下ラダックへ 6

アルチー・ゴンパ
_
アルチーに到着した。アルチーのメインアトラクションであるゴンパへの参道には、ゲストハウス、レストランやみやげもの屋などが集まっており、かなり観光化されている感じはするものの、その一角を外れるとまだまだ素朴な村といった風情だ。
アルチー・ゴンパのある一角から少し離れたところにある集落の裏手には、昔の領主の古い館が見えるので、しばらく散策してみる。館は正面から見ると端正なたたずまいを残しているものの、背後は崩落している部分も多いため、今にも倒壊しそうな危険建築となってしまっている。
遠目には立派に見える館だが・・・。
壁はいつ倒壊してもおかしくない状態であった。
館の手前にある集落は、どれも伝統的な建物ばかりで趣がある。近くでは麦の収穫作業中で、女性たちの姿が目立つ。そうした中にも平地から来たインド人出稼ぎ男性たちがかなりいるようだ。町中や観光地での外地からの訪問客相手の商売にかかわる仕事に比べて実入りは決して良くないものと思われるが、それでもこうして働いている出稼ぎの人たちは、月にどのくらいの収入があるのだろうか。またそうした仕事を求める人々の流れはどのようにして形作られているのだろうか。おそらくそうした人材ネットワークで稼ぐ商売人たちがいるのだろう。
_
宿の近くのベーカリー兼レストランで夕食していると、バイクで旅行している若いインド人男性がやってきた。店主に対してチベット仏教のこと、そうした関係のことを書いてある本について、その他この地域の様々な事柄について質問している。デリーから来たとのことだが、出身はハリドワールであるとのこと、
店主がテーブルを離れてから、しばらく彼と話をしたが、マーケティングの仕事をしていたが退社して、フリーランスのライターとしてやっていくことを画策しており、これまででひと月半、これから残りひと月半をバイクでの旅行に費やす予定ということだ。
ラダックではこれまでザンスカールを回ってきたところで、様々なゴンパを手当たり次第に訪問してきたものの、ただ訪れただけでは、仏像や仏画の意味がわからないので、それらを知るための資料を探しているという。彼の名前はアビジート。
こうした自由なライフスタイルを謳歌する人たちがインドで増えてきている。彼の年齢は30前後くらいか。昔のインドにはあまりいなかったタイプだろうが、このような人たちが確実に増えているのが今のインドであるといえる。
_
〈続く〉

下ラダックへ 5

地層のダイナミックな褶曲
こちらの褶曲ぶりは非常に複雑。まるでパイのよう・・・?

ラマユルを後にして、リゾン・ゴンパに向かう。アルチーに向かう幹線道路から外れて、川沿いの細い道を上っていく。ラダックの山肌を眺めていると、ここでもそうだが、地層の褶曲の凄まじさに目を奪われることがしばしばある。

荒涼とした景色の中、清いせせらぎの眺めが目に優しい

もちろんそうした激しい褶曲はラダックに限ったことではないはずであることは言うまでもない。山肌に木々が生えていると見えなくなるため、ヒマラヤ全域においてこのような具合であるはずなのだ。

小規模な落石の除去作業が進行中

まさに木々が極端に少ないがゆえのことだが、地滑りはかなり多いようだ。とりわけこの地域では多くない雨が降ったりすると、保水力を欠くがゆえに崖崩れは頻繁に起きてしまう。

いずれにしても、このように乾燥した高地にはあまり馴染みがないがゆえに、どこに行っても景色がとても物珍しく感じられる。

垂直によじれた地層がさらに浸食されたものと思われる。

リゾン・ゴンパに到着

リゾン・ゴンパに到着。乾燥した山々に囲まれたこの場所の周囲には、集落らしい集落も見当たらず、まさに人里離れた修行の場という感じがする。こうした寺院で起居している僧侶たちはもちろんのこと、ラダックでは村の人々の間でも、高齢者でなければ普通にヒンディーが通じることを期待できる。言葉に対する柔軟性が高い民族であるということもあるのだろうが、J&K州の公用語のひとつが話し言葉はヒンディーと近い関係にあるウルドゥーであり、誰もが学校で学んでいるということが大きいだろう。

ゴンパの屋上からの風景

リゾン・ゴンパを後にして、しばらくジープ道を下っていくと、運転手のナワンは道端の人影に何やら呼びかけて停車。「なぜかウチの村の人たちがいた!」とのこと。彼らはザンスカールのナワンと同じ村の出身だが、今はカールギルで暮らしているという。

