ディブルーガル2

どこもかしこも茶園でいっぱい

ディブルーガルの市街地に入ったあたりで、「さて、どのあたりだろうか?」とスマートフォンで地図を見てみる。近年はこうした機器やネットワークの普及により、以前は考えられなかったことが容易に可能となった。Googleの地図に出ている情報はかなり散漫であったりもするが、町歩きに「地図」(ガイドブックに掲載されているものであれ、購入したものであれ)は不要となったと言える。3Gネットワークが届いていない小さな町ではそもそも地図がなくてもいいわけであるし。

インドでは、しばしば「この土地ならではの宿」というものがあるが、アッサム茶の生産と集積の一大拠点で、茶業の歴史も長いディブルーガルでの特色ある宿といえば、英領時代のイギリス人茶園業者のバンガローである。こういうバンガローが市街地に一軒、郊外に一軒あり、私は市街地にある施設に宿泊することにした。

これらの宿は、プールヴィー・ディスカバリーという旅行代理店が運営しており、宿に直接出向くのではなく、市内のジャラール寺院近くにあるオフィスが予約等の業務を取り扱うことになっている。

ディブルーガルで面白いのは、市街地の中に茶園があったり、商業地のすぐ脇にも茶園が広がっていたりすることだ。もともとの市街地はもっと小さくて、茶園の部分にも市街地が広がった結果、このようになったのかもしれない。

お茶で有名なアッサムであるが、12月から2月までは茶園と茶工場ともに休業中である。休みの時期であるとのこと。冬季に茶園の仕事を見学したければ、南インドに行くことになるだろう。

ツヤツヤとした茶葉

〈続く〉

ディブルーガル1

シブサーガルで2泊してから、ディブルーガルに向かった。シブサーガルからバスで2時間半程度の距離である。

アッサムといえば、13世紀から19世紀にかけてこの土地を支配したアホム王国で知られているが、もともとアホムの支配者たちはタイ系の民族であったわけだが、インドのこのあたりは民族的にもモンゴロイド系の人々とアーリア系の人々が混住する地域であることから、ちょうど南アジアと東南アジアとの境目(・・・から南アジアに入ったところ)にあることが感じられる。

人々の顔つきもさまざまだ。インド人らしい顔だちもあれば、モンゴロイドが混じっている風貌もある。もちろん、ここにもUPやビハールといった州から働きに来ている人たちはたくさんいるわけだし、東側のナガランドやマニプルといったモンゴロイド系の人々がマジョリティを占める州から出てきている人たちもいるはずなので、正直なところ町中で視界に入っている人たちの中で、誰がアッサム人で、誰がそうでないかについて見分ける自身はあまりない。それでもたとえばベンガル州の平地あたりと較べた場合、総体的に人々の集合体の中でモンゴロイド系の人々やモンゴロイドの血が入っていると思われる人々の割合が高いことはわかる。

バスはひた走る。シブサーガルから2時間半程度の距離にある。霧がかかっているものの、クルマの往来の妨げになるというほどのものではない。道路両側はどこを見渡しても茶畑が続いており、いかにも世界最大の紅茶生産地といった佇まいである。

クルマの揺れに眠りを誘われて、少しウトウトしている間に、どうやらディブルーガル郊外に入ったらしい。あまり密度が高くなく、ややまばらに広がっているらしい市街地。ブラフマプトラ河のほとりに広がる街だ。ここから少し北や西に行くと、アルナーチャル・プラデーシュ州に入る。

2011年元旦から、インド北東州で入域に制限があったナガランド、ミゾラム、マニプルの3州が外国人に対して門戸を開いている(それまでは一定の条件下でパーミットを事前に取得する必要があった)ので、まだこうした規制が残っているのはアルナーチャル・プラデーシュ州だけとなった。

ナガランドをはじめとする3州については、長年続いてきた反政府勢力との停戦と和解の方向への進展による治安の改善がこのような措置を可能にしたわけであるが、アルナーチャル・プラデーシュ州の場合は、インドが実効支配していながらも、中国との係争地帯であるという、国防上の理由が背景にあるようだ。

