インドなマンダレー2

食堂の向かいの家の前に椅子を出してくつろいでいたムスリムの老人に声をかけてみると、見た目どおりにインド系で、流暢なウルドゥー語を操る人であった。

「ほう、日本人と話すのは久しぶりだよ。昔々、若いころには日本人と一緒に働いたものだ。いや、会社とかではないんだ。日本が占領していた時代に2年間くらいだったかなぁ、日本軍のもとで仕事をしたことがある。やれと言われたことは何でもやった。もう忘れてしまったが、日本語も頑張って覚えたから多少しゃべることができたよ。」

個々の兵士たちとの思い出話がいくつも出てくるところからみて、駐留していた日本兵たちとは、個人的にはいい関係を築いていたらしい。

「でも最後まで理解できなかったのは、天皇が神であり、人間である神のために死ぬという精神構造だな。あんたは今の天皇を神だと思うかい?」

もちろん私はそういう時代の人間ではないし、そのような考え方も私には受け容れられるものではないと答えると、彼はこう言った。

「これぞ正義と信じて戦っていた人たちも、戦争に負けると犯罪者として扱われることになってしまう。人間が決めた正義だの真実だのっては、時代が変われば簡単にひっくり返ってしまうものなんだ。」

タミル系のヒンドゥー寺院

タミル系のファミリーが経営する食堂から81st ストリートを南下すると、次の交差点にタミル系のヒンドゥー寺院がある。

そこを左、つまり東に折れると、ネパール系の人たちの「ネパーリー・ゴールカー・ダラムシャーラー」があった。大きなコンクリートの建物だが、上のほうにネパール式の屋根のついた建造物が乗っている。

ネハーリー・ゴールカー・ダラムシャーラー
ダラムシャーラー敷地内にはクリニックその他の施設がある。
ダラムシャーラーの母屋
ダラムシャーラーの来歴を記した石版。歴史は浅いが、社会主義化と国粋主義化が推進されていた時代に、それに抗うかのような活動が出来たことは注目に値する。

敷地に入ってみると、クリニックやネパール語教室、学生団体などが入る2階建ての建物があり、そこから奥に進むと件のネパール式建造物があるコンクリートのビルがある。ロビーでくつろいでいた人たちに声をかけると、とてもウェルカムな雰囲気であった。ダラムシャーラーという名前が付いているものの、特に巡礼用というわけでもなく、ネパール系で商用その他で訪れる人たちが利用する場のようだ。さしずめ「ネパール系人会」といったところか。あるいは英領時代にイギリス系の人々をはじめとする欧州人たちが出入りしていた大人の社交場としての「クラブ」的な性格も有しているかもしれない。

ここでいろいろと話をしたRさんという39歳の男性は、Zhulian(アムウェイのタイ版みたいなもの)に入れ込んでいるらしい。マンダレーに滞在しているのはその事務所を開くためのだという。本来居住しているのはもっと北のほうで、ルビーその他の宝石・貴石を扱う仕事をしているそうだ。

「ちょっとお見せしたいものがあります・・・。」と私を連れて行った先は彼の逗留先の部屋。狭くて陽当たりも悪いが清潔だし、地元のネパール系の人たちが格安で利用できるとあれば悪くないだろう。

なんだかよくわからない健康食品、空気清浄機をはじめとする家電製品、ミラクルパワーが生じる?ベルトなど、いろいろ怪しげな品物を扱っている。なんだかなぁ・・・。

ここに集まっている人たちに話しかけてみたが、たいていが普通にヒンディーを話すことができる。移民してから幾世代も経過していることを思えば大したものだ。また、こういう部分からもネパール系コミュニティはインド北部からの移民コミュニティと不可分の関係にあるらしいことは想像できる。

ネパール系の人々のアーシュラムを出て少し東に進むと、真新しい北インド系のヒンドゥー寺院があった。境内で涼んでいた人たちとしばらく話をする。このお寺に集まるのは多くがUP(ミャンマーのインド系移民たちの言うところのUPとは、現在のUttar Pradesh州の地域よりも広大であった植民地時代の「United Provinces」)を中心とした北インド系のヒンドゥーたちの子孫だ。

北インド系のヒンドゥー寺院

「まだ出来上がってから5か月ほどしか経っていないのですが、こういう場所があると心がとても安らぎますね。」と中年の夫婦連れが言う。マジョリティの人々とは先祖の出自が異なるインド系の人々にとっては、こうした場所が存在するということは信仰そのもの以上に大切な「インド系民会」といった具合のコミュニティセンターとして機能しているのかもしれない。

