カナダとインドの国際結婚 印度華人

コールカーターを訪れる際にはいつもお邪魔させていただいている在印華人のCさんから手紙をいただいた。今年の華人の旧正月では、彼女のお店に獅子舞のチームが三つも訪れてハッピーな正月であったようだ。PCを使うような年代の方ではないので、コールカーターでお会いするとき以外は、彼女とのやりとりはいつも手紙である。

その中で、ちょっと興味深いことが書かれていた。カナダに家族と一緒に移住している甥がこのたび在印華人女性と婚約したとのこと。インドの新聞広告で、在外のインド人が結婚相手を求める記事を見かけることはよくあるが、華人であり、とりわけ北米に移民して育った若者ともなれば、すっかりカナダ人化して日常生活の中で知り合った人と結婚するものとばかり思っていたが、こういうこともあるらしい。お相手はチェンナイ在住の華人家族の娘さんだそうだ。

カナダには、在加華人としてはマイノリティであるインドから移民した華人たちの「同郷会」もあり、先祖のルーツである中国各地出身のコミュニティへの帰属意識以外に、「印度華人」という意識も強いということは聞いているが、やはり数世代暮らした土地、自分の生まれ故郷に対する愛着もあるのだろうし、人的なつながりも健在らしい。

私が印度華人に関心を抱いていることをよく知っているCさんは、コールカーターを訪れるたびに、一緒に中国茶を啜りながら、「この間はどの話をしたっけ?」と、しばらくニコニコして考えながら、いつも興味深い話をして下さる。

前回、正月(西暦の)に訪問した際には、彼女が幼かった頃の華人たちの正月(旧正月)の親族の集まり、子供たちへの紅包(お年玉)のことなど、楽しい想い出話を聞かせていただいた。裕福な華人実業家であった彼女の父親には、もうひとつの家庭があったこと、その家庭との行き来も盛んであったことなども、あっけらかんとした様子で話して下さった。もっとも、当時はおおらかな時代であったので、決して珍しいことではなく、子供たちにとっては同じ親類であったとのことだ。

私はまだ北米を訪れたことはないが、いつか在印華人たちが多く移住したヴァンクーバーやトロントといった街を訪問して、インド出身の華人の方々のお話を伺う機会を得たいものである。

「英語圏」のメリット

コールカーターで、ある若い日本人男性と出会った。

インドの隣のバーングラーデーシュに4か月滞在して、グラーミーン・バンクでインターンをしていたのだという。これを終えて、数日間コールカーターに滞在してから大学に戻るとのこと。彼は、現在MBAを取得するためにマレーシアの大学に在学中である。

マレーシアの留学生政策についてはよく知らないのだが、同級生の半分くらいが国外から留学しに来ている人たちだという。

今や留学生誘致は、世界的に大きな産業となっていることはご存知のとおりだが、誘致する側としては英語で学ぶ環境は有利に働くことは間違いなく、留学する側にしてみても英語で学べるがゆえに、ハードルが著しく低くなるという利点があることは言うまでもない。

同様のことが、ターゲットとなる層となる自国語が公用語として使われている地域が広い、フランスやスペインなどにも言える。これらに対して、国外に「日本語圏」というものを持たない日本においてはこの部分が大きく異なる。

出生率が著しく高く、世帯ごとの可処分所得も潤沢な中東の湾岸地域にある産油諸国においては、急激な人口増加に対する危機感、そして石油依存の体質から脱却すべく、自前の人材育成に乗り出している国が多く、とりわけ欧米諸国はこうした地域からの留学生誘致に力を入れている。昨年、UAEのアブダビ首長国で開かれた教育フェアにおいては、日本も官民挙げて力を注いだようだが、来場者たちは日本留学関係のエリアはほぼ素通りであったことが一部のメディアで伝えられていた。

投資環境が良好なUAEにおいては、Dubai International Academic Cityに各国の大学が進出して現地キャンパスを開いているが、それらの大学はほぼ英語圏に限られるといってよいだろう。やはりコトバの壁というものは大きいが、こういうところにもインドは堂々と進出することができるのは、やはりこの地域との歴史的な繋がりと、英語力の証といえるかもしれない。

日本政府は中曽根内閣時代以来、留学生誘致に力を入れているものの、現状以上に質と規模を拡大していくのは容易ではなく、「留学生30万人計画」などというものは、音頭を取っている文部科学省自身も実現不可能であると思っているのではないかと思う。仮に本気であるとすれば、正気を疑いたくなる。

もともと日本にやってくる留学生の大半は日本の周辺国であり、経済的な繋がりも深い国々ばかりであり、その他の「圏外」からやってくる例は非常に少ない。また、日本にやってくるにしては「珍しい国」からの留学生については、日本政府が国費学生として丸抱えで招聘している例が多いことについて留意が必要である。そうした国々からは「タダで学ぶことができる」というインセンティブがなければ、恐らく日本にまでやってくることはまずないからである。

