IRCTC (アップデート)

昨年の今ごろ、インド国鉄の傘下組織であるIRCTC (Indian Railway Catering and Tourism Corporation)のウェブサイトを通じたインド国鉄のチケット予約について、そのコツ(・・・というほどでもないが)を取り上げてみたが、現在はかなり状況が変化しているため、新たに記しておくことにした。 

インド国外で発行されたクレジットカードを使用する場合、以前はVisa、Masterともにちゃんと手続きできたのだが、残念なことに現在はアメックスのカードを除き、IRCTCの予約サイトで決済できなくなっている。 (近い将来これもまた変わるかもしれない)

従前より、ウェブ上でインド国鉄チケットを購入できるところはといえば、前述のIRCTC以外にはインドのトーマスクックなど有名だが、やはりIRCTCと決済条件は同じで不可。目下、アメックスを除きインド国外で発行されたクレジットカードでインド国鉄の予約ができるサイトとしてオススメは、www.cleartrip.comである。 

上記サイトにアクセスして、画面右上のregisterをクリックして会員登録を済ませた後、画面左上にいくつか並んでいるメニューからtrainsを選択して予約作業を始めることができる。 

利用したい区間、列車の選択、クラスの選択に続き、空席照会してから予約、そして支払という具合だ。データはもちろんIRCTCのサイトと連動しているので、作業内容と手順は同じだ。 料金については、列車チケット料金に加えてIRCTCのサービスフィーがかかるところまでは同じ。加えてCleartripの手数料が20ルピーかかる。 

日本その他の国々から、年末年始に旅行でインドを訪れる方々は多いことと思うが、渡印前に鉄道を予約される際にこの記事が役立つことがあれば幸いである。

違いを越えて

 以下の動画は、デリーの地下鉄の女性専用車両に乗車している男性たちに対する取り締まりの様子だそうだ。 

Men beaten off women’s train in India (YouTube)

車両の中の男性たちが手荒に叩き出されている。なんとも哀れというか、みっともない有様ではある。後半の映像では、おそらく他の車両がひどく込み合っていて、ここにしか乗り込むことが出来なかったりしたのではないかと思うが、ずいぶん沢山の男性たちの姿がある。 

しかしラッシュ時にこそ女性専用車両の価値があるため、このくらい思い切った手立てが必要なのだろう。ジェンダーの違いによって生じる著しい不都合や不利益がある場合、これを是正する手段は不可欠だと思う。 

今やどこの国でも男女平等ということが言われているが、たとえばこの女性専用車両のように、ジェンダーによるこうした逆差別もときには必要であることは誰も否定しないだろう。 

そんなことからふと思ったのが、何をもって平等とするかということだ。雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律(通称:男女雇用均等法)が1999年に大幅改正された。これによって従前は努力規定であったものが禁止規定となった。 

あれから10年以上経つが、求人の際に性別は当然書かれていなくても、業務内容の関係上から実際に採用されるのはほとんど男性ばかり、あるいは女性ばかりというケースはよく耳にするし、待遇や昇進について事実上差があるというケースは少なくないようだ。もちろんそれも職場によりけりではあるが。 

しかし総体的には、これにより女性の社会参画が促進されたとされるし、反対にそれまで女性の職場とされていた分野への男性の参加も増えたことも間違いないようだ。法の下に働く人々の間のジェンダーの違いによる格差が、少なくとも建前上は否定されたことの意味は大きい。 

だが人は社会人であるとともに家庭人でもあり、その中での役割の違いというものもある。何も女性が家事の大半を担うべきであるなどと言うわけではない。子供に対して父親だからこそできること、母親でこそ可能なことなどいろいろある。また子供たちから見て父親にしてもらいたいこと、母親に期待することなどもいろいろ違うこともある。私たちの幼い頃を思い起こせば胸に浮かぶことはいろいろあるだろう。 

そのあたりも考え合わせると、1日24時間という限られた枠の中で、世の中の男女が同じ働き方をすると、しわ寄せが行くのは結局のところ家庭ということになってしまわないだろうか。そもそも結婚することさえ難しくなってしまうことはないのだろうか。 

