日常でも旅行先でも役立つスマホ兼カメラ

近年のSAMSUNGは、実に購買意欲をそそる商品を次々に出してくるものだ。昨年後半から発売されていて、日本では未発売のこんな製品が気になっている。

Galaxy S4 Zoom (SAMSUNG)

スマホで写真を撮る気にはならないが、もう少しマシな写りをするのならば大変ありがたい。それでもメインのカメラは手放すことはないと思うけど。

近年爆発的に普及したスマホは、それまでのケータイと腕時計、予定帳、メモ帳、ネットブックがひとつにまとまっているという点が、世の中の人々から大きな需要を掘り起こすことになったのだろう。もちろんコンデジの需要も大きく侵食してしまっているがゆえに、安手のデジタルカメラがさっぱり売れなくなるということにも繋がっている。

だがカメラとしての機能については、暗所での極端な弱さは言うまでもなく、画質面でも使い勝手面でも、たとえ比較の対象がコンパクトデジカメであっても、同じ土俵で勝負できるものではない。

しかしながらこのGalaxy S4 Zoomは、本気でコンパクトデジカメとして造り込んであり、一昨年後半に発売されたGalaxy Cameraほどのものではないが、コンパクトカメラとしても、まあそこそこ使えるものとなっている。Galaxy Cameraと違うのは、こちらは携帯電話として利用できることだ。またGalaxy Cameraにおける不備な点もこちらでは改良してあり、たとえば起動時にいきなりズームレンズが前に飛び出さないようになっていたり、脆弱なレンズバリアーがガラスで保護されていたりといった仕様になっている。

ズーム域は24mmから240mmで、F値は3.1から6.3というごく平凡なコンパクトデジカメで、絞り優先モードはなく、シャッタースピード優先モードもないという単純なモノであるが、それでもスマホにそれなりにカメラらしいカメラが搭載されているという利点が大きい。

インドで現時点の店頭価格が3万ルピーくらいであるということは、そこから14.5%の税金を抜いた価格は2万6千ルピーくらい。免税店で買おうかな?と思ってしまう。

ただし自分自身としては、やはりカメラとしての性能自体にもう少し向上を期待したいので、このモデルに手を出してはいない。Galaxy Cameraの次期モデルが発表となっているが、今度のモデルの通信対応はWifiのみというのは寂しい。初代機のように3Gに対応して欲しいものだ。それでもって携帯電話としての通話も可能であったとするならば、私としては即購入ということになるのだが。

Galaxy S4 Zoomがもう少しカメラらしいカメラになるか、Galaxy Cameraに携帯電話しての通話機能が付いたら、「インドでどうだろう、この一台」ということで大いに注目できるモデルとなる。ともに5インチに満たない画面では少々物足りないものがあるが、ガイドブックもここに保存しておき、必要に応じて参照するという使い方もできるだろう。

いずれにしても、今の日本メーカーにはない無尽蔵の体力とアイデアを感じさせるのが現在のSAMSUNGだ。スマホやコンパクトデジカメ以外にも、ハイエンドなカメラでもなかなか面白い製品を出しているので、ぜひ日本でも同様に量販店等で発売して欲しいものだと思う。

現状では、日本国外で購入したり、あるいは海外通販等でも買い求めたりすることはできるとはいえ、故障した場合の修理面での不安は否定できない点が気がかりである。日本市場への正規ルートでの進出を期待したい。

モコクチュンのクリスマス 3

教会といえば大半がバプティスト
教会

朝7時に頼んでいた朝食を摂るために階下に降りる。隣席にはアッサムから家族と来ているインド人。この人は釣りが趣味とのことで、北東地域ではとりわけアルナーチャル・プラデーシュがお気に入りとのこと。

「でもどの土地も所有者が決まっていて、釣りしていると、ここではダメだと言われることもよくある。これが平地と違うところだね。平地でも土地の所有者は決まっているけれども、釣りをしていて何か言われることは特にないよ。」

この人は、アッサム州の人で、近隣州に住んでいることもあるかと思うが、アルナーチャル・プラデーシュ州の少数民族事情にもかなり詳しい。最近のインドの人たちは、自国内を広く観光するようになったこともあってか、その地域のマイノリティの習慣や社会についてもかなり知識や関心を持っている人が増えているようだ。

昔はインド人の観光といえば、タージマハルのような超メジャー級の観光地か巡礼地と相場が決まっていたが、今はインド中どこに行っても、それこそ西洋人の姿を見かけないところであっても、インド人観光客はいたりする。バイクで旅行する人たちが多くなってもいる。