身の丈を越えた大きな数を求めるのではなく、質を高めるほうに転換したほうが良いのではないかと思うが、ひょっとすると、少子高齢化が進む中で、外国から高学歴な移民を受け入れて、労働人口の拡充に寄与しようという目的もあるのかもしれないが、実際のところは、学齢期の人々が漸減して、冬の時代を迎えている国内の大学の生き残りのための政策なのではないだろうか。

こればかりはどうにもならないが、もし日本が「英語圏」であったならば、様々な国々からの留学生の招致は現状よりももっと容易であったに違いない。

ヤンゴン空港ウェブサイトを眺めて思う

いつから出来たのかよく知らないが、最近ようやくヤンゴン空港ウェブサイトが開設されている。

諸外国や国内各地からのフライトの発着状況が確認できるようになっていて、なかなか好評らしい。国際線は今のところ近隣地域を行き来するものが多いとはいえ、ここ数年間で便数は驚くほど増えていることから、2007年開業で近代的ながらもこじんまりとした国際線ターミナルは、ほどなく手狭になってしまうことだろう。ちなみに旧態依然の古い国内線ターミナルも今年3月から新築された建物に移転している。

インドの隣国、このところ目まぐるしく変化していくミャンマーの旧首都にして最大の商都でもあるヤンゴンに関するニュースは、日本を含めた各国のメディアに登場しない日はほとんどないと言っていいだろう。

「国際社会」というのはいい加減なもので、2010年11月に実施された総選挙による「民政移管」について、茶番だの軍政による看板のかけ替えに過ぎないなどといろいろ批判していた割には、新体制がスタートして積極的な改革意欲とその実施を目の当たりにすると、いきなり現在なお沸騰中の「ミャンマー・ブーム」に突入することになった。

確かに、2008年にデルタ地帯を中心にサイクロン・ナルギスによる甚大な被害がもたらされたその年に強硬採択した新憲法により、224議席から成る上院、440議席から成る下院ともに、それぞれ四分の一の議席が国軍による指名枠であり、これと現在の与党であり軍籍を離脱した元国軍幹部を中心とするUSDP (Union Solidarity and Development Party)が過半数を確保すれば実質の軍政は安泰という、旧体制に著しく有利な安全弁を備えての「民政」となっている。

この憲法の変更を目指そうにも議会の四分の三+1の支持がなければ不可能であるため、仮に選挙で選ばれる四分の三の議席を軍に敵対する勢力が奪取したとしても、国軍により指名された議員の中から民主勢力に寝返る者が1名出ないことには、憲法を変えることができないという、非常に高いハードルがあるため、将来に渡って憲法改正の可能性は限りなくゼロに近い。

それにもかかわらず、旧体制のやりかたをそのまま引き継ぐのではないかと危惧された新体制は、予想以上のスピードで「国際社会」の意に沿う形での改革に積極的に取り組み、政治・経済両面での自由化を推し進めた結果、「民主化が進展している」と評価される形になっている。

国外にいて、ビルマ語も判らない私たちにとっても見えるミャンマーの「迅速な改革」が可能であることの裏側には、それを上意下達的に着実かつスピーディーに実施できるシステムが機能しているわけであり、「軍政から看板をかけ替えた」だけの新体制であるがゆえのことだろう。

もっとも、「軍政=悪」という図式について、個人的には疑問に思うところがある。ミャンマーの「軍政」については、1962年にネ・ウィン将軍のクーデターによる政権奪取、そして彼が組織した「ビルマ式社会主義」を標榜するBSPP (Burma Socialist Programme Party)による支配から始まるものとするか、1988年の民主化要求運動の最中に起きたソウ・マウン国軍参謀総長によるクーデター、そして1990年の総選挙結果を無視しての民主化勢力の弾圧と軍事支配の継続を指すかについては意見の分かれるところかもしれない。

しかしながらBSPP時代も党幹部の大半は軍幹部からの横滑りであったことから、1962年から続いてきた軍政であるといって差し支えないことと思う。

それはともかく、ビルマの民族主義運動が高まっていく過程で、第二次大戦による日本軍の侵攻、占領下での傀儡政権の樹立、日本の敗戦とともにイギリスによるビルマ支配の復活といった動きの中で、この国の民族主義運動とは多民族から成るモザイク国家の人々すべてがこれに共鳴する形にはならず、多数派のビルマ族によるビルマ民族主義運動がこれをリードすることとなった。