彼らは家族連れで、木陰に敷物を敷いてコンロで煮炊きをしていた。ちょうど昼ご飯を食べていたため、私たちもご相伴に預かることになった。

運転手ナワン(右から二人目)と彼の同郷の人たち

〈続く〉

下ラダックへ 4

_

国道1号線をカールギル方面に進み、途中からジープ道に入ってしばらく進んだところにあるアティスィー・ゴンパに向かう。

荒涼とした景色の中の山の高みにあるその寺は、規模こそ大きくはないものの、そして僧侶は常駐していないとのことだが、なかなか趣きがある。ラマユルのゴンパの別院という位置づけだそうだ。

_

_

_

お堂に飾られている高僧の写真の中には西洋人らしき僧侶の姿もあった。運転手のナワンさんの話によるとドイツ人であるそうだ。リンポチェがドイツに転生するとは興味深い。昔は、チベット仏教の世界はチベット仏教圏であったので、その圏内に転生することで良かったのだろうが、最近は遠く西洋に転生することもあるのだろうか。

ところで転生といっても変なところに転生すると、一般人として生活することになる。たとえば仏教圏でも日本に転生したら、日本社会でリンポチェ=活仏としては扱われないだろうから、「発見される」こともないことになる。すると仏教圏からはるか彼方のドイツに転生したとして、いったいどうやって見つけられるのか?と不思議に思う。

ラマユル遠景

_

その後、ラマユルに戻り、ラマユル・ゴンパを見学する。境内はよく整備されているし、僧坊も同様のようだ。20年以上前に訪れた際には、ラダックのどこの寺院もひどい状態であった。やはり現在はお金の回りがよくなったのだろう。インド人観光客が増えている。文化財の補修や保守のため、どこかから補助が出ているのかもしれないし、インド経済そのものが向上しているため、このあたりにもお金が回って来るようになったのかもしれない。

同様に、外国人観光客から入場料を徴収するようになったこともこれに寄与しているのではないかと思う。多くの外国人観光客は寄付を置かないため、このような形で徴収すると、寺院の財政に寄与するものが少なくないことは間違いない。ちなみに現在、この寺院が外国人から徴収している入場料は50ルピーである。

寺院で日々を送る僧侶たちの生活にかかるコストがあるわけだし、法要や祝祭その他でかかる費用もある。また寺院の修復やメンテナンスにも相当な金額がかかるわけなので、こうした形で定収入を確保することは運営上必須だ。

こうしたチベット仏教の世界について門外漢なのでよく知らないのだが、寺院運営にかかわる事務方の人たちもかなりいるのではないかと思う。寺院の予算や収入・支出の管理、同宗派の他の僧院との連絡調整、地元社会との緊密な連絡等々いろいろあるはずだ。大学が教授・講師陣だけで成るものではなく、数多くの事務方の人たちがいるのと同様に、僧院が僧侶の修行だけで成り立つとは思えない。寺院の規模が大きくなるほど、そうした俗世間じみた仕事は多くなるはずだ。

_

_

在家の人たちがこれに携わっているのかもしれないし、僧衣をまとっていてもそうした事務仕事を主に扱う役割の人がいるのではないかと思う。それはたとえば入場料のチケットを販売している人などだ。一般人もいれば、僧衣を着ている人の場合もある。寺院がどのような形で収入を上げているのかはよく知らないのだが、いくら名刹であっても、そこに僧侶という多数の人々の生活を支え、宗教団体としての活動を維持していくためには、きちんと営利を上げていくことと、きちんとした予算や収支の管理が必要であることは言うまでもない。お寺を訪問しても壁画や仏像の意味さえよくわからない私だが、そうした現実的な部分に関心がいってしまう。

_

_

灌漑がなされているところには豊かな緑
ラマユルから少し下ったところにある通称「ムーンランド」

〈続く〉

下ラダックへ 3

ダーまで来ると、海抜はかなり下がるためか、少々暑苦しく感じる。それでも優に標高3,000mはあるはずなので、高地であることは間違いないのだが。

_

さて、今晩はどこに滞在しようかと思い、アーリア人の村、ダーも魅力的なのだが、ここに来る途中で眺めの美しさに心打たれたスクルブチャンに向かうことにした。村では夕方遅くなってからも収穫作業中で、人々は忙しく働いていた。ゲストハウスの類はないので、どこかホームステイできるところはないかと尋ねまわってみたが、受け入れているところは見つからず、そのままラマユルに向かうことにする。