90年代から一大ブームとなった国内観光も、さすがにこれだけの年月を経ると、いろんなスタイルの人たちが出てきている。夏にラダックで会った、デリーでの勤めを辞めてバイク旅行していた若者のように、「自分探し」の旅行をしている人たちもいる。自分探しというのは決して悪いことではないと思う。もともとありもしない自分を探すのではなく、「こう成り得る自分」を追求する旅であるからだ。この人は、ライター志望で、そのために旅行していた。ライターとして身を立てる自分と自身が書く題材を見つけるための旅である。

外に出て歩いてみると、昨日はクルマが出入りしていたり、路肩に駐車していた商業地では車両の姿をまったく見かけないようになっているし、どこに行っても商店はすべて閉まっているという徹底した休日モードである。走るクルマもほとんどない。皆が自発的に休みとしているのか、それとも行政や組合が休みとするように強制しているのかはよくわからない。インドの他の地域と大きく異なるのは、どこまでも徹底して休みとなるので外で食事はおろか、軽食さえもみつかならないこと、そして交通機関も姿を消してしまうため、移動もできないことだ。クリスマスだけではなく、ふだんの週末も同様の状況となる。

どこも店は閉まっている。
人々は自発的に休んでいるのか、それとも政治的に強要されるのか?

教会には人々が集まり、ミサを行っている。しばしば賛美歌が聞こえてくる。細い路地で行き交う人々と「メリー・クリスマス!」と声かけ合うのが心地よい。ミサの後はクリスマスの食事が教会近くで振舞われている。年に一度の大きな行事なのでみな楽しそうである。精一杯のおしゃれをして教会に集まっているのだ。住宅地あちこちにクリスマスの飾り付けがなされている。万国共通のデザインではあるものの、クリスマスツリーの意匠は日本のそれとずいぶん異なる。

教会近くの広場で、ミサに集まった人々に振舞われる食事

教会に人が沢山集まっているのとは裏腹に、家の中で家事にいそしむ人たちもある。教会への関心はやはり人それぞれなのだろう。私が受けた印象では、教会に集まるのはどうしても、より知的でどちらかといえば裕福な層が多いように思える。晴れ着を持っていないと、そういう場に出るのは気が引けるということもあるかもしれない。男性は洋装が多いが、ナガのショールを纏って出席する人もいる。女性も洋装が多いが、ナガの伝統的な女性の衣装の人たちの姿もある。どちらもパリッと着こなしていて、いい感じだ。

今日もあちこちで爆竹が鳴り響いている。精一杯着飾った人たちが教会に出入りして、賛美歌が流れてくる雰囲気と、戦争でもしているかのような轟音が響く爆竹とではどうもイメージがオーバーラップしないが、おそらく教会には行かないようなタイプの子が鳴らしているのではないかと思う。

モコクチュンにはカレッジまであるが、卒業後に就業機会はなかなかないらしい。就職先として最も条件が良いのは公務員ということになるようだ。他には、何か家業があればそれを引き継ぐか、さもなければ自分で小さな仕事でも始めるしかないという具合とのことで、日本の過疎の田舎と似たようなところもあるかと思う。世帯にはだいたい三人から四人くらいの子供がいるのが普通であるというから、やはりみんなが将来に渡り食べていくには、就業機会が必要である。

斜面の頂上を中心に広がる町なので、ダージリンやシムラーなどのヒル・ステーションとも遠景は似ている。ただしこれらと大きく違うのは英国時代の遺産と思われる建物は見当たらないこと、旅行産業がまだ端緒についてさえいないので、観光客相手らしきレストラン、みやげもの屋といった類が不在であることだ。

観光産業といえば、オーガナイズツアーがまだまだ中心のようだが、そもそも交通のインフラがとても貧弱であることは、そう簡単に克服できることではないだろう。山奥の部族社会であったため、人が造ったもので歴史的な建造物はないため、多くの人々を集めることができるかどうか期待するのは難しいように思う。景色にしても他のヒマラヤ地域のほうが優れているし、文化的な遺産も比較のしようがないほど多い。今後治安が本当に良くなったとしても、トレッキングの需要が高まるとも思えない。ごく最近、パーミット無しで行き来できるようになったという新鮮さはあるが、果たしてこの地で観光業が今後振興するかといえば、かなり困難を伴うように思える。