植民地時代にイギリス当局は、少数民族がマジョリティを占めていた各地では、主に藩王国を通じて間接統治をしていたわけだが、ビルマの独立以降はこうした地域について、中央集権的なシステムに移行、つまり言語その他の様々な分野で国粋化すなわちビルマ民族化する形で統治していくことを目論んでいた点が、同様に多民族から成るインドとは大きく異なっていたと言える。

とりわけ1962年のネ・ウィン将軍のクーデターによる政権樹立以降は、ビルマ族以外の格民族語による教育や出版活動等が困難となり、教育の仲介言語も英語からビルマ語に置き換えられることとなった。旧英領の国でありながら、また教育はそれなりに、少なくとも初等・中等教育は広く普及しているにもかかわらず、英語の通用度が著しく低いことには、こうした背景がある。

多民族から成る国における「ビルマ民族主義」による統治の是非にまで言及するつもりはないが、これに反旗を翻して各地で活発な反政府武力闘争が続いてきたこの国で、国土の統一の継続を成すには、どうしても軍の力に頼らざるを得なかったという現実があった。

ゆえに、この国の「民主化」が進展しているとしても、各民族との和解に至って、すべての民族が対等な立場になったという訳ではないことについては今後も注視していく必要があるだろう。

これまで各地で国軍と武闘を繰り広げてきた反政府勢力と中央政府との和解の例がいろいろと伝えられる昨今ではあるが、政府側が彼らを慮って高度な自治を認めるようになったというわけではなく、政治的にも経済的にも安定してきた(・・・がゆえに、先進国による経済制裁解除を念頭に、憲法改正、そして総選挙の実施という手続きを踏むことができるようになった)政府に対して、武力で拮抗することができなくなったからである。ゆえに和解した地域では社会のビルマ化が進展し、和解を拒む地域に対しては断固たる軍事圧力をかけているという実態があるようだ。

そういう状況であるだけに、今後もまだ紆余曲折はあることとは思うが、今後も政治の改革や経済の開放とこれら対する外資の堰を切ったように流入にはブレーキがかかることはないはずだ。

今や改革と自由化の旗手となった現政権を激しく批判する国はほとんどなくなっており、政府は国際世論をあまり気にすることなく、反政府勢力を「テロリスト」であるとして厳しく処分するお墨付きを得たような状態でもある。

政治というものは実にゲームのようなもので、「軍政」は、そのルールを巧みに利用して自らを延命するどころか、今や諸外国から賞賛されるような存在になっている手腕には、舌を巻かざるを得ない。

だが今も実は形を変えた軍政が継続しているとしても、人々が総体的に豊かになっていくことを下支えしているとすれば、これもまた決して悪いことではないのではないかとも思う。独立以来、各地で内戦が続いていたこの国で「国防」の意味するところは、国内で反政府勢力に対する軍事作戦を断行するというものであったが、ようやく相当程度の安定を得ることができた昨今は、軍事関係に割いていた力を経済や民生の分野に振り向けることができる。

真の民主化であろうが、隠れた軍政の継続であろうが、より多くの人々が安心して生活していくことができ、昨日や今日よりもベターな明日を期待することができる国になることのほうが大切なことであると私は思うのである。

コールカーターの中華レストラン「トゥン・ナム」

コールカーターの宿で出会った日本人旅行者と食事に出かけた。アテにしていたこの街の一番古くからある中華レストランの「欧州飯店」に電話をかけてみたが、誰も出ないのでどうやら休みらしい。

街の東郊外にある華人地区のテーングラーまで出るのは面倒なので、ラール・バーザール近くの旧中華街に行くことにした。カルカッタ警察本部のあたりでタクシーを降りる。このあたりから先はムスリム地区になっている。

道沿いにあるモスクのスピーカーからは、怒りをぶちまけるかのような過激な調子で、ウルドゥー語による内容も扇情的な説法が大きな音で流れている。こういうタイプのモスクがあると、ムスリム住民でもこれに同調しない人も多いだろうし、近所に住んでいたり、たまたま通りかかったりする非ムスリムのたちは、不安をおぼえるのではないかとさえ思う。

さて、チャターワーラー・ガリーを進んでいくと、暗い夜道ながらも漢字で書かれた赤いお札が貼られた家屋がいくつもあるので、今も華人たちがかなり暮らしていることが感じられる。

小さな店で商っている華人たちは、混血しているので一見ネパール人?と思うような風貌の人たちが多い。中国大陸からの移民は19世紀後半から20世紀初頭にかけての清朝末期、その後の国共内戦にかけて、中国の政情が混乱していた時期にインドに流入してきたわけだが、とりわけ初期の移民の大半は男性であった。当然の帰結として伴侶に現地女性を求めたケースが多かったがゆえに、現在コールカーターに居住している華人の間では、やはりどこかでインド人の血が入っていることは往々にしてある。

