Namaste Bollywood #38

Namaste Bollywood #38

今号の巻頭の特集はChallo Dilliである。2011年に公開された作品で、昨年の東京で開催されたIFFJ(Indian Film Festival Japan)でも上映されていたが、今年2月15日からはオーディトリウム渋谷を皮切りに順次全国劇場公開される。

ラーラー・ダッターとヴィナイ・パータクが演じるロードムーヴィー。エリートのビジネスウーマンがムンバイーからデリーへ空路でひとっ飛びしようとしたところが、ひょんなことから陸路で移動することになる。次から次へと降りかかるトラブルの中で、たまたま同じデリーに向かうことから道連れとなった下町のちょっと品がないけれども、機転に富みサバイバル本能にも長けたオジサンと繰り広げるドキドキ、ハラハラの珍道中。

内容についてあまり云々するとネタバレになってしまうので、このあたりまでにしておくが、商業映画としてはかなり低予算で製作されているようだが、ストーリーと演技、つまり中身で勝負して『結果を出した』秀作で、インド映画好きという括りではなく、世の中すべての映画ファンに鑑賞をお勧めしたい。

これに先立ち、サイーフ・アリー・カーン主演のエージェント・ヴィノードもシネマート六本木で公開されているが、こちらは2週間限定とのことなので、上映の残り期間はすでに秒読みに入っているので、観たいと思ったらまさに今、足を運ぶべきだろう。

その他もいろいろ大変興味深い記事が掲載されている。カタックの巨匠ビルジュー・マハーラージ師の来日、マードゥリーのボリウッド復帰作、日本版新発売のDVDその他いろいろ今回も貴重な情報が満載だ。なお、3月には「ボリウッド映画講座」の開講が予定されているとのことで、Namaste Bollywoodのホームページは常時要チェックだ。

さて、今年は日本在住のボリウッドファンにとって、これからどのような作品を観る機会が待ち受けているのか楽しみである。

ディブルーガル5

ディブルーガル大学のキャンパスの一角

田舎町ではあるものの、ディブルーガル大学という大きな総合大学がある。緑豊かで広大なキャンパスの中に様々な学部や研究施設などが点在しており、羨ましい環境である。

案山子はどこの国も同じような感じ

キャンパスの端まで歩くと、小さな出入口があり、外には農地が広がっていた。いくつかの集落を通って、宿へと続く道に出たところに地元の茶園直営の販売店があったので、茶葉を購入。ヒマそうにしていた女性の店長さんは陽気な人で、温かい紅茶をいただきながらしばらく楽しいおしゃべりの時間を過ごさせていただいた。90年代からの「旅行ブーム」は、このあたりの人々の間にもしっかりと定着しているようで、この人も家族でアッサム州内や近隣州に足を延ばしたりするそうだ。

茶葉のアウトレットの店長さん

「でも最近訪れてみた中で一番楽しかったのはアルナーチャル・プラデーシュ州よ。寒くなり始める時期だったから。雪なんて初めて見たし、ずいぶん高い峠を通ってチベット仏教寺院があるタワンにも行ったわよ。アッサム州と違って、公共交通があまりないみたいなの。それで家族でクルマをチャーターして回ったわよ。」

ディブルーガル地域には小さなものも含めて280もの茶園があるという。ダージリンの茶木とここのものとは少し種類が異なるらしい。ダージリンには中国の苗木を移植したわけだが、アッサムには元々土着の茶樹があったことに起因するようだ。その茶の原木の存在があったがゆえに、アッサム地方での茶業が開始されることに繋がったわけである。

中国由来の茶樹と違い、アッサム種は放っておくと、とても背の高い木になってしまうという。現在は中国種との交配が進み、純粋なアッサム種は稀で、茶園で栽培されているのはもちろん両者をかけ合わせたものだそうだ。茶樹の寿命は100年以上に及ぶが、商業的に利用できるのは60年前後であるとのことだ。

この道路をしばらく進んだところに紅茶局が事務所を構えている。たまたま縁あって、ここに勤務している人の話を聞く機会を得たのだが、紅茶小規模農園には補助金を出して、茶業の振興を図っているとのこと。茶園オーナーはアッサムの資本家、他地域のインド人資本家あるいは外資だが、どこも事務系の職員たちはほとんどがアッサムの人たちであるそうだ。畑で作業している人たちのマジョリティはアッサム人ではなく、この地で19世紀に茶業が始まったときに、オリッサから労働者として移住してきた人たちの子孫だという。いろいろ棲み分けがあるようだし、植民地時代からのそうした特色が今も残っているのは興味深い。

