バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー

ヤンゴンを訪れる際には必ず訪問することにしており、このindo.toでも取り上げたことがあるムガル最後の皇帝のダルガー。

最後のムガル皇帝、ここに眠る(indo.to)

再訪 バハードゥル・シャー・ザファルのダルガー(indo.to)

シュエダゴォン・パヤーの近くあるのだが、徒歩ですぐというわけではなく、やや離れているため、タクシーの運転手にこの場所の名前を伝えても、あるいは写真を見せたとしても、なかなか判ってもらえないことが多いこので、ここに出向くためにはダウンタウンあたりで年配のインド系ムスリム男性にこの場所について簡単な説明をビルマ語で書いてもらうのが良いようだ。

昨今の「ミャンマー・ブーム」により、ダルガーも資金の回りが良くなってきたのか知らないが、今回訪れてみると上階の三つの墓(バハードゥル・シャー・ザファル、妻のズィーナト・メヘル、孫娘のラウナク・ザマーニー・ベーガムの墓石。これらはオリジナルではなく、3人を追悼する意図で再建されたもの)が並ぶ場所はきれいに改装されていたし、地下のザファルの本物の墓石がある場所にはガラスの扉が付けられていた。

今後、観光やビジネス等でヤンゴンを訪れる人々がますます増えるにつれて、ムガル最後の皇帝が埋葬されている地であるということに加えて、ダウンタウンやシュエダゴォン・パヤーに近いという至便なロケーションからも、ここが本格的な観光スポットとして注目されるようになることは間違いないように思われる。今は周囲に何もなく、ダルガーの敷地内に簡素な茶屋が入っているだけなのだが、そうした様子も数年のうちにすいぶん変わることとなるかもしれない。

ヤンゴンのコロニアル建築

ヤンゴンを訪れるたびに、ダウンタウン地区では大きくまとまった土地が更地になっていたり、そうしたところで忙しい工事が進行中であったりする。もちろんダウンタウンに限ったことではないのだが、やはり商業活動が盛んな地域であるがゆえに、そうした再開発の波をまともに受けることになるし、この地域に多く存在してきた植民地期の伝統ある建物がその数を減らしていくのはなんとも惜しい気がする。

思えば、タイを除いて欧州列強の植民地であった過去を持つ東南アジア諸国において、独立、近代化と経済成長は、そうした過去の残滓と決別する過程という側面もあった。しかしながら、彼らにとって外来の支配者であった帝国主義勢力による統治の時代も、やはりそれぞれの国々の歴史の一部であることは否定できるものではなく、そうした歴史的な価値、文化的な価値が大きなものであるという認識とともに、それらに対する保護に取り掛かるのが手遅れになる前に手立てをしようと動き出すのは当然の帰結であった。ゆえに、時代が下るとともに、そうした建物や街並みの保護や修復等がなされるようになったのである。もちろん観光資源としての価値が認識されたという背景もある。

そうした国々に大きく遅れて、植民地時代の遺産が危機を迎えることになったミャンマーだが、それでもヤンゴンには今でも英領自体の貴重な建物が沢山残されており、その規模たるや「東南アジア最大」とも形容されるのは、ヤンゴン、当時のラングーンが、少なくとも東南アジア地域における植民地時代末期における経済・文化の最先進地といえる立場にあったからに他ならない。

現在もヤンゴン市内に残る数々のコロニアル建築については、以下に挙げるいくつかのサイトをご参照願いたい。

Colonial Buildings of Yangon (myanmars.net)

The Yangon Heritage Walking Tour : See old Rangoon, before too much is lost (Myanmar Insider)

The way the old capital crumbles (The Economist)

さて、そうしたコロニアルな建物が取り壊されて、オフィスビル、その他の商業ビル、コンドミニアム等に建て変わっている現状は、とりわけ「ミャンマー・ブーム」到来以降、地価がうなぎ上りとなっているヤンゴンにおいて、土地の有効活用をしない手はないわけであるので、今度その勢いが加速することはあっても、スローダウンすることはなさそうだ。

そもそもコロニアルな建物を長年愛おしく思って大切に保護してきたわけではなく、それ以前からあるから利用してきたがゆえのことであり、建て替えるお金もなかったから今まで使われてきただけのことでもある。

