嫌煙権と言うコトバが生まれたのは30年くらい前のことだという。もちろんその背景には、世間でタバコの害について認知が進んだことが背景にある。非喫煙者の副流煙による間接喫煙を原因とする健康被害にあいたくないという、ごくまっとうな意見が静かにしかし着実に浸透し、分煙化が進んでいくことになった。
確かに古い映画、ドラマ、報道番組などを目にすると、事務所内がタバコの煙でもうもうとたちこめていたり、デスク上の灰皿がてんこ盛りになっていたりして、画面から匂ってくることはないとはいえ、今とはずいぶん違う雰囲気を感じる。
当初は交通機関や多くの人々が利用するスペース等に『禁煙車両』『禁煙コーナー』といったものが設けられ、煙がくることを望まない人が特別にしつらえた環境下でそれを避けることが可能となったが、その後さらに喫煙規制が進んだ結果、『喫煙車両』『喫煙所』という形で、タバコを吸う人たちを特定の場所に囲い込むことになる。つまりスタンダードな立場が喫煙者から非喫煙者たちのほうに移ったわけで、地道に進められていった喫煙規制運動の勝利といえる。
もちろんこれは日本に限ったことではなく、世界中でほぼ共通の現象であり、特に規制の進んでいる地域に比べて、日本では人々の所得水準に比してまだまだタバコの小売価格が安いが、喫煙率も同様に比較的高い水準にあるのもそのためだろう。
日本のメディアのウェブサイトに、以下のような記事があった。
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世界のたばこ事情
価格水準 先進国の中では低め
(北海道新聞)
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そういえば、インドもそうだが諸物価に比してタバコが高い国々では、しばしば10本入りパッケージが売られている。あまりにお金がかかるので「やめよう」と思いつつも、『この小さい一箱で終わりにしよう』なんて手を出してはそのままズルズル・・・という姿や、禁煙3日目あたりの人が『ちょっとだけ、この小さなパッケージだけ・・・』なんて妥協しては元の木阿弥なんていう人の姿が目に浮かぶようだ。
だが一本ずつのバラ売りというのは、それ以上に注意を要する存在である。やめるつもりでも日に数回禁煙を『いとも簡単に中断』できるし、『スパッとやめたぜ』などと公言しつつも、ポケットからコインを出して一本買っていたりする。それでも箱で購入していないので、禁煙の誓いに負けたなんていう気がせず、『オレはタバコやめた』という自信が揺るがないのが不思議だ。しかし手元にあるタバコの数を制限できるので、節煙になることは間違いないが。
現在の私自身はといえば、喫煙者とも非喫煙者ともいいがたいものがある。たとえばどこかで酒を飲むときはタバコが欲しくなって吸うし、自宅をしばらく離れて旅行するときには一時解禁ということにしている。もちろん帰宅するとスパッとやめているつもりだ・・・とはいえ、やはり未練が残っているので完全にタバコから縁が切れたとは言い難い。
ところで『オレは止めないぞ』と喫煙意思の固い人たちも決して少なくはない。そういう人たちは、禁煙時代の飛行機での移動、とりわけ国際線の利用となるとかなり困るらしい。ターミナルビルの外で吸いだめしてみたところで、出発2時間ほど前にチェックインし、目的地にもよるが概ね長いフライト時間、到着してからも行列しての入国手続きや両替等を済ませ、ようやく外に出てからタバコに点火。『やれやれ、これだから飛行機は嫌だなあ』といった具合なのだそうだ。
何かと便利なモノが次から次へと出現して、あの手この手で消費者の懐をうかがうこの世の中、そういう人にピッタリ(?)な商品がすでに出ているようだ。電子タバコなる代物で、その名もSUPER SMOKER。どんな味なのかよくわからないが、どうせならもうひと捻り加えて、世界的にメジャーな銘柄のテイストを選択できるようにすると、かなり好評を得るのではないかと思ったりもする。
電子タバコ「Super Smoker」がヘビースモーカーの命を救う!? (MSMデジタルライフ)
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解禁から2年 東京の店頭にインド産マンゴーは並ぶのか?
