第23回東京ダジャン

今年で23回目となる東京ダヂャンが千代田区の日比谷公園にて、4月13日(日)に開催される。長らく北区の飛鳥山公園で開催されてきて、一時期吉祥寺市の井の頭公園に場所を移し、その後日比谷公園で開かれるようになっている。

こうしたイベントでは往々にしてその国の駐日大使館が「後援」名義を与えていたり、来賓として最初に少し顔を出したりするものだが、東京ダヂャンについてはそうしたものは一切なく、純粋に日本で生活するビルマ市民たちの集まりである。

もともと日本に在住するビルマの人々はほとんどいなかったのだが、1988年の民主化デモとそれに続くクーデター、1990年の総選挙におけるNLDの大勝利という結果を無視して、政権を移譲することなく軍政の続行という時代に、祖国での迫害を逃れて、あるいはそうした状況に希望を失って他国に活路を求めた人々の中で、行き先に日本を選択する例が少なくなかったため、突如として日本の東京その他の大都市を中心に、ビルマ人コミュニティが出現することとなった。

その中で、政治活動を志す活動家がどれほどの割合で存在してきたのかはよくわからないが、多くは生活の糧を得るために日々忙しく働いてきたことだけは知っている。それでもあまり政治に関心のないという人は珍しく、多くは自身でできる範囲で、余暇の時間に祖国を良くするための政治活動に時間を割いたり、経済的な負担を引き受けたりしてきている。

とりわけ88世代と呼ばれる、1988年のデモに端を発した民主化要求運動の時代に、中心的な活動家として、あるいはそれを周囲で支えたり、あるいは賛同して運動に加わったりした大学生を中心とする当時の若者たちの世代はその傾向が特に強い。

多民族国家だけあり、ビルマ人としてのまとまりを欠く部分はあるかもしれないが、日本における民族ごとの活動も盛んである。そうした各民族が集まってビルマ正月を祝うというのがこの集まりである。

当日は好天に恵まれて、賑やかで和やかな集まりとなることを期待したい。

 

第23回東京ダジャン(ビルマ市民フォーラム)

 

 

著名人の政界への転身

有名なスポーツ選手やタレントが選挙に出馬することが多いのは、社会で知名度が高いため広告塔としての効果が期待できること、そしてもちろんのこと有名であるがゆえに、たとえ新顔であっても個人的な人気により、浮動票を集めて当選する可能性が高いからでもある。

もちろん政治活動を続けてきて政界に通じている人物、経済活動や社会活動を通して高い見識を身に付けて来たような候補者と異なるため、素人扱いされることも少なくないが、社会の様々な層の人たちの意見を代弁する議会という場で、他と背景がまったく異なる人たちが加わるのは悪いことではない。

さて、そうしたスポーツ選手やタレントが選挙で候補者として登場することが少なくないのはインドも同様で、今回のローク・サバー選挙においては、俳優のパレーシュ・ラーワル、射撃選手でオリンピック銀メダリストのラージャワルダン・スィン・ラートール、クリケット選手として活躍したモハンマド・カイフ等々が出馬しているが、西ベンガル州だけを見てもサッカーの元インド代表のエース・ストライカーであったバイチュン・ブーティヤーとベンガル語、ヒンディー語映画等で活躍した女優、ムーン・ムーン・セーンが、マムター・バナルジー率いるTMC(トリナムール・コングレス)から立候補する。

ベンガル人であり、ミドナプル地区から出馬するムーン・ムーン・セーンはともかくとして、スィッキム州出身のブーティヤー族であるバイチュン・ブーティヤーがダージリン地区から出馬していることについては、いろいろな波紋を投げかけることになっている。

西ベンガル州のダージリン地区は、同州内の他の地域とは地理的、文化的、人種的な要素が大きく異なる。インドが英領であった時代に当時のスィッキム王国(現在のスィッキム州)から割譲された地域ということもあり、ブーティヤー族の住民も多い。それがゆえにダージリン地区においては盤石とは言えないTMCの有力候補として擁立されたわけである。

TMC candidate Baichung Bhutia campaigns in Darjeeling (The Indian EXPRESS)