しかしながら、こうした建物の保全を訴える声もそれなりにあるわけで、30 Heritage Buildings of Yangon (Association of Myanmar Architects)のような、ヤンゴン市内のヘリテージな建物を取り上げた書籍はいくつも出ているし、WHERE CHINA MEETS INDIA (邦題:ビルマハイウェイ)の著者であるビルマ系アメリカ人の歴史家、タン・ミン・ウーが設立して会長を務めるYANGON HERITAGE TRUSTのように、歴史的建造物の保護を訴える他団体とも協力して、すでにいくつものプロジェクトを進めている組織もある。

こうした活動について、AL JAZEERAが興味深い記事と動画を提供している。

Restoring Rangoon (AL JAZEERA)

私自身も、手遅れになる前にこうした歴史的な景観の保存に対する動きと社会の認識が本格化することを願いたいが、上記のリンク先のAL JAZEERAの動画でタン・ミン・ウーが述べているように、ミャンマー政府にはこれからやらなくてはならないことが山ほどあり、こうした歴史遺産に対する手間をかける余裕がない。また彼ら民間による保護活動にも資金的に大きな壁があることなどから、なかなか難しいようだ。

そうした中でも、建物そのものの存続を可能とするためのホテルとしての転用であったり、その他の商業的な活用であったりというアイデアもいろいろ出てきているようだ。たとえ出資者の目的が純粋に伝統的なもの、歴史的な遺産の保護ではないにしても、その建物自体が後世に残ること、存在そのものが持続的に維持できるものであるとするならば、大いに歓迎すべきことであろう。

1988年 アマゾネス女性たちと蒸し暑い部屋の悩ましい記憶

英領期の建物もどんどん姿を消しつつあるヤンゴンだが、上の写真の建築物の左隣とそのまた隣はずいぶん前に取り壊されて、モダンな高層ビルが建つようになっている。この建物もすっかり空き家になっているようで、窓が壊れていたり、荒れ放題なので、もうじきこの世から姿を消すのだろう。

かつて、この建物には外国人が宿泊できるゲストハウスが入っていた。そして建物右手の地上階には国営の旅行会社のオフィスが入居していた。初めてミャンマー(当時はビルマと呼ばれていた)を訪問した際、そこに宿泊したことがある。当時は強制両替というのがあり、ひどく割の悪いレートで一定金額の外貨をビルマのチャットに交換させられたものだ。その対策(?)として、バンコクの空港免税店で、ジョニ赤と555の1カートンを購入して、ヤンゴンの繁華街で売ると、それらの品物の購入金額相当の米ドルを闇で両替するよりも割のいいレートでチャットが手に入る、という手段もあった。

まずこのゲストハウスに宿泊し、その近隣でウィスキーとタバコを売り、それから閉店前までに国営旅行会社(外国人を相手にするのはここだけだった)で列車チケットを予約してマンダレーとバガンを駆け足で回るのが、当時のお決まりのコースだった。なにしろヴィザの滞在期間がわずか一週間しかなかったし、当時はまだ内戦も各地で行われていたため、確実に訪れることができるところはごく限られていたのだ。そんなことを思い出しながら、この建物の前でたたずんでいると、ヤンゴン、はるか昔、当時のラングーン到着の最初の日のことをふと思い出した。

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そう、あれは1988年のことだった。 午後のフライトでバンコクから到着。ウイスキーとタバコを免税で買って入国。聞いたとおり強制両替があって、市内のこの宿に着いてから、階下にウロウロしていた商売人に売却。国営旅行社に行って、マンダレー行きのチケットを購入しようとしていると、順番待っているうちに営業時間終わりとなって閉店。困った。翌日は週末で旅行社は休みだ。駅で当日券あるかな?と仕方なく、隣の食堂で麺をかきこんで、旅行社が面しているパゴダを見物。地元の同年代の当時の若者たちとしばらく世間話していると時間が遅くなった。

宿に戻り、私が宿泊するドミトリー(沢山のベッドが置かれた大部屋)に足を踏み入れて、このときはじめて気が付いたのだが、20近くもぎっしり詰め込んだベッドのうち、他の宿泊客はみんな西洋人の若い女性ばかり。しかも暑い国で室温は40℃近いはず。クーラーもないので、当然のごとく小さなパンティー以外何も身に着けていない。ヌードグラビアから出てきたかのような女性たちの美しい姿にドギマギした。

