パンカム村への道2

シャン族の家
村の「学校」

点在する村の居住する少数民族がマジョリティとなる山の中では、ビルマ語はあまり通じなくなるらしい。いろいろな言語が散在するこの国らしいことではあるが、村で同じ民族で集住しているため、使う必要がないということもあるだろうし、学校教育の普及程度の関係もあるだろう。

食料品類は基本的に自給自足の生活であるようだ。こうした形で少数民族が村単位で存続できた背景には、それで生活していけるだけの地味の豊かさがあったからに違いない。また周辺地域を統一しようとか、勢力を拡大しようという野望もなく、人々が平和に共存していくことができる状況が続いていたということにもなるのではなかろうか。

もちろん少数民族といっても皆が村に住んでいるわけではなく、町に出て働いている人たちも少なくないはずなので、皆がそういう伝統的な環境で暮らしているということにはならないが。

あれは仏教の寺だとWin氏が指差した先にあるのは、大きいながらも簡素な建物だ。門の上に翻る仏教旗がなければ、これがそうであるとはちょっと気が付かないだろう。規模が大きめな家屋ではないかと思うところだった。

シャン族の寺

通称、「シャントラック」と呼ばれる、中国製のクルマのシャーシーとエンジンと足回りを流用してトラックに仕上げた、創意工夫の賜物ともいえるトラックが大き目の農家の軒先にあったりする。近くを流れる川の水を有効に活用して、米、野菜、トウモロコシなどが栽培されている。このあたりでは様々な食用になる野草もふんだんにある。

シャントラック
トウモロコシの脱穀作業中
旨そうなスイカ

ガイドのウィン氏が指差した先には「マラリアに効く」という野草があった。当然、マラリア原虫を駆除する効力はないはずなので、こうした山間の村で医療施設もないようなところに住んでいる人たちにとって、最大の予防は疲労をためないこと、ひいては睡眠時間をたっぷり取ることしかないだろう。

他にもデングのように同じく蚊が媒介する病気、赤痢やコレラといった他の伝染病も普通にあるはずなので、平和に暮らしていながらも人口があまり増えることがなかったということも、民族ごとの村落社会が長く継続できた理由かもしれない。川から汲んだ水を飲む村人たちの姿を見て、そんなことをふと思う。運不運もあろうが、地域の生活環境に適応できる丈夫な人たちが淘汰されて生き残っているわけである。

山道は、もちろん舗装などされていないダートであるため、雨季の水の流れによって削られていくためであろう、平坦ではなく幾筋もの溝が続いているような具合だ。それでも上のほうから中国製のバイクで駆け下りてくる人たちが少なくない。

ウィン氏によると、そうした人々の多くはパラウン族であるとのこと。元々は馬をよく利用していた人たちであるとのことだが、今の時代になると生身の馬から機械の馬へと乗り換えるようになっているということのようだ。同じような地域に暮らしていても、やはり民族性というのはあるようだ。

シャン族とパラウン族とでは、居住するエリアもかなり違うようで、前者はなるべく平らなところ、そして川の流域に好んで居住するが、後者は山の上のほう、尾根のような見晴の良い場所に村を形成するのだという。また、野生のシカや鳥類などを求めて、よく狩猟をするとのことでもある。集落内の家屋を外から眺めると同じように見えるのだが、生活様式はかなり異なるのではないかと思われる。

さらにどんどん上へと歩いていくと、やがて「ここからパラウン族の地域」とガイド氏は言う。住み分けの境界は少なくともこの地域でははっきりしているようだ。シャンとパラウンが混住する村は、町の近郊ではあるそうだが、それ以外では当混じって住むことはないという。シャンの村はシャン人だけ、パラウンの村はパラウン人だけという具合らしい。

顔立ちは私たちからすると同じに見えるが、言葉や生活習慣も異なるため、また住んでいるエリアが異なるということもあるのだろう。異なる民族間での結婚というのも多くないという。ただそれが不可能というわけではなく、ときにはそういうケースもあるのだそうだ。同じ仏教徒であればそう難しいことではないとも。このあたりの少数民族コミュニティは父系社会なので、異民族と結婚した女性が男性側の村に嫁入りすることになるという。