だが同地区は長年、西ベンガル州からの分離活動が盛んであった地域であり、ネパール系の住民たちの利益を代表するGJM(ゴールカー・ジャンムクティ・モールチャー)がその流れを牽引している。TMCは、ネパール系ではないものの、サッカー人気の高いこの地域において、近隣地域であり、居住地域が重なることから民族的にも馴染みの深いブーティヤー族出身のバイチュン・ブーティヤーに期待をかけているはずだ。しかしながら地元のTMC活動家たちは、バイチュンのGJMとの融和的な姿勢について不満を隠さないという具合で、党内部でもいろいろ摩擦が生じていることがうかがえる。すでにひと月近く前の記事ではあるものの、参考までにリンクを掲載しておく。

Baichung Bhutia draws ire of local TMC leaders after seeking GJM support (The Indian EXPRESS)

 

 

さくらフェスティバル2014

インド大使館の改装前には「さくらチャリティーバザー」として親しまれてきたインド大使館の春のイベントだが、現在は「さくらフェスティバルと改名して現在に至っている。

今年は4月2日(水)から6日(日)までの開催で、時間は午前11時から午後9時まで。3月25日に桜の開花宣言がなされた東京の花の盛りは過ぎてしまうことになりそうだ。最も盛大となるのはやはりその期間中の週末にあたる5日(土)と6日(日)ということになるのだろうが、すっかり暖かくなってきたこの時期、夕方以降に訪れてみるのもいいかもしれない。

長かった冬も終わり、春めいた気候になってくると身も心もウキウキしてくる。まるで枯れてしまったかのような佇まいで寒い時期を過ごしてきた桜の木だが、暖かくなってくると一斉に花を咲かせて1年が始まるというのは実にドラマチックだ。

年度末、そして年度初めと、仕事をしている人たちにとっては非常に多忙なこの時期ではあるものの、咲き誇る淡いピンク色の桜の花は、私たちみんなの心を和ませてくれて嬉しい。

ナコーダー・マスジッド

ナコーダー・マスジッドのエントランス

アーグラー郊外のスィカンドラーにあるアクバルの廟を模しているとされる、コールカーターのナコーダー・マスジッド。現在のグジャラート州西部のカッチ地方を起源とする商業コミュニティにより建造されたスンニー派のモスクで、1926年に完成している。

この街のモスクを代表する存在であるといえるが、地元のコミュニティではなく、国内とはいえ現在のインドの西端からやってきたムスリムたちにより建造されたというのは、いかにもコスモポリタンなコールカーターらしい。同時にこのあたりにはグジャラート州などインド西部起源のムスリム住民が多いのではないかという推測もできるだろう。

この地域は旧中華街、旧ユダヤ人地区等と交わる昔からの繁華街。元々、欧州人でも地元ベンガル人でもない外来の人々が多く定住したエリアなので、前述のグジャラートから移住したムスリムたちにも都合が良かったのかもしれない。

1万人の礼拝者を収容できる大型モスクなのだが、狭小地に建てられているがゆえに、伝統的なムガル様式を踏襲した建物ながらも、礼拝堂が多層構造になっているのが特徴だ。

エントランスのあるザカリア・ストリートからよりも、ラビンドラ・サラニからの側面の姿のほうが見事な造形を楽しむことができる。モスクが面している道路とキブラの方向とのズレを、建物が捻じれた構造にすることによって解決してあるため、ちょっとだまし絵のような印象も受ける。

ラビンドラ・サラニから眺めるとこんな具合

ユナーニー医学の腹薬

周囲は門前町となっており、様々なイスラーム関係のグッズやその他の日用品などを商うイスラーム教徒の商売人たちの店や露店が所狭しと賑やかに並んでいる。モスクのエントランス正面にあるAMINIA HOTELという食堂は、このバーザールで最も早い時間帯から開く店のひとつのようだが、まだ辺りが薄暗いうちから店のスタッフたちが準備を開始して、通りを行き交う人々の姿が多少目に付くあたりには営業を開始している。ここのネハーリーは絶品なので、朝の時間帯にここを訪れる際にはぜひ味わっていただきたい。

AMINIA HOTELでは、もちろんそれ以外の時間帯にも各種ケバーブ類その他、おいしいイスラーム系料理が沢山用意されている。いかにも下町の大衆的な料理屋さんといった風情で、エコノミーながらも味わいは本格的で、ナコーダー・マスジッドの向かいというロケーションも最高だ。夕方遅い時間帯になっても営業しているので、ぜひともナコーダー・マスジッド詣でとセットで訪れたい。

