コールカーターの中華レストラン「トゥン・ナム」

コールカーターの宿で出会った日本人旅行者と食事に出かけた。アテにしていたこの街の一番古くからある中華レストランの「欧州飯店」に電話をかけてみたが、誰も出ないのでどうやら休みらしい。

街の東郊外にある華人地区のテーングラーまで出るのは面倒なので、ラール・バーザール近くの旧中華街に行くことにした。カルカッタ警察本部のあたりでタクシーを降りる。このあたりから先はムスリム地区になっている。

道沿いにあるモスクのスピーカーからは、怒りをぶちまけるかのような過激な調子で、ウルドゥー語による内容も扇情的な説法が大きな音で流れている。こういうタイプのモスクがあると、ムスリム住民でもこれに同調しない人も多いだろうし、近所に住んでいたり、たまたま通りかかったりする非ムスリムのたちは、不安をおぼえるのではないかとさえ思う。

さて、チャターワーラー・ガリーを進んでいくと、暗い夜道ながらも漢字で書かれた赤いお札が貼られた家屋がいくつもあるので、今も華人たちがかなり暮らしていることが感じられる。

小さな店で商っている華人たちは、混血しているので一見ネパール人?と思うような風貌の人たちが多い。中国大陸からの移民は19世紀後半から20世紀初頭にかけての清朝末期、その後の国共内戦にかけて、中国の政情が混乱していた時期にインドに流入してきたわけだが、とりわけ初期の移民の大半は男性であった。当然の帰結として伴侶に現地女性を求めたケースが多かったがゆえに、現在コールカーターに居住している華人の間では、やはりどこかでインド人の血が入っていることは往々にしてある。

さて、小路を進んでいくと、チャターワーラー・ガリーとスンヤートセーン・ロードが交差するあたりにあるのが、この旧中華街に今も残る中華レストラン「トゥン・ナム」である。ちなみにスンヤートセーン・ロード(Sun Yat Sen Rd.)とは、中国や台湾で言うところの「中山路」に当たる。Sun Yat Senとは、孫逸仙こと孫中山、言うまでもなく孫文のことであるからだ。

平行している道路はLu Shun Sarani、つまり「魯迅路」であり、まさに中華街らしいロケーションである。しかしながらこの界隈からの華人人口の流出は著しく、隣接するムスリム地区に呑み込まれてしまっているのだが、かつて華人の屋敷であったと思しき建物は今もそのような雰囲気を残しているし、いくつかの中国寺院や華人たちの同郷会館なども見かける。

さて、レストラン「トゥン・ナム」で席に着いて料理を注文する。経営者は客家人家族。「トゥン・ナム」とは、客家語で「東南」かな?などと想像してみたりもする。二人で訪れると、いろいろ注文できていいものだ。ご飯の豚肉あんかけ、魚と豆腐の炒め物、チョプスィー、ワンタンスープその他を注文した。どれも美味であった。インドの中華は炒め物でも最後はグレイビーに仕上げるのが特徴。やはり乾いたご飯と乾いたおかずでは食べないようになっている。

店内のお客たちの多くは中華系の人たちであった。豚肉を出す店であるがゆえに、この地域と隣接するムスリム住民たちをまったく相手にしていないということになるが、それでもかなり繁盛しているようである。

経営者家族は華人。注文聞きはインド人で、トイレを借りると途中で見えるキッチンの様子から、料理しているのもインド人であることがわかった。それでも味はちゃんとした中華なので、みっちりと教え込んであるのだろう。

先述の欧州飯店では家族以外の料理人を雇うことなく、門外不出のレシピとで調理をしているとかで大変美味しいのだが、トゥン・ナムも負けず劣らずいい料理を出してくれる。やはりインドにおける中華料理の本場コールカーターの旧中華街に店を構えているだけのことはある。

Chinese Restaurant 「Tung Nam」(火曜定休)

24 Chattawala Gully, Kolkata 700012

Phone.22374434 / 9831635767

 

フェアローン・ホテル 1

外観は凡庸

コールカーターでフェアローン・ホテルを利用してみた。

幾度か朝食を摂りに行ったことはあるものの、宿泊してみたことはなかった。フロントで訪ねてみると満室であったりしたためということもあるが、「ヘリテージ・ホテル」と呼ぶには、ちょっと乱雑で俗っぽい感じがしたということもあるし、他の大都市で景気の良い街に比較して宿泊費が総体的に安めのコールカーターでは、同じ程度かそれよりも安い料金で、もっと快適なホテルがあるためでもある。

それでもやっぱり一度は泊まってみたいという思いもあった。建物自体は18世紀に建てられた植民地建築そのものであり、南パークストリート墓地とサー・スチュワート・ホッグ・マーケット(現ニューマーケット)の間に位置するエリアは現在でこそ下町化しているものの、英領期には白人地区であったことは、この地域に古くからある建築物の佇まいや政府関連施設等の存在からも容易に察することができるだろう。

