旧くて新しいホテル4

また、近年になって新築された『宮殿風』ホテルも各地でしばしば見られるようになっている。これらを『ヘリテージホテル』と呼べるものかということもあるかもしれないが、ずいぶん前に『築浅の宮殿風ホテルもいいかも?』として、マッディヤ・プラデーシュ州のオールチャーにあるAmar Mahalというホテルについて触れてみたことがある。

インドの人々の間で90年代に起きた旅行ブーム以前は、農地と荒蕪地の間に崩れかけた遺蹟が点在している状態だったオールチャーだが、今では地域のメジャーな観光地のひとつになっている。これについて『再訪1寒村からリゾートへ』で述べたことがある。この記事中にある「ペルシャ庭園風の見事な中庭を備えた同クラスのホテルも2003年6月に開業」とは、先述のAmar Mahalのことだ。観光資源の存在と同様に、こうした宿泊施設の存在も観光による地域振興に寄与するところは大きいだろう。

Shahpura House

ラージャスターンのジャイプルの閑静な住宅地、バニー・パーク地区では近年観光客向けの宿泊施設が増えている。特に1952年築の建物をホテルに改築したShahpura Houseは評判が高いようだが、個人的には以下のふたつのホテルがとても印象深かった。

Umaid MahalUmaid Bhawanである。どちらも近年になって建てられた新しい施設だが、上手にヘリテージ風に仕上げてある。どちらも同じ退役軍人が所有している。

Umaid Palaceのエントランス

華麗な外観が目を引くとともに、ひとたび足を踏み入れれば、ラージャスターンならではの絢爛な装飾とクラシックな装いがマッチした空間にすっかり参ってしまう。料金は1800~3000 Rs超といった程度の中級レベルで、このクラスの料金帯の部屋ないしは施設自体が『宿泊する人を魅了する』ということは、他ではまずあり得ないことだ。

Umaid Bhawanの道路に面したゲート
Umaid Bhawanのスイートルーム(ソファ背後のカーテンの奥は寝室)

こうした味わいのある『ご当地ホテル』が増えてきている中で、当たり外れもあるだろう。また他のインドの宿泊施設同様、ノウハウの欠如か意識の問題なのかはさておき、経年劣化が著しいところも今後出てくることと思う。それでも泊まって楽しいヘリテージホテルが増えていくことは、宿の選択の幅が広がるという観点からも喜ばしい。

<完>

テロリズムの種

このところいくつかベンガル関係ネタが続いた。そのついでにベンガルを舞台にした映画について取り上げてみることにする。

アーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督の映画『Khelein Hum Jee Jaan Sey』(生死の狭間で)は半年以上前に公開された作品であるが、遅ればせながらこの映画について思ったことを綴ってみたい。

この映画は1930年にチッタゴン(現バーングラーデーシュ東部の港町)で実際に起きた武装蜂起事件を題材にしたものである。

反英革命を夢見る活動家集団に、サッカーに興じるグラウンドが英軍のキャンプ地として収用されてしまったことに不満を抱く少年たち等が加わり訓練を施された。少年たちは資金調達にも協力している。

彼らはわずかな武器類を手に、夜陰に紛れて軍施設、英国人クラブ、鉄道、電報局等を襲撃する計画を実行に移す。軍施設でも武器庫に押し入ったものの、弾薬類がどこに保管されているのかわからず、その晩は聖金曜日であったため、クラブから英国人たちは早々に帰宅してしまっており肩すかしを食うこととなった。

そのため現地駐在の英国の植民地官僚や家族などを人質にして、軍施設から奪った武器弾薬類で革命を拡大させていくという目論見は大きく外れる。事件勃発直後にすぐさま反撃に出た英軍(もちろん幹部を除いて大半の指揮官や兵士は同じインド人たちである)を前に貧弱な装備のままで蜂起グループは敗走することになる。近代的で豊富な軍備を持つ軍により、メンバーは次々に殺害・拘束されていき、蜂起の首領たちは潜伏先で軍に生け捕りにされる。

蜂起に加わった一味は、裁判にて流刑、首謀者たちは死刑を宣告される。チッタゴン中央刑務所に収容された蜂起のスルジャー・セーンと革命の同志は、ある未明に刑務所内の処刑場に連行されて絞首刑に・・・といった筋書である。