不況が続き、雇用や収入に不安があるとはいえ、今のところ日本は平和で衣食住事足りた社会である。それにもかかわらず少子化に歯止めがかからないということは、生物学的には非常に矛盾した状況だろう。 

そんな中で、私たちから見て二世代くらい前の『人々の暮らし』から学ぶことも少なくないのではないかと思う。社会のありかたや仕事のやりかた等は時代とともに移ろうが、昔の人たちのやりかたが間違っていたわけではなく、今とは違った豊かさや温かみがあったはずだ。文化や伝統と同じく、世代を超えて受け継いでいくべき先人たちの『ワークライフバランス』の豊かな知恵があるのではないだろうか。 

ジェンダーの違いを越えた本当の『平等』や『均等』とは、必ずしも今の私たちがそうであると受け止めているものとは少し違うものがあるような気がしてならない。

在日ムスリムの人々の墓地問題に思うこと

 日本で暮らすムスリムの人々の間の墓地不足が深刻であることから、栃木県足利市にて新たに用地を取得しようとの試みが難航している。その原因は埋葬方法が土葬であることにある。下記リンク先記事にあるとおり、日本に暮らす彼らの人口は、外国籍の人々が約10万人、日本人が約1万人と推定されるとのこと。 

日本のイスラム教徒永眠の地は土葬の墓、住民ら反発 (asahi.com)

『日本人が1万人』の部分ついては、外国人ムスリムの方と結婚した日本人でその多くは女性、その結婚相手で日本国籍を取得した南アジア諸国をはじめとする外国出身の人々で多くは男性、そして夫婦の間に生まれた子供たちといったところがかなりの部分を占めるものと思われる。 

今日取り上げてみたasahi.comの記事によると、日本国内でイスラーム教徒向けの霊園は山梨県甲州市と北海道余市町の2か所だけであるとのことだ。アメリカによるアフガニスタン攻撃の際に同国の難民支援のための募金その他の運動を活発に行なった『大塚モスク』で知られる日本イスラム文化センターが墓地問題の解決に乗り出したところ、地元住民たちからの反発により、行政からの許可が下りずに足踏み状態が続いているということのようだ。 

土葬に対する反発は、習慣上の相違と公衆衛生上での懸念によるもののようだが、日本で火葬が普及したのは近世以降のことであったようだ。それでも神道的な価値観からの反発もあったようで、火葬に対する禁止令が出された時期がある。 

以降、火葬の技術が進歩したこと、人口の拡大と都市化の進展に伴い、衛生にかかわる問題はもとより埋葬地の取得も困難となることから、近代化とともに急速に火葬が一般化していくこととなった。 

現在でも墓地埋葬法によって土葬が禁じられているわけではなく、各自治体の判断と墓地管理者の裁量に任されているのだが、ほぼ日本全国で火葬が一般的であるのはご存知のとおり。 

イスラーム教徒やユダヤ教徒と同様に、キリスト教徒の間でも教義上の見地から土葬が行われてきたものの、国や地域にもよるが、日本同様に衛生面、用地取得、加えてコストの面から火葬を合理的な手段であると選択する人は決して少なくないようだ。保守的な価値観にはそぐわないものがあることは否めない。 

在日ムスリム人口がどのように推移について詳細なデータは持ち合わせていないが、かつて存在がゼロに等しかった彼らが近年急増していることは街中の様子を眺めるだけで実感できる。この世に生きている人々すべてが、やがて人生の終末を迎えることから、墓地の問題は是が非でも解決していかなくてはならない問題であることは誰も否定できないだろう。 

だが現地の反発にも理解できる部分がある。地元に縁もゆかりもない人たち、イスラームという、土地の人々にとってよくわからない信仰を持つ人たちの埋葬地を自分たちのところで引き受けるということを不条理だと感じる気持ちはごく自然なものであるともいえる。 

『他者への寛容』を唱えるのは易しいが、何処からともなくやってきたよく知らない相手に『どうかご理解・ご協力を』と求められたところで『ああそうですか』と受け入れるのは残念ながらそう簡単なことではないのだ。 

人の死に関する問題は墓地だけではない。過日、私の身近なところで、やがては自国に戻るはずであった西アジアのある国出身の若い男性が突然亡くなってしまった。人の死は老いてから訪れるものとは限らない。当然、彼の祖国の家族は遺体を故郷まで空輸することを希望した。それが可能な経済力のある人たちであったがゆえに遺体の運搬について特段問題はなかったのだが、もしそうした財力のない人であったとしたら、関係者たちにはどのような対応ができただろうか? 