2年前からインドからのマンゴー輸入が解禁となっているが、なぜか日本国内・・・というか少なくとも東京都内の店頭ではトンと見かけず、あるのは『メキシコ産』『フィリピン産』『タイ産』といった従来どおりのラインナップ。いったいどこで売られているのだろうか・・・と不思議に思っているところだ。でもよくよく目を凝らすと、加工品の類はそれなりに出回っていることに気がつくこのごろ。
あるスーパーでマンゴージャムなるものを見かけた。ごく普通の小さな瓶入りのもので、価格は1480円とある。どんなものかと興味を引かれたが、ちょっと高すぎて手が出ない。その横に並ぶのはマンゴージュースで200ml入り350円。インド料理レストランと食料品輸入とを行なう日本の会社が手がけているもので、同社は他にもインドからその他のマンゴー加工製品や蜂蜜なども扱っているようだ。
ジュース、ジャム、缶詰といった具合になってしまうと、どれも同じような味になってしまうので、やっぱり期待したいのは生の果実がドカンと大量に入ってくること。インドのマンゴーを、日常的にアメ横あたりでダミ声のオジサンが台車で叩き売りするくらいになってくれるとうれしいのだが。品種豊富な中で、好みもいろいろかと思うが、とりあえず生果実がふんだんに入ってくることがあれば、何であっても御の字である。
マンゴーの世界での総生産高のおよそ半分が収穫されるというマンゴー大国インド。日本の食卓に供給する余力充分(・・・たぶん)と思いたいところだが、時期が時期だけに、今の時期までに店頭になければ本格的に期待できるのは来年以降になってしまうのが寂しい。
お寺が遠くなる
本日6月2日の朝日新聞朝刊第3面に『寺離れ 地方も都会も』という記事が出ていた。地方は過疎や高齢化のため、都会では地域の共同体の希薄化で、お寺離れが進んでいるのだそうだ。また総体として核家族化の関係もあり、各世帯が経済的負担を敬遠することもひとつの要因だという。
日本の『お寺』には、三つのタイプがあるのだそうな。まずはお布施の収入中心の檀家寺、そして拝観料で稼ぐ観光寺、交通安全などの祈祷料が大半の祈祷寺だという。日本にある8万6千ほどの寺の9割以上が檀家寺であると書かれている。そうしたお寺が、檀家獲得のためにいろいろな対策を打ち出していることも触れられていた。法要の際の送迎サービスを提供したり、地方の寺が都会のマンションの一室を借りて『分院』を設置したりといった具合に。
一人の妻と複数の夫
インディア・トゥデイの5月28日号でちょっと興味深い記事があった。ヒマーチャル・プラデーシュのキンナウル地区での一妻多夫制度のことである。この地域に暮らすヒンドゥーのあるコミュニティの人々は、兄弟で一人の嫁を娶ることが伝統だったらしい。昔から嫁には相続する権利もなく、兄弟である複数の夫が配偶者を共有するということで、女性が複数の男性をかしずかせて支配するという構図ではない。
もちろん今の時代、法的にはこういう結婚の形態は認められていないのだが、なにぶん保守的な土地で片田舎ということもあり、今でもこうした形で兄弟が一人の女性を娶るという習慣が続いている。記事中で取り上げていた実例は一人の妻に二人の夫というパターンだが、中には4人も5人もの夫を持つ妻もあるのだという。いずれも複数の夫は兄弟同士であるようだ。
この記事でこの習慣を『奇習』として取り上げているのではもちろんなく、むしろ耕地に限りがある山岳地での生活の知恵といった具合に、好意的に書いてあるようだった。いくつかの一妻多夫家庭の実例を取り上げたうえで、この習慣がむやみな人口増加や土地が細分化を防いで人々の生活水準を一定に保つ役割を果たしてきたかをわかりやすく説いている。また複数の男性が一人の女性と愛を営みそして世帯を持って子供たちを育むという、仮にそれが代々続いてきた習慣であるにしても、精神的にも物理的にもけっして易しいとはいえない状況下で、家族が円満に生活していくうえでの互いの気遣いなどにも言及されていた。
ただしさすがに今の時代には、誰もがこうした慣わしで結婚していくわけではなく、『近ごろ一妻多夫結婚は2割にも満たない』ともある。辺鄙なところに暮らしていても、やはり外界からの影響は及ぶとともに、ここから都会へと出て行く人も多い。これまで自らが暮らす地域でほぼ完結していた社会がもっと広がりを持つようになってきたことから、土地伝来の結婚のありかたや家族のありかたが大きく揺らいできている。