政治的には北東インド地域の中では最も安定しており、治安も非常に良好であるとされる州であるが、さらには平地から雪山まで、チベット仏教圏からアニミズムを信仰する部族地域までを含む、地理的、文化的、民族的に非常に多様性に富んだ州でもあるため、この州が外国人訪問者に対して開放される日がやってきたら、「インドの観光地図を塗り替える」とまではいかないまでも、中央政府や北東地域の各州政府が目論む観光業の振興への強力な起爆剤となることは間違いないだろう。

入域制限についても「規制緩和」が進んでいる中、アルナーチャル・プラデーシュも入域に当たって、現地の旅行代理店を通じてパーミットを申請する「グループ」における最低の人数が近年では「3人」そして「2人」と緩くなり、現在では事実上「1人」でも取得可能となっている。敢えて「事実上」としたのは、公式には「2人」という条件はあるものの、そうした申請を取り扱う旅行代理店に他のグループと混ぜてしてもらった取得したパーミットにより、「個人旅行」が可能となっているという事情がある。

この個人旅行については、旅行代理店によっては、自社でのガイドとクルマの手配を前提としてパーミットの取得を代行するところもあれば、パーミット申請のみのハンドリングを行なってくれるところもある。

私自身は、まだアルナーチャル・プラデーシュ州を訪問したことはなく、今回も訪れる予定はないのだが、アッサム在住でこれまで幾度かアルナーチャル・プラデーシュ州を訪れたことがある方の話によると、「公共交通が極端に少なく、クルマをチャーターしないと移動もままならない」とのことなので、やはりインドの他の地域とはかなり事情が異なるようである。

〈続く〉

マジューリー島4

ガラムールのマーケット近くのサッカーグラウンドで、インド軍のアッサム連隊のサッカー部とマジューリー島のチームの対戦があるとのことを宿の人から聞いた。新聞にも出ていたそうだ。地元で例年開催されるサッカーのトーナメントの決勝戦であるとのことだ。

グラウンドに出向いてみると、すでにゲームは開始されていて、前半戦の中盤であった。入場料は10ルピー。沢山の人々が詰めかけていた。会場入口周辺は、駐輪されているバイクと自転車で一杯だ。会場警備はボランティアではなく、兵士たちが詰めていた。しかも持っているのは機関銃。いくらなんでも警備としては過剰過ぎる装備ではある。

インド東北部ではサッカーが盛んである。このようにして楽しんでいる姿を見るのは嬉しい。会場には貴賓席まであったから、地元政府のおエライさんとか、もしかすると地元政治家くらいは来ているかもしれない。優勝チームには立派なトロフィーが準備されている。

試合内容は正直なところまったく面白くなかった。正直なところ、このレベルであれば私が出場しても大活躍できる程度である。しかしここに詰めかけている人々を見物するのは楽しいし、サッカーが好きで人々が集まっているというのも嬉しい。

夕方になり宿に戻る。貧しいながらも落ち着いた感じで、争いごともあまりなさそうな島である。宿の人が「外国とか、インド国内でもテロがあったり、騒動があったりしているけど、どうしてそんなことになるのか、この田舎に暮らしていると想像もできない。いや、この州内でもいろいろあるんだけれども、ここにいる分にはまったく関係ないね。」と言う。金銭的には豊かでなくても、ここに暮らしている満足度は案外低くはないのかもしれない。安心感のありそうな島である。

〈完〉

 

新年快楽!心想事成!!

2014年の春節は1月31日である。その前日30日は大晦日ということになるので、中国、台湾、加えてその他の中国系のたちが多く暮らしている地域はそれから一週間ほど正月の華やいだ雰囲気の中で休日を過ごすことになる。

アセアン諸国には多くの華人たちが暮らしており、地域によって潮州人が多かったり、広東人が多かったりという特色があるが、それぞれのコミュニティにおける伝統にローカル色を織り交ぜて、様々な祝祭が展開される。

中国系の人々にとって、たとえ大陸の人であれ、在外華人であれ、そうした自分の住んでいる国の外で同じ中国系の人々、とりわけ同じ客家系であったり、福建系であったりといった同一のコミュニティに属する人々の暮らしぶりやしきたりなどを目にするのは、なかなか興味深いことなのではないかと思う。