さて、小路を進んでいくと、チャターワーラー・ガリーとスンヤートセーン・ロードが交差するあたりにあるのが、この旧中華街に今も残る中華レストラン「トゥン・ナム」である。ちなみにスンヤートセーン・ロード(Sun Yat Sen Rd.)とは、中国や台湾で言うところの「中山路」に当たる。Sun Yat Senとは、孫逸仙こと孫中山、言うまでもなく孫文のことであるからだ。

平行している道路はLu Shun Sarani、つまり「魯迅路」であり、まさに中華街らしいロケーションである。しかしながらこの界隈からの華人人口の流出は著しく、隣接するムスリム地区に呑み込まれてしまっているのだが、かつて華人の屋敷であったと思しき建物は今もそのような雰囲気を残しているし、いくつかの中国寺院や華人たちの同郷会館なども見かける。

さて、レストラン「トゥン・ナム」で席に着いて料理を注文する。経営者は客家人家族。「トゥン・ナム」とは、客家語で「東南」かな?などと想像してみたりもする。二人で訪れると、いろいろ注文できていいものだ。ご飯の豚肉あんかけ、魚と豆腐の炒め物、チョプスィー、ワンタンスープその他を注文した。どれも美味であった。インドの中華は炒め物でも最後はグレイビーに仕上げるのが特徴。やはり乾いたご飯と乾いたおかずでは食べないようになっている。

店内のお客たちの多くは中華系の人たちであった。豚肉を出す店であるがゆえに、この地域と隣接するムスリム住民たちをまったく相手にしていないということになるが、それでもかなり繁盛しているようである。

経営者家族は華人。注文聞きはインド人で、トイレを借りると途中で見えるキッチンの様子から、料理しているのもインド人であることがわかった。それでも味はちゃんとした中華なので、みっちりと教え込んであるのだろう。

先述の欧州飯店では家族以外の料理人を雇うことなく、門外不出のレシピとで調理をしているとかで大変美味しいのだが、トゥン・ナムも負けず劣らずいい料理を出してくれる。やはりインドにおける中華料理の本場コールカーターの旧中華街に店を構えているだけのことはある。

Chinese Restaurant 「Tung Nam」(火曜定休)

24 Chattawala Gully, Kolkata 700012

Phone.22374434 / 9831635767

 

フェアローン・ホテル 2

壁に掲げられた家族写真や新聞の切り抜き

壁に飾られている家族の写真などを見ても、ここに植民地時代から続く白人系のファミリーの生活の様子を想像することができて、いかにもコールカーターらしい宿であるといえよう。壁には英国王室の安っぽいポスター的なものが飾られていたり、ここの宿について書かれた古い新聞記事の切り抜きが飾られていたりするのは俗っぽいのだが、それでもここの宿がどういう具合にメディアに取り上げられているかを見ることができて楽しい。

一応は「ヘリテージ・ホテル」ながらもゴチャゴチャと俗っぽい

部屋のクオリティから考えると、ちょっと割高な宿ではあるのだが、建物そのものの雰囲気は良く、植民地時代の白人の屋敷の雰囲気を感じられるのはいいと思う。

フェアローン・ホテルの一日は、すでに90歳を超えている女主人、ヴァイオレット・スミスさんの登場から始まる。やや朝寝坊の宿泊客たちが朝食を摂り始めるあたりで、宿のスタッフ(雇用されているのは、もちろんすべてインド人)に両脇を抱えられて、グラウンド・フロアーのテラスに置かれた専用チェアーに着席する。

足腰は弱っているものの、艶やかにメイクをした彼女は、宿泊客たちに実にしっかりと、そして堂々と応対しており風格がある。中高年の西洋人の滞在者が多いこともあり、彼女はすぐさま彼らに取り囲まれて、和やかな会話が始まる。こんなところが、この宿の人気が長く続いている理由のひとつだろう。今のインドにおいては存在しない、旧植民地の「欧州人クラブ」のような雰囲気があり、しかしながら欧州系ではなくても宿泊客は何の遠慮もなくその会話に加わることができるのは、現在の社会において当然のことであり、私たち日本人ももちろんその雰囲気を楽しむことができる。

非常に社交的ながらも下世話なトピックにも長けて、「下宿屋のおばさん」的な風情も漂わせるヴァイオレットさんがだが、家族経営ながらもこのホテルのスタッフがキビキビと宿泊客にスキのない対応をしているのは、人の出入りが多いこの時間帯に目を光らせているからであることは言うまでもない。

まさにそれがゆえに、そう遠くない将来に彼女がこのように存在感を示すことができなくなったときに、このホテルのありかたが大きく変わるのではないかという危惧を抱かせるものがある。やはりここに宿泊するならば、女主人のヴァイオレットさんが元気なうちに、ということになるだろう。

〈完〉