に存じ上げている、戦時中に航空通信連隊に所属して終戦を迎えたという方があるのだが、まさにその方が戦友たちのために個人で建立された石碑を見かけた。世間というものは案外狭いものだ。
この方の出身地は平安北道。現在は北朝鮮となっている。
戦時中に亡くなった方々の中で、明らかにコリアン系の方々の名前も少なくなかった。日本と併合されていた時期に他界した人々であるがゆえに、日本人という扱いになるのだろう。この写真の方の場合、没年が昭和12年となっているので民間人であると思われるが、その後マレー半島への侵攻に始まる東南アジア方面への日本軍の展開の中で、軍人や軍属としてこの地を踏んだコリアン系の方々も少なくなかったはずなので、この時期に日本人名で埋葬されているケースもあるのではないかと思う。
1978年の航空機事故で亡くなった日本人技術者たちへの慰霊碑
戦後に亡くなった方々のものもある。1978年に起きたヤンゴン発ミッチーナー行きの国内線墜落事故で亡くなった、援助プロジェクトの関係で来緬した日本人技術者6名の慰霊碑、そのあたりの時代から2,000年代に入るまでの間に、当地で亡くなった日本人たちの墓である。
隣国タイなどと異なり、対外的に非常に閉鎖的な体制が続いていたこの国だけに邦人在住者の数や在留していた目的等もごく限られるため、戦後のこの国の激動の時代をつぶさに目撃するという稀有な体験をしてきた人たちであると言えるだろう。
埋葬された時代を問わず、日本の墓地と大きく異なる点として、大半のものに戒名がないということがある。ごく一部にこれが刻まれている墓石があるが、それらは日本で遺族が菩提寺からもらったものであろう。
故郷から遠く離れた熱帯のこの地で安らかに眠る人々の魂がここにある。

日本発のEVオートリクシャー

人力車発祥の地である日本だが、まさにこの日本発の電動三輪がアジア諸国をはじめとする途上国の市場を狙っている。

すでに色々なメディアで取り上げられているが、テラモーターズが注目されているのは、四輪の分野と違って、これまであまり注目されてこなかったEVの二輪や三輪の開発と販売を推進しているだけではなく、目指すマーケットがグローバル規模であり、従前は各国の地場産業の舞台であったオート三輪の世界をフィールドに飛翔することを狙っているからだ。すでにフィリピンでは本格的に始動している。

テラモーターズ、フィリピンの電動トライシクル事業に参入(自動車新聞社)

「テラ モーターズ」三輪EVのプロトタイプを公開、日本発のベンチャー企業が世界に挑む!(マイナビニュース)

電動バイクのアジア戦略 (THE INDEPENDENTS)

乗り心地のほどはどうかわからないが、流麗なボディのフォルムはなかなかいい感じだ。日本発祥の電動オートがインドの街を駆け巡る日がやって来るかもしれない。

テラモーターズの「電動トライシクル」