自国の家庭内で使っている言葉が、まったく異なる国に定住した先祖の同郷の人々に通じるということはもとより、それぞれの土地に根付いて代々暮らしているだけに、生活様式もローカライズされ、普段使っている語彙も地元の言葉等の影響を強く受けていることに気付いたりもすることだろう。

中国から国外への移民の初期は、ほとんどが男性ばかりであったため、同じ潮州人、広東人といっても、本土の人々とはかなり異なる風貌になっていることも少なくない。それでも民族としての中国人、あるいはもっと細かなコミュニティの出自であるというアイデンティティを持つことができるのは、同族としての絆の深さと自身が背負う文化や伝統への愛着とプライドゆえのことだろう。

私自身は中国系の血を引かない、ごく普通の日本人であるため、そのような感情を抱くことはないのは少し残念な気がしないでもない。

さて、アセアン諸国から見て西の方角にあるインド。かつてほどの人口規模はないとはいえ、今も決して少なくない数の華人たちが暮らすコールカーター。多くは広東系あるいは客家系であるが、先祖の出身は広東省の梅県が多い。通信手段の限られた時代であったため、中国から国外への移民の場合だけでなく、インドから東南アジア方面その他への移民たちの場合でも、同郷から非常に多くの人々が渡ったというケースは多い。人づてのネットワークがそうさせたともいえるだろう。

コールカーターの華人社会について、地元で生まれ育った華人自身(現在はカナダに移住)によって書かれた本があり、インド人の大海の中の片隅で暮らす華人たちの暮らしぶりを活写している。描かれているのは、華人社会の中での濃密な人間関係であり、周囲のインド人たちとの関わりであり、1962年に勃発した中印紛争のあおりで苦渋を舐めることになった中華系の人々の悲哀でもある。

書名 : The Last Dragon Dance

著者 : Kwai – Yun Li

発行 : Penguin Books India

ほぼ同じコンテンツで「Palm Leaf Fan」という書名でも出版されており、こちらはamazon.co.jpでKindle版を購入することができるため、インド国外から購入の場合は手軽だろう。

書名 : Palm Leaf Fan

フォーマット : Kindle版

A SIN : B009LAH84G

同じ著者による論文「Deoli Camp: An Oral History of Chinese Indians from 1962 to 1966」は、ウェブ上からPDF文書でダウンロードできるが、こちらも必読である。ラージャスターン州のデーオーリー・キャンプといえば、第二次世界大戦時にアジアの英領地域に居住していた日本人たちが収容された場所として知られている。中印紛争により「敵性国民」とされることになった華人たち(インド国籍を取得していたものも含む)もまた、居住して商売を営んでいた土地から警察に連行されて、デーオーリー・キャンプに収容された時代があった。

この論文は、キャンプでの日々や解放されて居住地に戻ってからも続く差別や困難などについて、体験者たちにインタビューしてまとめたものである。これを読むと、ベンガル州北部のダージリン、メガーラヤ州のシローン、アッサム州の一部にも少なからず華人たちの居住地があったこともわかり、少なくとも中印関係が緊張する以前までは在印華人たちの社会にはかなりの奥行きがあったことがうかがえる。

さて、話は華人たちの旧正月に戻る。今年のコールカーターでの華人の春節のことを取り上げた記事をみかけた。

Chinatown in Kolkata, only one in India, to celebrate Chinese New Year amid plans for a facelift (dnaindia.com)

ライターであり写真家でもあるランガン・ダッター氏も自身のウェブサイトで華人たちの新年を取り上げている。

Chinese New Year, Calcutta (www.rangan-datta.info)

短い動画だが、昨年のコールカーターでの華人たちの旧正月の模様を映したものもある。

Chinese New Year in Kolkata India (Youtube)

Youtubeの動画といえば、ムンバイー在住のドキュメンタリー映像作家のRafeeq Ellias氏がコールカーターの華人たちについて取り上げた作品「The Legend of Fat Mama」を観ることができる。

こちらは旧正月の祝祭の映像ではないが、同地の華人社会をテーマにした秀作なので、ぜひ閲覧をお勧めしたい。

※「マジューリー島4」は後日掲載します。

マジューリー島3

本日は、朝早い時間帯から自転車を借りて島内を走る。起伏が少なく、クルマも少ないので快適に走行することができる。かなり霧が濃く、時間が進むと次第に晴れてくる。ときおり乗合のスモウやトラックなどが通りかかるが、それ以外はバイクか自転車だ。