ただし相手の民族がどうあれ、宗教がクリスチャンであったり、ムスリムであったりということであれば、かなり困難であるそうだ。

「インド出身のムスリムでありながらも、シャン族の仏教徒コミュニティの中に同化していった私の祖父はその中の例外です。」とウィン氏は穏やかに笑う。

山道の上のほうから黒光りする銃器を持って駆け下りてくる男の姿があり、「山賊では?」とちょっと背筋が凍る思いがしたが、ウィン氏と顔見知りのパラウン族で、これから狩りに出かけるとのこと。背後からは彼の子供たちも続いて下りてきた。

チークの木に巻き付くバニヤンの木があった。木は逃げることができない。これから何年か先には、チークの木はバニヤンに絞殺されて、バニヤン自体が大きな木に成長していることだろう。

バニヤンに絞殺されつつあるチークの木

パラウン族の村の地域に入ると山の斜面に茶の木を見かけるようになってくる。この民族の間では茶の木の栽培が盛んであるとのことだが、ダージリンその他のインドの茶のプランテーションでのたたずまいとかなり違う。通常、木は等間隔で密の植えられるものだが、ここではずいぶん間隔が空いているし、木の背も高くなってしまって伸び放題だ。こんなに背が高くなってしまっている茶の木はインドでは見ない。

普通の木のようになってしまっている茶の木

収穫された茶葉は、家内工業として粗く製茶されるようだ。「粗く製茶」と言っては失礼かもしれないが、素朴な味わいの中にお茶本来の旨みが感じられて悪くない。

<続く>

パンカム村への道1

ミャンマー北部、シャン州のスィーパウの町から一泊二日のトレッキングに出発する。行先はパラウン族の人々が暮らすパンカム村。同行するのはバンコク在住の日本人K氏。スィーパウでの宿泊先が一緒で知り合った。

町から村までは徒歩で5、6時間とのことで、丘陵地なので起伏はあるものの、険しい地形ではなく歩きやすそうだ。だが途中で見かける眺めや村々、出会う人々のことが何もわからないというのでは惜しいので、現地のガイドを雇うことした。

午前8時に、私たちを案内するシャン族のウィン氏がやってきた。肌色が濃くて顔立ちも彫りが深い感じだが、祖父がインドからやってきたムスリムであったとのこと。だが彼の家は今では仏教徒となっており、祖父の宗教を継承していない。スィーパウの町では、しばしばインド系の人々の姿を目にする。多くは同じくインド亜大陸出自のヒンドゥーないしはムスリムのコミュニティを形成しているが、地元のモンゴロイド系仏教徒の人々の大海の中に埋没していく例も少なからずあるらしい。

小さな町なので、しばらく歩いくとすぐに郊外に出てしまう。マンダレーからラーショー方面へと向かう鉄路を越えると、そこから先は緑の濃い田園地帯が広がる。

スィーパウ郊外の田園風景
牧歌的な風景

畦道を進んだ先にはムスリムの墓地があった。この地域でのムスリムといえば、ほとんどがインド亜大陸起源ということになるが、道路際から眺めた範囲では、墓標はどれもビルマ語で書かれている。古いものになるとウルドゥーで書かれた墓石もあるのではなかろうか。

シャン高原に位置し、スィーパウのあたりでも海抜800m程度はあるので、朝晩は充分涼しくクーラーの必要はないのだが、やはり陽が高くなってくるとそれなりに暑くなってくる。リュックに付けた温度計に目をやると摂氏34℃。ムスリム墓地を過ぎたあたりからは、集落が点在する丘陵地となる。

このあたりは、かつては深い森林地帯であったことだろう。今では伐採が進んで禿山になっていたり、さらに焼畑のため斜面にまったく何もなくなっていたりするところも多い。環境面からは好ましいことではない。