ヒンディー語による作品であるが、舞台がベンガル地方であるため、ところどころベンガル語による会話が挿入されたり、登場人物や地名等の発音がベンガル風になっていたりして、それらしきムードを醸し出すようになっている。

アビシェーク・バッチャン演じる主役の元高校教師の革命家スルジャー・セーンは、映画では触れられていなかったが国民会議派の活動家としての経験もある。1918年にインド国民会議派のチッタゴン地域のトップに選出されたこともあり、なかなかのやり手だったのだろう。ベンガル地方東部の田舎町を拠点にしていたとはいえ、後世から見たインドの民族運動の本流にいたことになる。

だがその後、思想的に先鋭化していった彼は武闘路線を歩んでいくこととなる。1923年にベンガル地方の主にヒンドゥー教徒たちから成る革命武闘集団、ユガンタール党のオーガナイザーのひとりでもあり、地元チッタゴン支部で活動しており、この映画で描かれた1930年4月に発生したチッタゴン蜂起の首謀者となった。

インドの記念切手

ちなみにインドでスルジャー・セーンは、1978年に記念切手に描かれたことがあり、バーングラーデーシュでも彼の生誕105周年にあたる1999年に記念切手が発行されている。

時代物の映画はけっこう好きなのだが、こうした愛国的な内容のものとなると、そこにはやはり制作者と『国家意識』のようなものが色濃く反映されることになるため、第三者の私のような者が鑑賞すると咀嚼しきれないものがある。

舞台設定のすべてが史実に基づいているのかどうかはよくわからないのだが、年端の行かない10代の少年たちを巻き込んで、軍駐屯地を襲撃して奪った武器弾薬をもとに革命を拡大させるという、あまりに稚拙な計画といい、聖金曜日を知らないという無知さ加減といい、天下を取ることを企図していたにしては、あまりにお粗末である。

それはともかく、絞首台に上ったスルジャー・セーンの目には、刑務所の建物に翻るインドの三色旗の幻が描かれているが、1947年に東パーキスターンとしてインドから分離独立、そして1971年にパーキスターンから独立して現在のバーングラーデーシュが成立している。つまりスルジャー・セーンと彼の仲間たちが闘ったその地に、結局インドの三色旗が翻ることはなかった。

もちろん後の東パーキスターンとしての独立にも彼らの活動が寄与したとはいえず、反英闘争の中で儚くも志半ばにして消え去った革命の無残な失敗例である。ただし現在は外国となっている東の隣国で、かつてインド独立を夢見て闘争を展開した『同朋』たちを描き、印パ分離の不条理を訴えたものという見方はできるかもしれない。

だがスルジャー・セーンという人物自体、英雄視されるにはちょっと疑問符の付く人物ではある。そのため武闘路線に走る性急な過激派のボスとそれに引きずり込まれていく無垢な若者たちという具合に見えてしまう。時代と思想背景は違っても、カシミール、パーキスターンその他でテロに走る若者たちが、そうした道を歩んでしまう背景にも、こうした『テロの種を蒔く』似たようなメカニズムがあることと思う。

作品中でスルジャー・セーンは善人として描写されているため、これは制作者の意図しているものではないであろうが、この革命家の抱く大義を普遍的な英雄的行為として捉えることは難しい。

この映画を観た結果、どうも消化不良なので、この映画の原作となった本『Do and Die: The Chittagong Uprising: 1930-34』(Manini Chatterjee著)を読んでみたいと思っている。

蛇足ながら、作品中に少し出てくる鉄道から眺めたこの時代のチッタゴンについて少々興味深い点がある。下の鉄道路線図(1931年当時)が示すとおり、現在のインドのアッサムから海港チッタゴンをダイレクトに結ぶ旧アッサム・ベンガル鉄道会社によるメーターゲージの路線が走っており、経済・流通の関係では今のインド北東部との繋がりの深い地域であった。そのため印パ分離による経済面での不都合はアッサム・東ベンガル(現バーングラーデーシュ)双方にとって大きなものであることがうかがえる。

 

1931年当時のベンガル地方の鉄道路線

 

 

バーングラーデーシュ国鉄本社は首都ではなくチッタゴンに置かれており、現在の同国鉄路線図の示すとおり、国土の東側はメーターゲージで、西側は分離前にコールカーターを中心としてネットワークを広げていたブロードゲージがカバーする形になっている。