前にも書いたが、世界最大級の中洲であるマジューリー島。それがゆえに当然傾斜のないフラットな大地が続いているわけだが、外から運ばれてきた建築等の資材を除いて「石」というものが存在せず、どこもかしこもきめの細かいパウダー状の土壌である。地味は豊かで工作に適しているそうだが、河の水面からあまり高低差がないため、雨季の洪水と闘わなければならないという宿命がある。

道路は高く盛土した上を走っている。インドでもバングラデシュでもよくある光景だが建設にかかる手間ヒマや費用は大変だろう。道路の脇には大木が並び、日陰を作ってくれているのが普通だが、ここではびっくりするほど背の高い竹が緑のトンネルを形づくっている。

島にはクルマが少ないので快適に走ることができる。ときどき乗合のスモウやトラックなどが走っているが、それ以外はバイクか自転車だ。霧の中、まあ道路走るのに支障があるほどの霧ではないのだが、地平線まで見渡すことはできない程度に霞んでいる。そう、地平線が見えるほど島なのである、ここは。

インドの朝の風景はすがすがしい。畑や池で作業している人たちの姿がある。豚が草を食んでいたり、歩き回っていたりする。民家を眺めていると、高床式家屋の床下部分で家畜を飼っているケースが少なくないようだ。ブタについては、アッサムではけっこう食用にしているようで、ブタの解体作業をしばしば目にする。

最初に足を向けた先はサムガリー・サトラーである。この島にはサトラーと呼ばれる静謐な僧院が多く、その数22か所と言われる。それぞれ独自のカラーがあるようで、ここは仮面作りで知られている。サトラーで奉納する踊りに仕様するものであるが、ここの主は2003年に政府から表彰を受けており、室内には賞の授与式の際にデリーで当時の大統領のアブドゥル・カラム氏と一緒の写真が飾られている。

マジューリー島では米が三期作できるのだそうだ。農家の人の話だと、時期によって栽培する種類を変えているのだそうだが、同じ水田で異なる品種の稲を栽培して、交雑してしまったりすることはないのだろうか?インドの米は品種が異なると、形もサイズも炊き上がりも違うので、いろんな種類の米を味わえるのはいい。

島の村々では、昨夜私が宿泊したようなタイプの建物に人々が暮らしている。この時期は寒くてやりきれないことだろう。建物が外にいるのと同じような室温のはずだし、保温性の良い服や寝具があるとは思えない。極めて暑季に特化した造りである。この時期は農閑期のためか、溜池で水草取りをしている人たちは胸まで水に浸って作業している。そのかたわらで竹を編んだ道具で魚も捕まえているようだ。これまた寒くて大変そうだ。

島の中心地であるカマルバリやウッタル・カマルバリのあたりには、ちょっといい感じの家はあるが、それでもやはり総体的にずいぶん貧しい島である。人々は穏やかで感じのいい人たちが多いのだが。

ウッタル・カマラバリー・サトラーで、サトラー自体は閉まっていたが、隣の広場で奉納の踊りの練習中であったので見学する。若い男性や男の子たちが楽器を鳴らし、若い女性たちが踊っている。指導者がしじゅうストップかけて指導しており、これがなかなか手厳しい。

途中、指導者が女性たちの幾人かを指名して、踊りの歌をマイク持って歌わせると、態度は堂々としていてプロ並みに上手いので驚く。もちろん、中には指名されてもはにかんで断る女性もいる。

サトラーの多くは簡素で、あまりきれいとは言えない環境にあるものが多いようであったが、オーニアティ・サトラーは他のサトラーとはかなり違う感じであった。見るからに財政的な余裕があるようで、とても清潔に整えてあり規模も最大らしい。出家生活を送る人たちが起居する建物の造りも立派なものであった。ここでは一切の世俗の事柄を放棄して隠遁生活をするのだそうだ。

サトラーにはふたつのタイプがあり、ひとつはこういうタイプだが、もうひとつは妻帯して家族を持つことが許されているサトラーである。最初に訪れた仮面を作っているサムガリー・サトラーが後者のカテゴリーにあたる。

〈続く〉