物産展が開催されていた。入場料10ルピー支払って入場して、簡単な昼食を取る。アッサム各地の製品を扱う業者たちが出展しているが、この地域の織物や衣類は地味なのであまり見栄えはしないように思う。漬物の店を覗いてみると、やはり見かけたのはタケノコのアチャール。北東インドではよく食材となっているが、私にとっても好みである。

タケノコのアチャール

商店街はそれなりに賑わっているだけでなく、クルマのディーラーや家電製品の大きな店なども多く、消費活動がかなり盛んであることが感じられる。

商店街の少し先には、アッサムの比較的伝統的な手法と様式建築を組み合わせたような、かなり傷んではいるものの、植民地時代に多かったのではないかと思われる家屋群が左手にあった。付近の人によると、ここには誰ももう住んでいないとのことだが、「もともとは警察の官舎であったが、頻繁に幽霊が出て、憑依されて殺される者が二人出たので、全員ここを引き払うことになった。」とのこと。本当かどうかよく判らないが、幽霊が頻出するというのはちょっと怖い。

神像の作業場は休みであったが、中を見学させてもらうと、なかなか楽しかった。木で組んだ骨組みに藁をヒモで巻きつけて肉付けしていく。それを上から粘土を塗りつけて、最後に色付けして仕上がる。置いてある神像は工程がそれぞれバラバラであったので、おおまかな手順が判る。

ブラフマプトラ河沿いには、裁判所、刑務所、警察署等々の行政機関が建ち並んでいる。重要機関が水際に集まっているのは、水上交通の拠点として発達した街に共通する事象だ。

岸辺には陶工たちの作業場兼住まいが並んでいる。一日の早い時間帯に仕事を済ませてしまうようで、形成した後に日干しにして火入れに備えてあるものは沢山みかけるものの、何か作業している人たちは見かけなかった。

ディブルーガルは、隣接するアルナーチャル・プラデーシュ州への玄関口のひとつでもあり、ここからシェア・スモウなどの乗合が発着している。今回はそちらまで足を延ばすことはないが、またいつか機会を得てアルナーチャル・プラデーシュ州も訪問してみたいと思う。

アルナーチャル・プラデーシュ州行きの乗合の広告看板

〈完〉

ディブルーガル4

普段、宿泊する場所へのこだわりはなく頓着しない私だが、植民地時代の英国人のバンガローを独占できるという環境(たまたま他の宿泊客がいなかったからであるが)は、とても快適かつ気持ちの良いものである。

窓のカーテン越しに漏れてくる陽光で、朝が来たことを知る。起き出してしばらくの間、ノートパソコンを開いて、メールのチェックをしたり日記を書いたりする。しばらくするとドアがノックされて「朝食の準備が出来ました」と声がかかる。

食事をしながら、今日は何をして過ごそうかと考える。宿のマネージャーをしている若い女性もキッチンその他の仕事をしているネパール人スタッフたちも礼儀正しく、かつフレンドリーだ。

宿を出たところで、オートリクシャーをつかまえる。最近はオートの運転手もスマホを持っていて、facebookなどを楽しんでいるのにはびっくりする。やはり安いプランが選択できて、毎月の定額基本料がなく、ただしプリペイドのクレジットには使用期限があるとはいえ、そのくらいは普通に使ってしまうだろう。

回線契約時にハンドセットの抱き合わせ販売ではないのもいい。もちろんそういうプランもあるようだが、SIMと携帯電話機は個別に購入するのが一般的だ。携帯電話機は、中国製等で非常に安価なものが出回っているし、様々な機種がよりどりみどりの中古市場もあるのがいい。スマホ環境では、日本よりもインドのほうが、ユーザーフレンドリー度と自由度が高いというパラドックスである。

宿を出たすぐのところから茶園が広がる

〈続く〉

 

ディブルーガル3

この町での滞在先、Chowkidinghee Chang Bangalowは、植民地時代にイギリス人ティー・プランターの屋敷であったものが宿泊施設に転用されている。その名の示すとおり、ディブルーガルのチョーキディンギー地区にある。宿の周辺は茶園が広がっており、静かで雰囲気もいいのだが、歩いてすぐのところにマーケットもあり、とても便利なロケーションでもある。