禿山が続く

昔から良質なチーク材の産地として知られてきた地域だけあり、それらは今でも少なからず残っている。こんないい材木がふんだんにあるということで、長らく伐採されてきたわけだが、植民地時代には多くの企業家たちにビジネスチャンスを、そして植民地政府にも大きな富を与えた。これらの輸出で富を蓄積していった企業家たちは数多いし、そうした出自ながらも、その後業種を変えて、またインド地元資本化して現在に至っている組織もある。

1840年代に、イギリスからムンバイーに渡って貿易業を手掛けたウォレス兄弟が設立したボンベイ・バーマ・トレーディング・コーポレーションなどはその典型だろう。ミャンマーやタイにおけるチーク材の伐採と輸出により一世を風靡した企業で、ピンウールィンのヘリテージホテルとして知られるティリミャイン・ホテル (通称カンダクレイグ)は、この会社の施設であったが、今では政府系のホテルとして転用されている。

現在のボンベイ・バーマ・トレーディング・コーポレーションは、パールスィー系のワーディヤー一族が運営する財閥、ワーディヤー・グループの傘下にある。もはや材木関係は扱っていないようだが、紅茶やコーヒーといったプランテーション作物の取り扱いがある。旧植民地企業のDNAが脈々と受け継がれているのかもしれない。

スィーパウの町からしばらくの間はシャン族の集落が続く。家屋は素朴な造りだ。木の柱で骨組して壁には編んだ竹を使用して、トタン屋根を葺いている。付近を流れる小川では水車が回って製粉をしていたり、自家発電に利用されていたりもする。こうした発電により、数世帯の電球くらいは灯すことくらいはできるのだそうだ。

このあたりの川はとてもよく澄んでいるのが東南アジアの他の地域と異なる。川沿いにはいくつも小さな堰があり、水車を利用しての水力発電がなされている。水車以外の方法でダイナモを回している装置も見かけた。政府が何もしてくれないがゆえの自力更生努力である。また太陽電池で電気を供給している家屋もときどき見かけるのには少々驚いた。

民家の外壁にはよくヘチマが干してある。これで身体等を洗うタワシを作るというのは昔の日本と共通の発想だ。

穀物の脱穀、そして発電と多用な水車
ソーラーパネルが設置されている家があった。
タワシとなるヘチマ

発電装置やプラスチック類の存在、わずかな電化製品を除けば、燃料は今も薪のようだし、日本の江戸時代のころからこの地域の生活はあまり変化していないのではなかろうか。あとは民族衣装を着る人が少なくなっていることくらいか。やはり大量生産の安い衣類、とりわけ中国製のそうしたモノが多く入ってくるようになると、製造に手間がかかる民族衣装は着なくなるのが当然だ。それでも女性は年配者などで今も伝統的な恰好をしている人たちもわずかながらいるようだが、若い人たちの間では皆無なので、日常の衣類としては遠からず廃れてしまうことだろう。

<続く>

Hotel Everest View

ヒマラヤのシーズンに入っている。私は本格的な登山をしたことはないのだが、山の景色を眺めたり、トレッキングに出かけたりするのは好きだ。

ネパールのサーガルマーター国立公園内にある、海抜3,880 mのところにある「世界一高所にあるホテル」を称するHotel Everest Viewは、日系資本による宿泊施設。

このホテルからの眺めの動画もYoutubeにアップロードされているが、やはり素晴らしいロケーションのようだ。

トレッキングついでに、いつか泊まってみたい。

ヤンゴンのクリスチャン墓地

ヤンゴン郊外のクリスチャン墓地

先日取り上げたミャンマーのヤンゴン郊外の日本人墓地のすぐ北にクリスチャン墓地がある。英国人をはじめとする欧州系の人たちの墓が沢山あるのではないかと予想していたが、そうではなかった。