<続く>

インドなマンダレー1

マンダレーの街は碁盤の目のようにきれいに整備されていて実にわかりやすい。ミャンマー最後の王朝、コンバウン朝の首都であったことで知られているが、現在の街のたたずまいに歴史を感じさせるものは多くない。新しい建物が多く活気のある市街地が広がっている。
このような英領期の建物は少ない。
市街地の大部分はこのようなイメージ
旧王宮から81st ストリートを少し下ったところにある、タミル系ヒンドゥーの家族が経営するインド料理屋で昼食。ここの料理は南インドとミャンマーのハイブリッドで、味も良かった。メインはたいてい2500チャット。メインとなるもの、たとえばチキンカレーを注文すると、ダール、野菜のカレー、サラダ、ご飯等が付いてくる。これらは好きなだけおかわりもできるので、腹いっぱいになる。なかなか繁盛しているようだ。
ミャンマーと南インドのハイブリッドな料理
その食堂「Pan Cherry」の外観
ビルマ族の街であることは言うまでもないが、隣接するシャン州から来た人々も少なくないため、シャン族の人々が集住する地域もあるようだ。同様に、インド系、ネパール系の人々も少なくないこともあり、この地がインド世界と「ひと続きの国」であったことはないものの、行政的には英領期にインドと合邦してひとつの行政地域(1886-1937)となっていたことを想起させる雰囲気がある。
それはインド系の人々が行き交う姿からくるものではなく、この街に暮らす人たち、とりわけ高齢者の方々との会話の中で感じられるものでもある。
インド系ムスリムが集うモスクも少なくない。
大きなモスクではマドラサーも併設されている。
<続く>

スィーパウの町2

_
町を歩いていると、インド系のムスリムの家族に出会ってお茶に招かれたり、そうした人々が出入りするマスジッドを見かけたりもした。この町ではムスリムだけではなく、ヒンドゥーの人たちも多数暮らしているが、こんなお寺があった。
遠目には「普通のヒンドゥー寺院」だが・・・。

入口はシヴァ寺院であることを声高に主張

入口にはナーガがあり、シヴァ寺院であることを示しているのだが、その脇にはストゥーパがある。お堂内は仏教とヒンドゥーの神々が混淆した状態だ。ここの世話人と話してわかったことだが、驚いたことにこのお寺には祭祀を司るプージャーリーもいないのだそうだ。

堂内は仏教世界に大胆なまでに譲歩

仏教のお寺と見まがうようになっているのは、マイノリティであるヒンドゥーたちの寺院が地元仏教徒たちにも受け入れられるというに、ということがあるようだ。

そして世話人自身、仏教寺院に仏塔を奉納したりもしており、この寺の建立を含めてこれまで九つの寄進をしているのだそうだ。ここ以外はすべて仏教寺院であることからも、彼自身が仏教世界との融和を心掛けているらしいことが見て取れる。

その世話人、グル・ダットさんは、まるで昔の映画人みたいな名前だが、両親もそのつもりでそう名付けたのだそうだ。「おかげで、私の名前を一度聞いたら忘れる人はいないんだ」と笑う。

彼の祖父母がパンジャーブから来て定住し、彼自身は三代目でインドの地を踏んだこともないとのことだが、流暢なヒンディーを話す。

自身の子供はなく、誰かに財産を残す必要もいないので、こうした寄進を続けているともいう。彼は49歳。50歳を越えたらこうした諸般の事柄から手を引き、完全に引退生活に入るという。瞑想をしながら過ごすことにしたいと語る。

境内にいたヒンドゥーの人々の多くはネパール系。境内の木造の建物の中ではネパール語教室が開かれていた。これは毎日実施されているのだそうだ。黒板にはデーヴァナーグリー文字が書かれており、女性の先生が教えていた。私たちが教室の出入り口の前に立つと、全員起立して「ナマステー」とあいさつしてくれた。

ヒンドゥー寺院境内の建物でのネパール語教室
ネパール語教室

ミャンマーのネパール系の人たちにとって、往々にしてネパールとインドは異なる国という位置付けではないようだ。ネパール系といっても、インド領の地域から移住した人たちも少なくないこともあるし、テーラワーダ仏教世界に移住した同じインド亜大陸を起源とするヒンドゥー世界の住民という意識もあるのだろう。ゆえにヒンドゥーとしてのアイデンティティとしての言語であるヒンディー語、そして民族の言葉であり、父祖の出身地域の言語であるネパール語という意識であるようだ。そんなわけで、日本人としての日本語、東北の人間としての東北弁といった関係に近いものがあるように思われる。

プージャーリー不在の寺とは不思議な気がするが、宗教施設というよりも、むしろインド・ネパール系の人々のコミュニティセンターとして機能していることは容易に理解できる。診療所も併設されていた。

スィーパウの町にはヒンドゥーの世帯は50ほどあるとのこと。寺院の収入とするための揚げ菓子を作ったり、包装したりという作業をしている人たちもあるが、ヒンドゥーのコミュニティ内で就労機会を分け与えるという意味もある。