塀の外は茶畑
英領期にタイムスリップしたかのよう

建物はきれいに手入れされているが、古い時代の雰囲気を損なうようなものではなく、往時のたたずまいをよく残しているのではないだろうか。英国時代からのコロニアル邸宅、イギリス人が暮らしていた住宅といったものは、ダージリンやシムラーなどのヒルステーションでも見られるが、このような建物にイギリス人がノルタルジアを感じたり、格別な興味を持ったりするものなのかどうかは知らない。

だがイギリスがインドを去ってから時代が下るとともに、こうした建物は確実にその数を減らしていったり、朽ち果てていったりしていることが多いことから、いいコンディションでオリジナルの状態に可能な限り忠実に保存していることには、歴史的・文化的な価値も高まっていると言えるだろう。

宿で食事を注文することもできる。メニューは用意されておらず、日替わりの「おまかせ料理」となるが素晴らしいものであった。トマトのスープから始まり、ひょっとしてイギリス式の食事が出てくるのかと思ったら、出てきたのはインド料理であったが、ズィーラーのご飯、ピーマンのスタッフ、チキンカレー、野菜、ダールで、どれも良く出来ていた。デザートは温かい果物のプディング、そしてチャーイ。

2階にある広々とした応接間は居心地がいい。他の宿泊客もなく占領してしまうことができるのはなんと贅沢なことであろうか。階下で宿帳をめくってみると、私の前に宿泊した人はイングランド人で、しかも20日ほど前の利用客であった。

応接間のテレビを点けてみると、ちょうどZサラームというウルドゥー番組で素晴らしいカッワーリーをやっていた。ムシャーイラーもやっており、文化的でよろしい。こういうイスラミックな番組では、ムスリム向けのCМもやっているのでこれまた興味深かったりする。アッラーの名が刻まれた金のロケットで、アメリカのストーンがはめられているとかいうものが2499ルピーという。今から30分以内に注文すると、ひとつ注文してもうひとつついてくるのだとか。なんだか日本のテレビショッピングと並みのレベルの怪しさである。

このバンガロー、イギリス人のティー・プランターが住んでいたころには、とりわけ茶園業の開拓時代には、海千山千の強者たちが集い、徒党を組んだり敵対したりしながら、様々な人生を切り開いていったことだろう。志半ばにして事業に失敗したり、病没してしまったりした人も少なくないだろう。そんな舞台が今でも残っていること、そこに宿泊できるということは、英領期について、あるいは紅茶の歴史について多少なりとも関心のある人には嬉しいことだろう。まさにインドならではのヘリテージな宿である。

鉄道の汽笛が聞こえてくる。遠く海を渡ってきて、茶にまつわる生業を営んでいた人たちもこの汽笛を耳にして「そろそろ夕食の時間だな」とか「さて、寝るとするか」などと思いながら暮らしていたのだろうか。

〈続く〉

ディブルーガル2

どこもかしこも茶園でいっぱい

ディブルーガルの市街地に入ったあたりで、「さて、どのあたりだろうか?」とスマートフォンで地図を見てみる。近年はこうした機器やネットワークの普及により、以前は考えられなかったことが容易に可能となった。Googleの地図に出ている情報はかなり散漫であったりもするが、町歩きに「地図」(ガイドブックに掲載されているものであれ、購入したものであれ)は不要となったと言える。3Gネットワークが届いていない小さな町ではそもそも地図がなくてもいいわけであるし。

インドでは、しばしば「この土地ならではの宿」というものがあるが、アッサム茶の生産と集積の一大拠点で、茶業の歴史も長いディブルーガルでの特色ある宿といえば、英領時代のイギリス人茶園業者のバンガローである。こういうバンガローが市街地に一軒、郊外に一軒あり、私は市街地にある施設に宿泊することにした。

これらの宿は、プールヴィー・ディスカバリーという旅行代理店が運営しており、宿に直接出向くのではなく、市内のジャラール寺院近くにあるオフィスが予約等の業務を取り扱うことになっている。

ディブルーガルで面白いのは、市街地の中に茶園があったり、商業地のすぐ脇にも茶園が広がっていたりすることだ。もともとの市街地はもっと小さくて、茶園の部分にも市街地が広がった結果、このようになったのかもしれない。

お茶で有名なアッサムであるが、12月から2月までは茶園と茶工場ともに休業中である。休みの時期であるとのこと。冬季に茶園の仕事を見学したければ、南インドに行くことになるだろう。

ツヤツヤとした茶葉

〈続く〉