19世紀から20世紀はじめにかけては、周辺地域を含めて商業地化したため、ユダヤ人が多く住むエリアとなるとともに、サダル・ストリートからフリースクール・ストリートに入ったあたりに現在もアルメニア人学校があることからも判るとおり、アルメニア人たちも多く居住する地域となった。

そんな時代の終わり近く、1936年にアルメニア人家族が取得したのがこの建物で、以来ホテルとしての営業がなされているとのことだ。

アットホームな雰囲気の共用スペース

ユダヤ人、アルメニア人ともに、植民地期には、往々にして当時の行政機構や支配層側との取引で財を成した例が多かったことから、独立運動盛んな時期には買弁とみなされ、独立達成後には、なおさらのこと不利な立場に置かれたことから、国外に活路を求めた例が多い。

現在においても、施設の所有ならびに経営自体が、植民地期と同じ外来のファミリーによるものであるという点で、特筆すべき存在である。「ヘリテージ・ホテル」が非常に多いインドであるが、そうした形で知られているものの多くは、由緒ある建物を宿泊施設として運営する企業(民間ならびに政府系企業)が取得あるいはリースにより運営しているもの、地元の旧領主による所有で経営はそうした企業に委託しているものが大半であるからだ。

〈続く〉

Namaste Bollywood #38

Namaste Bollywood #38

今号の巻頭の特集はChallo Dilliである。2011年に公開された作品で、昨年の東京で開催されたIFFJ(Indian Film Festival Japan)でも上映されていたが、今年2月15日からはオーディトリウム渋谷を皮切りに順次全国劇場公開される。

ラーラー・ダッターとヴィナイ・パータクが演じるロードムーヴィー。エリートのビジネスウーマンがムンバイーからデリーへ空路でひとっ飛びしようとしたところが、ひょんなことから陸路で移動することになる。次から次へと降りかかるトラブルの中で、たまたま同じデリーに向かうことから道連れとなった下町のちょっと品がないけれども、機転に富みサバイバル本能にも長けたオジサンと繰り広げるドキドキ、ハラハラの珍道中。

内容についてあまり云々するとネタバレになってしまうので、このあたりまでにしておくが、商業映画としてはかなり低予算で製作されているようだが、ストーリーと演技、つまり中身で勝負して『結果を出した』秀作で、インド映画好きという括りではなく、世の中すべての映画ファンに鑑賞をお勧めしたい。

これに先立ち、サイーフ・アリー・カーン主演のエージェント・ヴィノードもシネマート六本木で公開されているが、こちらは2週間限定とのことなので、上映の残り期間はすでに秒読みに入っているので、観たいと思ったらまさに今、足を運ぶべきだろう。

その他もいろいろ大変興味深い記事が掲載されている。カタックの巨匠ビルジュー・マハーラージ師の来日、マードゥリーのボリウッド復帰作、日本版新発売のDVDその他いろいろ今回も貴重な情報が満載だ。なお、3月には「ボリウッド映画講座」の開講が予定されているとのことで、Namaste Bollywoodのホームページは常時要チェックだ。

さて、今年は日本在住のボリウッドファンにとって、これからどのような作品を観る機会が待ち受けているのか楽しみである。

ディブルーガル5

ディブルーガル大学のキャンパスの一角

田舎町ではあるものの、ディブルーガル大学という大きな総合大学がある。緑豊かで広大なキャンパスの中に様々な学部や研究施設などが点在しており、羨ましい環境である。

案山子はどこの国も同じような感じ

キャンパスの端まで歩くと、小さな出入口があり、外には農地が広がっていた。いくつかの集落を通って、宿へと続く道に出たところに地元の茶園直営の販売店があったので、茶葉を購入。ヒマそうにしていた女性の店長さんは陽気な人で、温かい紅茶をいただきながらしばらく楽しいおしゃべりの時間を過ごさせていただいた。90年代からの「旅行ブーム」は、このあたりの人々の間にもしっかりと定着しているようで、この人も家族でアッサム州内や近隣州に足を延ばしたりするそうだ。

茶葉のアウトレットの店長さん

「でも最近訪れてみた中で一番楽しかったのはアルナーチャル・プラデーシュ州よ。寒くなり始める時期だったから。雪なんて初めて見たし、ずいぶん高い峠を通ってチベット仏教寺院があるタワンにも行ったわよ。アッサム州と違って、公共交通があまりないみたいなの。それで家族でクルマをチャーターして回ったわよ。」

ディブルーガル地域には小さなものも含めて280もの茶園があるという。ダージリンの茶木とここのものとは少し種類が異なるらしい。ダージリンには中国の苗木を移植したわけだが、アッサムには元々土着の茶樹があったことに起因するようだ。その茶の原木の存在があったがゆえに、アッサム地方での茶業が開始されることに繋がったわけである。