ただし、可能性といえば、インドの北東部の治安が安定に向かっていること、ビルマの西側も同様であること、ミャンマーが経済の開放に舵を切ったことにより、最近言われているインドとミャンマーを繋ぐ物流ルートが出来ることになったならば、このあたりの経済は大きく変わることだろう。だがそれは、ここにインド本土から巨大な投資とモノと人が流入してくることであり、これまで独立を求めて闘ってきた地元の意思とは相反するものとなる。やがては大インドにそのまま吸収されていくことになるのではないかと思ったりもする。

ここでは日没は午後4時過ぎだ。太陽は山々の向こうに姿を隠している。まだしばらく明るさは残っているが、太陽が見えなくなると急に寒くなってくる。やれやれ。

坂だらけの斜面の町なので、さほどの距離でなくても、かなりくたびれる。こういう町に暮らしていると、高齢者は外出が億劫になることだろう。また足が悪い人のクルマ椅子も危険で使えるような環境ではない急斜面なので、身体の具合の悪い人は外出の機会も少ないことだろう。

日本では山地の町や集落は谷間に形成されることが多いが、ここでは山の頂上ということが多い。社会習慣や伝統上の違いといえばそれまでだが、やはり水の確保は容易ではないらしい。たまたま知り合った地元の水道局職員としばらく話をしたのだが、ずいぶん下の谷間を流れる水をポンプで汲み上げて供給しているという。

コヒマもそうだが、モコクチュンもここまで町が大きくなったのは、比較的近くにそういた水源があること、加えて現在は電気等を利用した技術があるがゆえに、このような規模で人々が居住できることになったのだろう。

モコクチュン郊外にも小さな茶畑がある。気候条件はダージリンあたりに似ているはずなので茶の栽培は当然できるだろう。だがあまりよく手入れされているようではなく、茶の木がかなり背が高くなってしまっているものもある。自家消費用だろうか?

のどかな山間の町のモコクチュンだが、早朝や夜間などに出歩いていると、向こうからやってくる数人組の男性が機関銃を持つ軍人であることにギョッとしたりする。ライフルを背負った警察官ではなく、プロの戦闘員が警備をしているというのが、停戦により平和を救助していながらも、いまだ不安を払拭しきれないナガランド州にいることを感じさせてくれる。

現在、反政府勢力による大きな騒擾が起きていないのは喜ばしいことだ。しかしながら内戦時代を通じて、中国製の武器が大量に流入していること、中国による戦闘員に対する訓練等がなされてきたといった事柄があるがゆえに、インド独立以来半世紀以上に渡って、彼らが当地に展開しているインド軍と互角に渡り合ってきたということになるのだが、同時に市民の間にも相当量の武器類が出回っているものと考えてよいだろう。

これまで、反政府組織による外国人を狙った誘拐行為などは起きていないようだ。また、一般のナガの人たちは礼儀正してく親切だが、どこの国にも悪い奴はいるものである。政治的な問題はさておき、そういう者が武器を持って強盗を働いたり、山賊行為をしたりということは当然あるはずだ。

インド国内にありながらも、インド文化圏外にあり、南アジア世界と東南アジア世界の境目にあることを感じさせてくれるのがこのエリアだ。ただしこの「世界の境目」もまた、ナガランド、マニプル、ミゾラムなど、州や地域により民族や文化習慣等も様々であることは大変興味深い。

北東インドらしくサッカーは盛んなようだ。こちらは地元の大会のポスター。

〈完〉

ナガランド州モコクチュンのクリスマス 1

昨年のクリスマスはナガランド州のモコクチュンで過ごした。

90%以上の人々がクリスチャンであり、またその中の大半がバプティストという紛れもないキリスト教環境にある中、欧州とは異なる場所にありながらも、本格的なクリスマスを体験できる場所であることを期待した。

ナガランド州最大の街ディマープル発のモコクチュン行きのバスが、アッサム州のジョールハート近郊のマリャーニーを通る(このルートはナガランドの道路事情が良くないためアッサム州を経由して走行している)するはずなのだが、クリスマス直前のため、減便して運行がなされているとのことで、待てどもバスは来なかった。

そんなわけで、同様にバス待ちをしていた人たちとタクシーをシェアしてモコクチュンを目指さざるを得なかった。シェアする人たちはナガランド人ではなく、アッサムを含めた平地のインド人たちで、ナガランドで軍の基地の出入りの業者その他、ナガランドで何がしかの仕事をしている人たちであった。

ナガランド州は、インドにありながらもイギリス領時代からこれまで長きに渡り、他州の人たちの出入りを原則禁じてきた地域である。パーミットを得てのみ入域が可能で、中央政府関係の仕事、軍関係の任務に携わる人たちに加えて、道路建設や建物の建築作業その他の作業に関わる人たちがやってくるとともに、数は決して多くない観光客が訪問する程度であった。