スクルブチャンの村は収穫の時期

カルツェ方面にしばらく走り、インダス川の対岸に渡り、カールギル方面への道を進む。ラダックはどこもそうだが、水があり、人々が耕作している地域以外は乾燥しきった大地が続き、木々の姿もない山肌が続いている。

地層が垂直になっている巨大な岩盤

地面がむき出しであるがゆえに、地層の激しい褶曲を目の当たりにすることができるため、太古の時代には海の底であった現在のヒマラヤ地域は、インド亜大陸とユーラシア大陸が衝突して持ち上がった結果、形成させてきたものであることがよくわかるとともに、現在もさらに成長しているということも納得できるのである。同時に、山肌や大地の色合いからして、場所により地質が大きく異なることも観察できるようになっている。

おそらくラダックだけではなく、インドのヒマラヤ地域全域に共通することなのだろうが、他の地域では豊かな緑に覆われているため、そうとは気付かないものだ。

ラマユル近くの通称「ムーンランド」。ここの地質も特徴的だ。

ラマユルに到着すると、すっかり陽は暮れていた。ここはメジャーな観光地なので、ラマユル・ゴンパの周辺にはいくつもの宿が軒を連ねている。

宿泊したところの中庭には、バイクでツーリングしているグループが食事をしていた。デリーからヒマーチャル・プラデーシュのマナーリーを経てラダックまで走行してきたメンバーはスペイン人とフランス人で、そのリーダーはツアーの主催者であるスペイン人のパブロさん。恰幅の良い中年男性だ。

彼は、90年代にはデリーでラージャスターンの建築史を学ぶ学生であったという。その後、スペインで仕事に就いていたが、2年前から再びデリーにやってきて、旅行代理店を経営しているそうだ。彼の店はバイクによるツーリング専門で、お客がスペイン人、フランス人の場合は自分がツアーを率いて、それ以外の場合は雇っているインド人スタッフに任せていると言う。

10月にはブータン行きのツアーを予定しているそうだ。そのツアーは12日間で、デリーからバグドグラに飛び、そこからスタートしてジャイガオンからブータン入りするものだという。1日あたり2,500ドルもするそうだ。宿泊代は込みというがやはり飛び抜けて高い。かなり富裕な層の人たちが参加するのだろう。

自室に戻ってから、しばらく日記を書いていようかと思ったが、10時15分くらいで電気が消えてしまう。その後点灯することなく11時を回った。ノートPCのバーテリー駆動で日記を書いていたが、真っ暗な中ではとても目が疲れるのでやめて寝ることにした。

〈続く〉

下ラダックへ 2

荒野をひた走ると、やがてザンスカール川に出た。冬季にかの有名なチャーダルトレックが行われるあの川だ。

ザンスカール川

そこから川沿いにしばらく進むと、やがてインダス川との合流点に到達する。やや黒い感じの水のザンスカール河がミルクのような色のインダス河と交わると、その先は完全にインダスの色になって流れていく。人も水もそうだが、やはり量の多いほう、影響力の強いほうの色に染まるようだ。このあたりでは観光客向けにラフティングも行なわれているそうだ。

ザンスカール川(左)とインダス川(右)の合流点

滔々と水が流れるのとは裏腹に、どこまでも木々の姿がない荒々しい光景が続く。ただし水の流れがあるところにはちょっとした木立が形成されていたり、集落があったりする。

チェックポスト

本日向かうのはアーリア人の谷と俗称されるインダス沿いのアーリア系の仏教徒たちが暮らす地域。レーから一路カールギル方面に向かう。カルツェを少し過ぎたあたりにチェックポストがある。ここで、運転手がパスポートとパーミットの写しを持ってオフィスに向かう。この先が二差路になっていて、右側がダー、ハヌー方面、左がカールギル方面となる。前者のルートに向かう場合はパーミットが必要となる。

木々のない山肌の地層。褶曲具合がすさまじい。

ダー、ハヌー方面に進み、最初に訪れたのはスクルブチャンの村。ここには古い領主の館がある。外はややきれいに修復されているが、中は荒れ果てるがままといった状態。一階は仏間になっており、上階は居室になっていたらしい。ラダックの伝統建築として価値の高いものであると思われるので、今後も修復が進むことを期待したい。

スクルブチャンの村
昔の領主の館

村ではちょうど収穫の時期で、麦藁が畑や道端に積み上げてある。家屋も大きめで比較的きれいなものが多く、他に比べて豊かな村らしいことはわかる。詩的かつ牧歌的な眺めが美しい。かなり大きくて真新しい家もあるのだが、どういうところから収入を得ているのだろうか。