バーングラーデーシュ国鉄路線図

歴史的に異なる幅の軌道が混在していたインドでは、近年インド国鉄の努力により総体的にブロードゲージ化が進んできている。それとは逆にバーングラーデーシュではブロードゲージの路線にメーターゲージの車両が走行できるように『デュアルゲージ化』を進めてきた。ブロードゲージの軌道の中にもう一本レールを敷いて、メーターゲージの列車が走行できるようにしてあるのだ。

バーングラーデーシュ側では、メーターゲージ路線の距離数のほうが多く、また資金面でも費用のかかるブロードゲージ化で統一することは困難であること、ブロードゲージのインド側から貨物列車で石材等の資材輸入等といった事情があるようだが、ゲージ幅の違いを克服するために両国でそれぞれ異なるアプローチがなされているのは面白い。

東日本大震災 インドからの救援チームも被災地入り

 日本の東北地方太平洋沿岸を中心に大きな被害を出した東日本大震災の被災地にて、イスラエルの医療チームが現地入りして診療活動を開始している。 

被災地域の方々の医療受診機会の不足が伝えられている中、日本における医師資格を持たない(外国の医師資格を持つ)医療従事者によるこうした活動は、我が国では初めてのことであるとのことで、今回の震災被害の深刻さがうかがわれる。 

その他さまざまな方面での救援活動についても、世界の多くの国々から様々な形で支援の手が差し伸べられているが、インドからも救援隊が現地入りして活動を始めている。 

India sending 45-member search and rescue team to Japan (hindustan times) 

インド 救援隊を日本に派遣へ (NHKニュース) 

インドの隣国パーキスターンからも食料や飲料水その他の救援物資が到着しているとともに、在日パーキスターン人の有志の方々が支援物資の配布や炊き出し等を現地で行なってくださっているとも伝えられている。 

世界各地の国々、様々な地域の方々による暖かい支援と励ましに感謝いたしたい。

原発は不可欠?

電力供給の3割を原子力発電に依存している日本だが、同時にその輸出は国家戦略のひとつとしても位置付けられている。とりわけ今後は途上国において原子力発電の需要の伸びが大きく期待できるからである。

このたびの福島第一原子力発電所の事故は、各国で原発建設推進についての見直しの動きを生むこととなり、同時に地震大国において高い技術水準を背景に『震災に強い原発』を運転しているというイメージが崩れてしまった。

当面は現在進行中の事故に対する対応が最も大切なことであるが、今回の事故は同原発の1号機から5号機まで、営業運転開始日は異なるものの、どれも40年前後と旧い設計のプラントであったとはいえ、中・長期的にも日本の原発事業の海外への展開という面においても不利に作用するのは避けがたいようだ。

ところでインドにおける電力供給源としては、原子力発電は火力、水力に次ぐ第3位にある。マハーラーシュトラ州のターラープル原発のように、1969年という早い時期に操業開始したものもあるが、総体で見ると原子力への依存度はわずか3%と日本のそれに比べてかなり低いのが現状だ。

しかしながらインド政府としては、2050年までに総発電量の4分の1を原子力によるものとすることを目標にしており、今もいくつかの原発の建設が急ピッチで進むとともに、新たな発電所の計画も多い。

そうした中で地震による津波により発生した福島第一原子力発電所の事故について、AERB (The Indian Atomic Energy Regulatory Board) は、当初これが明るみに出た直後には『我が国で同様の事故が発生することはありえない。どんな最悪の災害にも充分耐えることができるようになっている』といった声明を出した。これに対して各メディアからは多くの懐疑的な意見が出ていたが、当のAERBもすぐにインド国内すべての原発の安全性に関する調査に乗り出している。

AERB to reassess safety measures at Indian N-plants (THE HINDU)

今回、深刻な規模の原発事故を起こした日本だが、このたびの原発事故により東京電力管轄地域では恒常的な電力不足に見舞われることが明らかとなった。その解決には近い将来新たな原発を設置するしかないということになるのだろう。今は原発そのものに対する不安感と警戒の色を隠せない世界各国も、これまた遠くないうちに原子力発電へと回帰せざるを得ないだろう。またインドを含めた途上国のいくつかは、現時点において原発推進の姿勢に変化はないという強気な態度を明白にしている。

事故を起こすことさえなければ、火力発電に比べて環境に負荷が少ないこと、また相場の変動が激しく供給に不安定感のある石油に比べて、ウランは安定的に取引されていること、水力発電のようにダム建設を含めた広大な用地取得の手間がなく、発電の効率が優れていることなどが主な理由となる。