ほぼすべてのインド系の人たちの母語は今ではビルマ語になっている。しかしながら彼らの間で、ヒンディーを理解するということだけで、ずいぶん大げさに歓迎される。民族語であるからして、他のコミュニティの人に通じることは通常ないため、自分たちの文化に対する強い関心を持っているということは伝わるのだろう。

マンダレーからラーショーへ向かう鉄路の中間点にあるスィーパウ。英領時代に鉄道建設のためにインドから渡ってきた移民の子孫は多い。
ムスリム人口もそれなりの規模があり、このようなマスジッドが町の中心部にある。出入りする人たちはインド系

<完>

 

スィーパウの町1

味わいのある建物がある。
なかなか落ち着いた感じの町並み

スィーパウはミャンマーのシャン州の町だが、周囲に様々な少数民族の集落が多いことから、それらを訪れる目的でやってくる外国人は少なくない。

洋シャン折衷といった感じの建物も見かける。
これまたひとつの洋シャン折衷スタイル

この町自体、ピンウールウィンやカローのような、英領時代を思わせるヒルステーションのような高貴な雰囲気はないのだが、シャン州らしい木造で味わいのある建物を多く目にすることができる。

シャン州らしい造りの家屋

マンダレーからラーショーに向かう鉄道路線の中間点であること、この地域は軍の要衝のひとつであることなどもあって、植民地時代に住み着いたインド系・ネパール系の人々の姿もよくある。

だがここで一番大きなプレゼンスを感じるのは、やはり隣国中国だろう。中国系の人々の姿も少なくないのだが、中国人が多いというわけではなく、数世代に渡ってミャンマーに暮らしている華人たちはよく見かける。それ以上に、中国製品の浸透ぶりには目を見張るものがある。

マーケットで売られている衣類や日用品といったものばかりだけではない。街道を行き交うトレーラーやトラックといった物資輸送の車両の多くは、もはや日本の中古車ではなく、左ハンドルの真新しい中国製車両だ。人々が乗り回すバイクも、価格が高い日本メーカーのものではなく、安価な中国製二輪車だ。

町でみかけるバイクのほとんどがこの類のモデル
これもまた中国製

だがもちろん一般的な乗用車やバスは日本製の年季が入った中古車がほとんどだ。中・長距離バスとして使用されている日本の観光バスや長距離バスとして使用されてきた比較的新しい車両はもちろんのこと、古いバスの場合は「カーゴバス」と呼ばれる、前半分が乗客の座席で後ろ半分が荷物用となっているものを目にすることが多い。

カーゴバス 前半分客席で後半分が荷物積載スペース

パンカム村への一泊二日のミニトレッキングから戻ったばかり。空腹を満たすために出かけたのは華人が経営する食堂。中華系移民の子孫だが、慎ましい田舎町でこれほどの規模の飲食施設を経営できる才覚とは大したものだと思う。上階は結婚式その他のセレモニーに利用するホールとなっている。

田舎町には似つかぬ規模の華人食堂。ただし価格は庶民的。

<続く>

クリケット版『巨人の星』が誕生するまで

昨年12月からインドの娯楽チャンネルColorsで放映されている「クリケット版巨人の星」である『SURAJ THE RISING STAR』(全26話)は、今月で完結する予定だが、すでに再放送が決まっているようだし、続編の作成も検討されているなど、なかなか好評らしい。

インド国外からでも、日曜日の午前10時から10時半(インド時間)でColorsのチャンネルを視聴できる環境を用意できれば観ることができたかもしれないが、果たしてiPadやアンドロイドのアプリでこのチャンネルを閲覧できるアプリがあるのかどうかよく知らない。

ただしYoutubeあたりで番組名を入れて検索すれば、放送日時もクリップの長さもまちまちな一連の動画にアクセスすることはできるので、まあどんな感じのアニメなのかは知り得ることができるだろう。

さて、本日取り上げてみることにした本は、このアニメ番組の仕掛人であり、チーフプロデューサーでもある日本人著者の手による一冊。この作品の着想からそれをカタチにしていき、ついに世に出すまでのプロセスを熱く語っている。

書名 : 飛雄馬、インドの星になれ! インド版アニメ『巨人の星』誕生秘話

著者 : 古賀義章

出版社 : 講談社

ISBN-10: 4062181738

ISBN-13: 978-4062181730

通常の単行本以外にKindle版も用意されている。

2010年4月の着想から2年8か月かけて放送までこぎ着けたとのことだが、その道のりは決して平坦なものではなく、まさに山あり谷ありであったことが読み取れる。

これを実現させた著者の古賀氏は、『巨人の星』の主人公の星飛雄馬と同じか、それ以上の熱血漢であるようだ。スポ根アニメへの関心の有無にかかわらず、ぜひご一読をお勧めいたしたい。