長く続いてきた地元の反政府勢力と政府軍との内戦、同時に同じナガ族の反政府組織やその他周辺民族の武装組織同士の武力抗争等もあり、治安面での印象は決してよくなかったため、それほど多くの人たちがナガランド州を目指してきたわけではない。2011年の元旦から、外国人はナガランド州ならびにミゾラム州とマニプル州への入域が原則自由化され、それに少々遅れてインド人もパーミット無しで入ることができるようになったようである。

現在もナガランド、ミゾラム、マニプルの三州で反政府武装組織は存続しているのだが、政府側との停戦が功を奏して、治安面での改善が見られるようになったことが、内外の観光客によるこの地域への訪問の自由化に繋がったわけである。

まだ先行きの不安は否定できないものの、2011年に「とりあえずは1年限り」として自由化されたものが、すっかり定着しているところを見ると、今後大きなトラブルが生じない限りは、今後もこのままで推移するものと思われる。

入域の自由化の数年前から、インド中央政府が運営するインド政府観光局は、従前より自由に訪問できたアッサム州、メガーラヤ州と合わせて、北東諸州の観光についてキャンペーンを張ってきた。その背景には、石油をはじめとする地下資源に恵まれたアッサム州、石材と石炭を豊富に産出するメガーラヤ州を除けば、北東州でもとりわけアッサムの東側にある四州(ナガランド州、ミゾラム州、マニプル州、トリプラー州)については、開発が遅れており、これといった産業も資源もないだけに、財政的に中央政府が全面的に面倒をみるしかない状態から脱却すべく、唯一可能性がある観光面での発展に期待をかけているという現実がある。

それはさておき、平地との往来が制限されてきた地域であるだけに、州境を越えただけでずいぶんな違いが感じられた。アッサム州らしい茶園が広がる風景の中、しばらく山間の坂道を上った先にはナガランド州境のチェックポストがあり、モンゴロイド系の風貌をしたナガランド警察のポリスたちがクルマの中を覗きこむ。

そこからさらに進んだところにある集落では、平地から来たらしき人の姿はチラホラ見かけるものの、マジョリティは私たちと同じモンゴロイド系の人々となってしまう。あたりに点在するヒンドゥー教のお寺や祠はなく、十字架を掲げた教会の景色となる。州境を挟んでクルマで30分ほど走っただけで、カルカッタから成田の空港まで飛んだくらいの大きな違いがあるといっても過言ではない。

アッサム州から入ると、しばらくは良好な道路であったものの、進むにつれて道幅がとても細くてガタガタした部分が増えてくる。標高がさほどではないことを覗けば、ヒマーチャル・プラデーシュ州やスィッキム州と景色が似ている感じはするものの、路面状況はかなり劣るようだ。

沿道で道路等の工事作業をしている人たちの大半は平地のインドの人たちだが、集落や村に暮らしている住民の大半はナガ族の人々。ミャンマーに住んでいる人たちとも似ている気はするものの、この地には仏法が及ぶことはなかった。仏教的あるいはヒンドゥー教的なバックグラウンドのないモンゴロイドの人々というのは私にはあまり馴染みがないが、インドとミャンマーという、どちらもインド起源の大宗教が広く深く伝播した地域の境目にありながらも、この地域が空白地帯であったことが不思議に感じられる。

ナガランド州に入ってしばらく進んだあたりで昼食のために小休止した集落

スズキのヴァンに運転手含めて8名が乗ると大変窮屈である。マリャーニーから80キロ程度の距離ながらも、くねくねと曲がった山道であること、路面状況もあまり良好ではないため、5時間ほどかかりモコクチュンの市街地が見えるところまでやってきた。

山の斜面に広がるモコクチュンの町
今やどこでもケータイで繋がる時代

〈続く〉

オートリクシャーに関する苦情窓口

デリーのオートリクシャーの利用に関するトラブルについて、苦情の窓口があるのだそうだ。

How to Complaint Against errant Auto-Rickshaw Drivers in Delhi (kracktivist)

連絡先があるといっても、そこに電話が通じるのか、SMS送信やダイヤルしてみたところでどんな対応をしてくれるのか、そもそもちゃんと応対しているのかということもあるし、話は聞いてくれたにしても、組織だった対応をしてくれるのかといえば、また別の話になる。

もちろんこうした窓口が存在するのはデリーに限った話ではなく、他の都市にもいろいろあるようだ。だが首都デリーにおいても、オートに関するトラブルには事欠かないため、以前も幾度かとり上げたように、これを是正しようと活動しているNyayabhumiのようなNGOがあるほどだ。