中国由来の茶樹と違い、アッサム種は放っておくと、とても背の高い木になってしまうという。現在は中国種との交配が進み、純粋なアッサム種は稀で、茶園で栽培されているのはもちろん両者をかけ合わせたものだそうだ。茶樹の寿命は100年以上に及ぶが、商業的に利用できるのは60年前後であるとのことだ。

この道路をしばらく進んだところに紅茶局が事務所を構えている。たまたま縁あって、ここに勤務している人の話を聞く機会を得たのだが、紅茶小規模農園には補助金を出して、茶業の振興を図っているとのこと。茶園オーナーはアッサムの資本家、他地域のインド人資本家あるいは外資だが、どこも事務系の職員たちはほとんどがアッサムの人たちであるそうだ。畑で作業している人たちのマジョリティはアッサム人ではなく、この地で19世紀に茶業が始まったときに、オリッサから労働者として移住してきた人たちの子孫だという。いろいろ棲み分けがあるようだし、植民地時代からのそうした特色が今も残っているのは興味深い。

物産展が開催されていた。入場料10ルピー支払って入場して、簡単な昼食を取る。アッサム各地の製品を扱う業者たちが出展しているが、この地域の織物や衣類は地味なのであまり見栄えはしないように思う。漬物の店を覗いてみると、やはり見かけたのはタケノコのアチャール。北東インドではよく食材となっているが、私にとっても好みである。

タケノコのアチャール

商店街はそれなりに賑わっているだけでなく、クルマのディーラーや家電製品の大きな店なども多く、消費活動がかなり盛んであることが感じられる。

商店街の少し先には、アッサムの比較的伝統的な手法と様式建築を組み合わせたような、かなり傷んではいるものの、植民地時代に多かったのではないかと思われる家屋群が左手にあった。付近の人によると、ここには誰ももう住んでいないとのことだが、「もともとは警察の官舎であったが、頻繁に幽霊が出て、憑依されて殺される者が二人出たので、全員ここを引き払うことになった。」とのこと。本当かどうかよく判らないが、幽霊が頻出するというのはちょっと怖い。

神像の作業場は休みであったが、中を見学させてもらうと、なかなか楽しかった。木で組んだ骨組みに藁をヒモで巻きつけて肉付けしていく。それを上から粘土を塗りつけて、最後に色付けして仕上がる。置いてある神像は工程がそれぞれバラバラであったので、おおまかな手順が判る。

ブラフマプトラ河沿いには、裁判所、刑務所、警察署等々の行政機関が建ち並んでいる。重要機関が水際に集まっているのは、水上交通の拠点として発達した街に共通する事象だ。

岸辺には陶工たちの作業場兼住まいが並んでいる。一日の早い時間帯に仕事を済ませてしまうようで、形成した後に日干しにして火入れに備えてあるものは沢山みかけるものの、何か作業している人たちは見かけなかった。

ディブルーガルは、隣接するアルナーチャル・プラデーシュ州への玄関口のひとつでもあり、ここからシェア・スモウなどの乗合が発着している。今回はそちらまで足を延ばすことはないが、またいつか機会を得てアルナーチャル・プラデーシュ州も訪問してみたいと思う。

アルナーチャル・プラデーシュ州行きの乗合の広告看板

〈完〉

ディブルーガル4

普段、宿泊する場所へのこだわりはなく頓着しない私だが、植民地時代の英国人のバンガローを独占できるという環境(たまたま他の宿泊客がいなかったからであるが)は、とても快適かつ気持ちの良いものである。

窓のカーテン越しに漏れてくる陽光で、朝が来たことを知る。起き出してしばらくの間、ノートパソコンを開いて、メールのチェックをしたり日記を書いたりする。しばらくするとドアがノックされて「朝食の準備が出来ました」と声がかかる。

食事をしながら、今日は何をして過ごそうかと考える。宿のマネージャーをしている若い女性もキッチンその他の仕事をしているネパール人スタッフたちも礼儀正しく、かつフレンドリーだ。

宿を出たところで、オートリクシャーをつかまえる。最近はオートの運転手もスマホを持っていて、facebookなどを楽しんでいるのにはびっくりする。やはり安いプランが選択できて、毎月の定額基本料がなく、ただしプリペイドのクレジットには使用期限があるとはいえ、そのくらいは普通に使ってしまうだろう。

回線契約時にハンドセットの抱き合わせ販売ではないのもいい。もちろんそういうプランもあるようだが、SIMと携帯電話機は個別に購入するのが一般的だ。携帯電話機は、中国製等で非常に安価なものが出回っているし、様々な機種がよりどりみどりの中古市場もあるのがいい。スマホ環境では、日本よりもインドのほうが、ユーザーフレンドリー度と自由度が高いというパラドックスである。

宿を出たすぐのところから茶園が広がる

〈続く〉