墓地に埋葬されている方々のほとんどはミャンマー人

敷地内の墓石の大部分はミャンマー人のもので、クリスチャンネームとともにビルマ名も刻まれている。世俗の生活の中で、もっぱら使用していたのは当然後者のほうだろう。この国においては、ヒンドゥーもムスリムも日常用いているのはビルマ名である。

無造作に積まれている墓石

欧州人たちの墓は、ごく小さな一角にまとめてあった。想像していたよりもはるかに少ないが、相当整理されてしまったに違いないことは、墓石が無造作に積まれている有様からも見てとれる。

時は移ろう。世を支配する立場の側にあった人たちも鬼籍に入り、世間に影響を及ぼすことはなくなる。人々の間の記憶から忘れ去られていき、歴史の過去に消えていき、この世に生きる私たちとは無縁の存在となっていく。

付近にはシーア派ムスリムの方々の墓地もある。当然、インド亜大陸からの移民(および少数ながらイラン系の移民)ということになるので、ぜひ訪れてみたかったが、すでに日没の時間となってしまったので断念せざるを得なかった。

SEASONS OF YANGON

SEASONS OF YANGON
SEASONS OF YANGONの客室へ

ヤンゴンの空港の国際線ターミナル正面にあるSEASONS OF YANGONというホテル。かつては、アメリカのラマダグループのホテルであったが、90年代前半に撤退した後を受けて、オーストラリア系資本が買収し、現在に至っている。

元々が『外資系のちょっといいホテル』であったため、施設は古びている部分もあるが、それでもずいぶんお得感があった。5、6年前には一泊25ドル、2年前は30ドルであった。それが昨年には35ドルと上がったのだが、今年は一気に50ドルにまで上昇している。

それでも市内の宿の料金が軒並み急騰している中、相場や建物の質や部屋の内容等を考え合わせると、まだまだ割安感はあるといえる。今のところはまだ部屋でwifiを利用できないが、現在ではロビーでは使用することができるようになっている。

数年前に、支配人で華人系マレーシア人のTさんと飲んだことがある。個人でフラリと訪れているお客に自分のワインを振舞って話し込むことができるという暇な時代であったわけだが、当時は私以外に宿泊客が2人とか3人とか、そんな状況であった。

「この国がこのままであるはずがない。今に大きく変わると信じているから続けているのだ」と熱く語るTさんであったが、閑古鳥の鳴く大型ホテルにこの程度の宿泊客数、この程度の料金設定で、よくやっていけるものだと思った。

今、Tさんが期待していた、まさにその時期がやってきたといえるだろう。今晩宿泊しているのは何と60人という。道理で、次から次へとレセプションに新しいお客が到着しているわけだ。

「ウチみたいに、周囲に何もない、空港近くにあるトランジットホテルは、何泊もするものではない。まさに乗り換えが目的でお客さんたちが利用するホテル。だから空港により多くの人たちが乗り降りする状況になることが大切なんだ。」とも言っていたことを思い出す。

まさにそういう状況になりつつある。乗り入れている航空会社、そして本数も大幅に増えてきた。そして各フライトの搭乗率も着実に上がってきている。スタート地点が低かっただけに、これからの伸びしろは大きい。

客室内

今後、市内では大小、高いものからエコノミーなものまで、様々な宿泊施設がオープンする方向にあるようだが、まだまだ宿泊施設は著しく不足しているため、クラスを問わず、今後もしばらくの間は宿泊料金の上昇は続くものと思われる。

ミンガラードン・タウンシップにある空港とこのホテルだが、今のところ周囲には特に何もない状態ではあるものの、いくつか新しい飲食施設が出来上がっていて、それなりにお客が入るようになっている。

少し北東方向に向かうと、小規模なバスターミナルやそれなりの規模のマーケットもあり、そのあたりから商業地が延伸してくることも充分あり得ることだろう。

このミャンマーという国、とりわけ商都ヤンゴンは、ほんのチラリと目をやっただけでも、無限大の商機と可能性を秘めているように思えてならない。

避難経路を示す図。ラマダホテル時代のものらしい。