オートリクシャー・スター・クラブ 1 デリーの路上の星たち (indo.to)

オートリクシャー・スター・クラブ 2  頑張る路上の星たち (indo.to)

NyayaBhoomiのオートリクシャー (indo.to)

運転手たちの生活権が守られているような労働環境ではないため、利用者側だけではなく運転する側にもいろいろ言い分はあるのだろうが、これについてはまた別の機会を設けて書いてみることにいたしたい。

ビルマハイウェイ

ビルマ系米国人の歴史家、タンミンウーによる原書「WHERE CHINA MEETS INDIA」の和訳版である。著者は1961年から10年間に渡って国連事務総長を務めたウー・タン(ウ・タント)の孫にあたる。

原書の初版は軍政期の2010年に出版されている。この年の11月に実施された総選挙を以て、「民政移管」されたことについて、あまりに軍にとって有利なシステムで選挙が実施されたことにより、「軍政による看板の架け替えに過ぎない」「欧米による経済制裁解除狙いが目的の茶番劇」と酷評された選挙であった。

「実質は軍政の継続」と批判されつつも、経済面では「中国による野放しの専横」がまかりとおっていることへの危機感とともに、「東南アジア最後のフロンティア」としての潜在力と市場規模を持つミャンマーへの制裁解除のタイミングを待っていた先進諸国の反応は迅速で、一気に大量の投資が流入することとなり、ご存知のとおりの「ミャンマーブーム」となっている。

そんなわけで、この本が執筆された当時からそれほど長い年月が経過していないにもかかわらず、すでにミャンマーを取り巻く環境は大きく変わってきている。それほど変化は早い。

新興市場としての魅力、新たな「世界の工場」としての先進国からの期待と同様の思いを抱きつつも、利用価値の高い陸続きの隣国として、戦略的な意図での取り込みを図る国々もある。

自国の内陸南部からインド洋への出口を狙う中国。中国との接近により国内北部の平定を企図するミャンマー。

隣国ミャンマーに対する中国の進出に危機感を抱いて挽回を狙うとともに、自国北東部の振興を期待するインド。中国に傾斜し過ぎることに対するリスク回避のため、カウンターバランスとしてインドへの接近を試みるミャンマー。

こうした各国の思惑が交錯するとともに、地元の人々もまた分断された国境の向こうとの繋がりに期待するものがある。もともと北東インドはインド世界の蚊帳の外にあるとともに、ミャンマー北西部はビルマ族自身が完全に掌握をしたことのない周辺地域であった。

北東インドにあった王国は、アホム王国のように現在のタイ・ミャンマーにまたがって分布しているタイ系の民族によるものであったり、マニプル王国のように現在のミャンマー領に進出したりといった具合に、相互にダイナミックな往来がある地域でもあるのだが、現在は国境から両側がそれぞれ、もともとは従属していなかったインドあるいはミャンマーの国の領土として固定されてしまっているとともに、往来が希薄な地の果ての辺境という立場におかれるようになっている。

そんな現状も、東南アジア地域への陸路による出口を求めるインド、中国とのカウンターバランスを期待するミャンマーの交流の活発化により、「地の果て」が南アジアと東南アジアという異なる世界を結ぶ物流や交易の現場として、いきなりスポットライトを浴びて表舞台に飛び出してくる可能性がある。もちろんこれまであまり知られていなかった観光地としての期待もある。

そうした動きの中で、先進国による経済制裁の中で、これとは裏腹に強固に築き上げられたミャンマーと中国の間の深い経済の絆、ミャンマーが属するアセアンの国々による政治や投資での繋がり等と合わせれば、これら政治・経済、人やモノの流れが幾重にも交差することになるミャンマーの地勢的な利点は非常に大きい。

やがては単なる市場やモノづくりの拠点としてではなく、東南アジア、中国、南アジアという三つの世界を繋ぐ陸の交差点として、大きな発言力を持つ大国として台頭する日がやってくるようにも思われる。

そんな未来の大国へと成長する可能性を秘めたこの国について、様々な角度から検証しているのがこの書籍である。ぜひ一読をお勧めしたい。

書名:ビルマハイウェイ

著者:タンミンウー

翻訳者:秋元由紀

出版社:白水社

ISBN-10: 4560083126

ISBN-13: 978-4560083123

 

書名:Where China Meets India

著者:Thant Myint-U

出版社:Faber & Faber

ISBN-10: 0571239641

ISBN-13: 978-0571239641