久美子ハウス

四半世紀以上も前のことになるが、バナーラスの久美子ハウスに宿泊したことがある。日本人宿というものに特段の興味や関心があるわけではないのだが、当時は泊めてもらう前に「面接がある」だの、その面接で「落とされる人がいる」だのといった噂を耳にしていた。落とされた人というのは、当然そこに宿泊させてもらえず、他の宿を当たらなくてはならない。観光客の多い街で、界隈には他の宿泊施設も多いので困ることはないのだが、お客に対してそんなに居丈高な宿が本当にあるのかと不思議であった。

当時大学生であった私は、友人と初めての海外旅行で訪れたインドであり、目にするものすべてが物珍しく、迷路のようなバナーラスの街はどこか異次元の世界のようでもあった、昼間はどこまでも人々でごった返している小路を進んでいき、ようやくたどり着いた先に「久美子ハウス」と日本語で書かれた看板が目に入るにあたり、ホッとした気分になった。

「面接」といっても何を聞かれたのかは今となってはまったく記憶していないが、確かにそれらしきものはあった。久美子さんの夫でヒゲ面のシャーンティさんが流暢な日本語でいろいろと質問、といった具合であったのではないかと思う。

料金はいくらであったかも記憶していないが、ドミトリーで朝晩の食事が付いていて、バックパッカーが利用する宿としても最安クラスであったはずだ。食事というのは、かすかに醤油の味がするようなしないような汁の中にブツ切りの人参と大根がプカプカ浮かんでいる鍋のようなもの?と大きな器にドカ盛りされたご飯を各自好きなだけ取り分けて食べるといった具合。

思えばちょうどホーリーの時期であった。着替えが一揃いしかないので、衣服をダメにすると、なけなしの旅行資金から捻出して新しい服を買い求めなくてはならなくなるので、屋上から通りの下を眺めているだけであった。そういう日とは知らずにバナーラスの鉄道駅に降り立ったという人たちは、全身物凄い色になって宿に転がり込んできていた。

安旅行者を相手にしている宿であるだけに、面倒な問題を起こす旅行者が少なくなく、中には警察沙汰になったり、時には行方不明になったりしてしまう滞在者もいるなど、なかなか大変であったようだ。それに加えて宿が多くて過当競争になっている地域にありながらも、客引きに頼むこともなくしじゅう宿泊客の日本人たちが出入りする、経営環境としては非常に恵まれた立場にあるだけに、周囲の同業者から妬まれるということも耳にしていた。そういう事情があったため、宿泊者への「面接」というのが行われていたのだろうと思う。

こうした環境でもまれてきたからなのだろうが、久美子さんといえば、やたらと眼ヂカラのある豪放磊落な感じがする女性、肝っ玉母さんという印象がある。元来世話好きでもあるようで、ときには「口うるさいオバハン」と疎まれたりすることもありながらも、朝夕の料理のときには長期滞在者の誰かしらが手伝っていることが多かった記憶があるし、久美子さんもそうした人たちを気軽に「使い走り」に駆り出していたりもしていた。なかなか普通の宿ではありえないことだろう。

数か月単位の長期で滞在している人たちも少なくなく、安ホテルというよりも、賑やかな下宿屋といった風情の久美子ハウスであった。ガートに面した建物の屋上からのガンジス河の景色は良かったし、月夜に照らし出された河面の眺めも最高だった。当時はまだ幼かった可愛い子供さんたちも、とうの昔に成人してコテコテのインド人になっていることだろう。

その後、久美子ハウスに逗留したことはないのだが、幾度かバナーラスを訪れてガートを散歩中にこの宿のあたりを通りかかると、当時のことを思い出したものである。

そうした記憶もすっかり遠くなってしまった今、FB上で複数の方々が久美子ハウスについての記事を取り上げられていて、とても懐かしい思いがする。久美子さんもお元気そうで何よりである。なんでも今では久美子ハウス2号館というのもあるとかで、商売繁盛のようである。

-次期経営者募集?!-久美子さん(ウッタル・プラデーシュ州バラナシ在住)(LIVE INDIA)