とりわけ重要なのは、経済発展に伴い逼迫している電力需要だろう。たとえ現状ではなんとか事足りていても、年々高率で成長を続けている新興国の場合、5年後、10年後には事情が大きく異なってくる。

India Todayのウェブサイトでも、福島第一原子力発電所の事故に関するニュースは連日トップで扱われていることは、自国の原子力政策に対する不安の裏返しかもしれない。

Radiation inside Japan’s Fukushima Daiichi nuclear plant rises sharply, workers evacuated (INDIA TODAY)

だが結局のところ、脱原発という動きにはならないだろうし、すでに原子力発電を行なっている国々、今後導入しようとしている国々の大半もそうだろう。これまでの安全基準の見直しと、より周到な危機管理の実施云々といったところで、これまで敷かれた規定の路線をそのまま進んでいくことになるはずだ。

今から半月ほど前に福島第一原子力発電所を襲ったのは『想定外の規模の津波』であったが、国によってはそれ以外のリスクもあることは忘れてはならない。もちろん人為的なミスにより原発事故が起きたケースもこれまであったが、テロあるいは外国からの攻撃という可能性を想像するだけで恐ろしい。

果たして私たちは、そうしたリスクも背負い込んだうえで『原発は不可欠である』とする覚悟は出来ているのだろうか?覚悟せずとも、原発なしには喫緊ないしは近未来の電力不足に対応できず、結局それを受け入れざるを得ないという現実があるのが悩ましい。

地震・津波そして原発 2

 現在、東日本の多くの地域が輪番による計画停電の対象となっている。買い占め等により、生活物資やガソリン等の供給に支障が生じている。沖縄県の友人によると、彼が住んでいる石垣島でもスーパーマーケットの棚からインスタントラーメンが姿を消したとのことだ。 

被災地に立地していた工場からの供給や交通の途絶という部分もあるが、多くは一時的に需要が極端に膨張したことに対して供給が追いつかないことによるものであることから、時間とともに解消していくはずだ。 

電力不足のため、鉄道も便数を減らして運行している。商店も夕方早く店じまいするところが多くなっており、企業その他も普段よりもかなり早い時間に職員を帰宅させるようになっている。 

このたびの震災により、身内の安否を心配したり、家にいる時間が長くなったりしたことにより、家族との絆、自分にとって一番大切なものは何であるかに気付かされたという人は少なくないことと思われる。 

今回の災害に関する一連の報道において『未曾有』『想定外』という表現が頻出しているが、そもそも気象その他に観測史というものは決して長くないし、数十年という短いスパンの生涯を送る人間と違い、地球のそれは比較にならないほど長い。そのため自然界で起きる事象について、私たち人間が知らないことはあまりにも多い。ゆえに『想像を絶する』現象は今後もしばしば起きるはずだ。 

普段は『あって当たり前』であった電力の供給が不足することにより、被災地でなくとも交通や物流等で大きな混乱を生じることとなっている。被災地の外であっても、東日本地域で暮らしていれば、ここしばらくは今回の地震による影響を忘れることは片時もないだろう。 

今回の地震にから教訓を得て、新たな天変地異に備える心構えは大切だし、災害により強い街づくりも必要だが、これを機に私たちの暮らしのありかたを見直す必要もあるのではないかと思っている。生活や仕事のインフラがいかに脆弱なものであるかということが明らかになるとともに、これまで『地震に強い』『絶対に安全である』とされてきたものへの信頼感は完全に崩壊してしまった。 

同時に日本という国への信用という点でも大きく傷ついたことは否定できない。良好な治安状況は変わらないにしても、地震という固有のカントリーリスクが今後さらに重く意識されることになる。 

ただでさえ危機的状況にある国の財政事情だが、これからは甚大な被害を出した地域への復興支援という重圧がのしかかる。これを機に衰退してしまうということはないにしても、将来へ明るい展望を抱くことができるようになるには、当分時間がかかりそうだ。 

だがここが私たちの国である。不幸にも被災された方々に手を差し伸べることができなくとも、何か自分のできることを行ないたいし、同様に日本人である自分たちが日々取り組んでいる仕事が、間接的ではあるものの何がしかの形でこの国の復興に貢献していると信じて一日、一日を大切に過ごしていきたいものだ。 

<完>

※サートパダー2は後日掲載します。