これまで日本では馴染みがあまりに薄かったムスリム人口が一時滞在、定住ないしは永住を問わず増加していくにあたり、今後様々な摩擦が生じてくることは予想に難くない。現在報じられているこの問題は、まさに今後の日本社会に求められる在日ムスリムの人々をめぐる課題のはじまりであると思われる。

ニュース、報道、メディア・・・

 活字中毒・・・というわけでもないが、いつも手元に何かしら読み物がないと落ち着かない。小説でもノンフィクションでもいいのだが。加えて日々の出来事に目を通さないと何だかスッキリしない。日常の暮らしの中でも旅行先でも目覚めてから一番にすることといえば、新聞を広げながら朝食を取ること。 

朝起きてすぐに手に入らなければ、近くのマーケットに散歩がてら出かけて新聞売りを見つける。あるいは早い時間帯から鉄道、バスその他で移動する際には、駅やバススタンドで、まず最初に買うのはスナック類ではなく新聞だ。                                                                                                          

全国規模のメディアで広大なインドの政治、社会、経済等の様々なニュースを目にするとともに、ローカルな新聞も押さえておきたい。広域紙には出ない地元の出来事がいろいろ掲載されているので、数日間読み続けると今そこで話題になっているらしいことについておおよそ検討がつくようになってくる。 

往々にして退屈な記事が多いことも事実だが、例えばモンスーン期に激しい雨が降り続いているときにヒマーラヤ地方を旅行する際、あるいは付近で洪水その他の天変地異が起きている場合など、参考になることはとても多い。 

また政治関係も同様だ。アッサム等の北東州を訪れた際には、ULFA (United Liberation Front of Asom)やNNC(Naga National Council)をはじめとする各地の分離活動を行う組織にかかわる記事をいろいろ目にすることができて興味深いものがあった。北東州関係については、コールカーターあたりであっても、地理的に北東州に近いこともあり、そのあたりに関するニュースはその他の地域よりも格段に豊富だ。 

南インド、とりわけタミルナードゥやケーララあたりでは、新聞をはじめとするヒンディーによる印刷物はほとんど見当たらないものの、都市圏以外でも英字紙が豊富なのはありがたい。だいぶ前のことになるが、2005年12月のスマトラ沖地震による津波災害の際にちょうど南インドの沿岸部にいたため、いろいろ参考になった。 

各地でメディアの活動が盛んであることは言うまでもないが、報道の自由度が高く周辺各国とは大きな開きがある。人々の『知る権利』が尊重されているからこそ『読むに値する新聞』が豊富であることはありがたい。 

もちろん新聞といっても様々なので、報道の質についてはいろいろあり、それは報じる側、読み手側の双方のスタンス、加えてこう言っては大変失礼かと思うが、それらの質の問題もあることは否定できないのだが。もちろんそれこれは読み手自身がメディアを選択すればいい。 

報道の自由は必ずしも手放しで称賛できるものとは限らず、報道機関とて大きな資本によるいわば『営利事業』であるがゆえに、ニュースの『売り手』の事情が紙面に現れることがあってもおかしくない。また近年の民間放送局による視聴率を意識してのセンセーショナルな報道(興味本位の犯罪特集番組、ヤラセや捏造ニュース)や視聴者からの携帯電話のSMSによる人気投票的なマーケティング手法等、ちょっと良識を疑いたくなる面も否定できない。 

これを玉石混淆とまで言うつもりはないが、そうした様々なソースから流れるニュースを人々が個々の意志と良識で取捨選択できる状況は健全であると私は思う。 

ともかく新聞をはじめとするメディアにより、人々は国、地域や社会の動きを知り、自身の頭でそれを理解する。私たち外国人も同様にそれにあずかることができる。これはとても大切なことだ。ミャンマーや中国のようにメディアやネット環境にも大きな制約のある国々と比べるのは極端に過ぎるかもしれないが、インドという世界最大の民主主義システムの根幹にあるのは、活発で自由度がとても高い報道の存在であるといって間違いないだろう。 