インディア・トゥデイの英語版では、この巻は5月26日号ということになり、件の記事は58ページから61ページにかけて掲載されているので、ぜひご覧いただきたい。
関係ないが、この号の表紙には先日ジャイプルで起きた爆弾テロ事件で、サイクルリクシャーに乗ったまま犠牲になった若い男性の写真が大きく使用されている。亡くなった本人やその遺族のことを思うと、こういう画像がマスメディアに堂々と使用されることについて、なんだかやりきれない思いがする。
だがテロの悲惨さについて、文字だけで伝えようとしても言葉に尽くせないものがあるはず。だが一枚の画像には、千も万もの言葉以上に強く訴えかけてくるものがある。物事の本質を伝えるため、ときにはそういう露骨な写真が使用されるのもやむを得ないと私は考えている。むしろ刺激が強すぎるものすべてに覆いを被せて見えなくしてしまっては、何か大切なものを見失ってしまうことも往々にしてあるのではないだろうか。
しかしながらインパクトの強さのみをアテこんで、これでもかこれでもかと生々しく憐れな写真が次から次ぎへと出すようなメディアには決して感心できないことはもちろんだ。その点、この雑誌はいつも適度に抑制が効いていると思う。
こういう事件は決してあってはならないし、いかなる理由があっても正当化されるものではない。でもこんな出来事が毎年のように起きていることに、インドが置かれている困難さを感じずにはいられない。ジャイプルの事件で、不幸にして命を奪われることとなった方々のご冥福をお祈りしたい。
三国は世界なり
『三国一の花嫁』『三国一の幸せ者』云々といった表現があるが、平安時代後期にはすでに定着していた言い回しのようだ。もともとこの『三国』とは、日本・唐土・天竺のことで、当時の日本の人々にとって、これはまさに『世界』を意味するものであった。
自らが暮らす日本はともかくとして、様々な新しい文物や高度な思想の源泉たる先進地中国への敬意、釈尊が教えを説いた大地インドへの憧憬がある。人々がこの時代の唐土や天竺がどのくらいの広がりをもって認識されていたか、そもそもどういう地理的観念を持っていたかについて私はよく知らない。
それでも極東の地日本から西側にある大陸部が、地理的に日本に近い部分に位置する唐土とそれより西方にある天竺としてとらえられ、その周辺に存在していた様々な国々については、これらふたつの大きな『二国』に集約されるものという考え方がなされていたのではないだろうかと想像している。
ただし人物の往来が盛んであったことから、唐土の文化なり人物なりに直接触れた経験を持つ人々から伝えられた。しかし天竺についてはこの唐土という分厚いフィルターを通して眺めたものであったことから、非常に具体性を欠くものであり一次情報の極端な不足からこれを把握するには相当なイマジネーションを要するものであったことは言うまでもない。
日本からタイなりカンボジアなりのインドシナ地域の国々を訪れると、中国からの色濃い影響とともに、インド文化からの強いインパクトも感じる。伝統的な建築、衣装、舞踊といったものだけでなく、人々が使う言語の中におけるインド系語彙の豊富さ、年中行事や宗教儀礼や式典等にも見て取れるだろう。おそらく生活してみると他にもいろいろ目に付くところがあることだろう。
こうした地域でも自国に中国・インドを加えて『三国一の・・・』という言い回しがあるのかどうか知らないが、長いこと中国とインドという二大国は圧倒的な存在感を持って認識されていることは確かだ。両国は、欧米列強の蚕食下ないしは植民地支配期にしばらく影の薄い時代があったものの、前者は1980年代以降世界経済の表舞台に台頭、後者もまたそれに一足遅れて90年代半ば以降から脚光を浴びることになっている。どちらもかつての強大さを取り戻すべく驀進しているように見えないだろうか。
両国が今後さらに経済力と国際社会での発言力を増すにつれて、アジア地域において『三国』という言葉が今後よく用いられるようになるのではないかと予想している。つまりどこの国であれ自身が生活の軸足を置く母国に加えて、アジアの中で突出した存在である中国とインドを合わせて『三国』と呼ぶ時代が今にやってくるのではないかと思うのだ。
たとえば、アジア地域で自国、中国、インドで人気を博すことを『三国一のメガヒット商品』『三国の市場を席巻する大ブーム』なんていう風に言うと、それら三つの国々の周辺にある国々はすでに含まれていることは言わずもがな、アジア全域に及ぶセンセーショナルな大ヒットといった表現になるのだろう。