この村にあるゴンパを訪れてみた。階段を上ったさきのお堂は修復作業中で、仏像の作りかけのものも置かれており、壁にタンカを描く職人たちが作業中。そのさらに上のお堂はなんと岩をくり抜いて造られたものであった。坊さんがチャーイはどうかと勧めてくれたが、あいにく時間がないので丁重にお断りした。

作りかけの仏像
岩をくりぬいて造られたお堂

このあたりの人々は、普通のラダック人に見えるので、インダス川沿いのそう遠くないところにアーリア系の人々が居住している地区があるとは、にわかに信じがたい。

ところどころで清流が流れている。非常によく澄んでいるのだが、これがインダス河に流れ込むとやはりインダス河の色になって流れていく。

さらに進んでハヌーを通過してビャマー、そしてダーへと向かう。ハヌーに着いたあたりから確かにアーリア系らしき人たちが多くなった。ブロクパと呼ばれる人々だ。かなり日焼けしている人たちが多いため、見た目は平地のインド人のようにも見える。おそらく彼らが平地のインドに出たら、ラダックから来たとは思われないことだろう。それでいて名前を名乗るとまったくそれらしくないので、珍しがられることだろう。

ここから先にはガルクン、ダルチクといった村があるが、後者はムスリムになっているらしい。ハヌー、ビャマー、ダーといったところに住んでいる人たちは仏教徒だが、アーリア系の仏教徒というのは珍しい。もっとも改宗したのは19世紀くらいからであるとのことなので、それまでは独自の宗教があったのだろう。おそらくその時期あたりから外部との行き来が盛んになったということも示唆しているのではないかと思う。ブロクパの居住地域のうち、もっと西側のムスリム化されたエリアでもそのあたりから改宗が進んだのだろうか。

おそらく学術的に興味深いものがある民族なのだろう。彼ら独自の言葉があり、仏教以前の文化も残っているらしいし、そのひとつには収穫祭であったり、ほおずきや花を髪飾りにしたりするといった習慣があるようだ。おそらく独自の装いもあるのだろうが、現在では男性は洋服、女性はパンジャービーを日常的に着用しているのが見て取れる。こうして独自の伝統は次第に廃れていくことになるはず。

ビャマーで彼らのごく新しい仏教寺院を訪れたが、誰もいなかった。特殊な少数民族の寺であるにもかかわらず、完全にチベット仏教式であることには驚かされる。運転手が管理人を探してきてくれて扉を開けてもらって中を見学することができた。管理人の話によると、この寺は昨年できたばかりとのこと。建設資金はダライラマによる提供であるとのこと。

ビャマーの真新しい仏教寺院

お堂の中はかなり変わっていた。大勢が入ることができるホールになっているのではなく、いくつかの個室になっている。仏間のある部屋、その隣には応接室、そして寝室がある。貴賓、つまり高僧が訪れる際に宿泊施設として用いられるのだという。これが二階部分。一階部分は高位のラマの居宅になっているとのことで見学することはできなかった。

ビャマーの集落

村で若い女性たちの姿があるが、やはりアーリア系の人々であることが一目でわかる。アーリア人の谷、Aryan Valleyという俗称はなかなかいいので、まさにこの名前で観光客誘致するとかなりうまくいきそうな感じがする。だがアーリア人の谷といっても、北インドの人たちもまたアーリア系であり、欧州の人々もそうなので、「アーリア人」という言葉が何かエキゾチックなものとして彼らの耳に響くことはないのかもしれない。

ダーの村に来ると、ラダックの普通の家のようなものもあるが、どこか違うたたずまいの建物もある。横に細長い村で、どんどん進んでいった先にはゲストハウスがある。しかし電球がなく、聞くともともと電気は来ていないとのこと。ただ近くでの水力発電の電気により、庭にある電球は灯るとのこと。

村の中には水路が引かれており、明らかにラダックの他の地域の人々とは異なる風貌の女性たちが洗濯しながらお喋りに興じている。太古の時代に亜大陸方面に移動してきたアーリア人たちの中の小さなコミュニティがラダックのこの地域に住み着き、近代に入るまで外部との交渉も限られており、独自の文化と信仰を守り続けていたということは非常に興味深い。

ダーの村の家屋の入り口。ラダックの他の地域とはかなり違う感じがする。

〈続く〉