政府により、報道に関する制約が厳格な国々以外に、現地のアンダーワールドな部分からの圧力により、メディア自身が事前に『自己検閲』をしてしまう国もある。たとえばメキシコのように政府と拮抗する勢力である麻薬カルテルによる報復への恐れから、これらの組織に関する分野は報じられないようになっているようだ。既存のメディアでは伝えられない『空白地帯』を一人の匿名の大学生(・・・ということになっている)によるBLOG DEL NARCOというブログが情報を流しているという状況は決して肯定できるものではないだろう。 

ブログ運営者のもとに、多数の発信者たちから連日大量の情報が写真や動画とともに届けられ、これらを編集したり裏を取ったりすることなく、そのまま掲載しているとのことだ。血なまぐさい内容が大半で、凄惨な画像も含まれている。 

すべてスペイン語で書かれているが、ブラウザにGoogleツールバーがインストールしてあれば、日本語に自動翻訳したものを読むことができる。いささかぎこちない和文となるものの、おおよその内容を掴むことはできるだろう。 

もちろんインドを含めた各国のメディアにおいても、報道する側の身の安全という点から世の中に伝えることが難しい事柄は存在するであろうことは否定できないし、もちろん日本もその例外ではないのだが、こうした出所のよくわからないソースによる情報を日々綴ったブログが、本来それらを伝えるべき報道機関に取って代わってしまうという状況はとても危うい。 

話はインドに戻る。

報道の本質にかかわる事柄ではないのだが、インドの外にある国々からしてみると、現地の各メディアによる各分野における英語によるニュース配信を大量に入手できることについても大きなメリットがある。とりわけインターネットが普及してからは、その感がさらに強まっている。 

全国ニュースからかなりローカルなものまで、各地のメディアによる立ち位置の異なるソースから手に入れることができるという点で、とりわけ非英語圏の国々に比べて非常に『オープンソースな国』という印象を与えることだろう。 

世にいう『グローバル化』とともにインターネットによる情報通信の普及と進化の過程の中で、これまで以上に英語が突出した存在感を示すようになっていることから『英語支配』の趨勢に対して主に非英語圏から危惧する声が上がっているが、インド自身はその英語による豊富な情報発信量から得ているメリットについては計り知れないものがあると思われる。 

もちろん英語による情報のみでインドという国を理解できるとは思えないし、カバーされる範囲にも限界がある。それでも英語という広く普遍性を持つ言語によるソースが非常に豊富であるという点から、私たち外国人にとっても非常に利するものは大きいといえるだろう。報道の自由度の高さと合わせて、インドのメディアは自国内のみならず国外に対しても、非常に公益性が高いとも言えるのではないだろうか。

バングラデシュ祭 2010

10月9日(土)と10日(日)に東京都北区の飛鳥山公園でバングラデシュ祭2010が開かれる。 

上記リンク先の同祭のウェブサイトにあるとおり、飛鳥山という土地自体がベンガル地方出身の詩聖タゴールと縁のあるところであるそうだ。 

在日の他の南アジアの人たちと比較しても、特に日本での定住率が特に高いように思われる。バブルの時期に大挙してやってきてそのまま居ついた人もあれば、留学生としてやってきて、学位取得後に日本国内で就職した人も多い。 

後者については、とりわけ理系の割合が高く高学歴志向だ。日本の大学で修士号以上を取った人たちも沢山おり、日本のIT系の会社で彼らの姿は珍しくない。また日本での生活が軌道に乗ると、故郷で家族が決めた相手と結婚して日本に呼び寄せるというパターンが典型のようで、日本人との結婚が多い前者と対照的だ。 

どちらも日本での定住・永住志向が強く、すでに日本国籍を取得した人も珍しくない。そんなわけで、今後みなさんも『ベンガル系日本人』と出会う機会もあるかと思うし、やがてはそういう両親の間に生まれた日本が故郷のベンガル人と知り合うこともあるかもしれない。 

日本・ベンガル間の人々の縁は今後ますます深まっていきそうな気がする。