 

目のやり場に困り、とりあえずシャワーでも浴びようと共同の浴室に向かうと、ドアがバァンと開いて、私の胸元にぶつかりそうになったのは、浴びた水がまだ髪の毛からしたたる全裸の女性。思わず鼻血がほとばしるかと思った。思わず目を下に逸らすと、彼女のつつみ隠さぬ股間が目に入り、頭に血が上って、こめかみあたりでドクドクと鼓動を感じてしまう。

どうしてこういうことになっているのか頭の中が整理できない私は、とりあえずシャワーをザーザーと浴びて頭を冷やすことにした。「大部屋・私以外みんな女性でグラマー・しかもほぼ裸」という空間に入っていくのかと思うと、非常に得をしたような気分ではあったものの、その反面大変に気が重いことでもあった。

バンコクからの飛行機は同じながらも、隣室のドミトリーをあてがわれていた日本人男性は、私のドミトリーの入り口で「すげぇ、アマゾネスの部屋やんか!?」なんて小声で呟いて私の顔を見てニタニタ笑っている。

彼と外にタバコを吸いに出てから部屋に戻り、隣のベッドの女性と少し話をするものの、豊かな胸元から視線を外すと、今度は素敵な腰の曲線部が気になって仕方なくなるし、そこから目を逸らすと、今度はその背後ではこれまたグラマーな女性が衣服を脱いで、見事なまでに豊かなバストがどさっとこぼれ落ちるところであった。もはやどうしようもないので、早々に寝ることにした。幸いなことに、翌日早く出発する人たちが多いようで、まもなくドミトリーは消灯。

だが困るのは、ほとんど間隔もなくぎっしりと並べられたベッドに横たわるほぼ裸体の女性たちの魅力的な肢体が月明かりに煌々と照らし出されていて、実によく見えてしまうのだ。脱水症状になりそうな蒸し暑さの中、手を伸ばせばすぐに届く距離に、たわわなバストが、尻が、脚が・・・。右にも、左にも、頭上にも、足元にも・・・。まるでこれは拷問のようだ。

夜になっても生温かく澱んだ暑い空気の中で、天井で回るファンだけがカタカタと音を立てている。頭の中を様々な煩悩が行き来して、それらをなんとか振り払おうと試みるものの、新たな煩悩がその行く手を遮る。少しウトウトするも、その淫靡な妄想がそのまま形になった夢になって現れては、目が覚めてしまう。

そんなこんなで、大変困った状態でまんじりともせずにいると、いつしか東の空が少し明るくなってくる。心なしか風も少し涼しくなってきたかのような気がする。

ところどころで、誰かのバックパックの中から「プププ」「ジリジリジリ」という目覚まし時計のアラーム音が聞こえてくる。早朝の列車だかバスだかで出発するのだろう。

そのあたりで、煩悩やら妄想やらに振り回されてクタクタに疲れている自分に気が付き、どど~んと眠りの深みに落ちていった。

ハッと気が付くと、すでに朝10時過ぎ。宿の使用人が「おーい、チェックアウトの時間で過ぎてますぞ!」と私を起こす。もはや早朝に駅で当日券買ってマンダレー行きなんていうタイミングではなくなっていた。 周りのベッドには女性たちの姿も彼女らの荷物もなく、すべてもぬけの殻となっていた。滞在可能な日数がとても短かった当時、時間を無駄にする者はいない。

昨夜ずっと悩まされた光景は、夢か幻かと反芻しつつ、すでに気温が急上昇している街中へと繰り出した。

※画像はイメージであり、文中の女性たちとは何ら関係ありません。

ヤンゴン到着

ヤンゴンに着いた日の晩は、空港目の前のホテルSEASONS OF YANGONに宿泊した。

数年前には朝食込で一泊の料金が25ドル、30ドルといった料金で、ずいぶんなお得感があったものだが、ミャンマー・ブームで市内の宿泊料が急騰のご時勢だけに、70ドルというところまで来ている。私は、翌朝早い時間帯にフライトに搭乗する予定がある場合、ホテルから道路を渡るだけで国内線ターミナルにも国際線ターミナルにも着いてしまうという安心感から利用していた。

今回は、翌朝のフライトは午前11時という非常に楽な時間帯ではあるものの、朝の時間をゆったり過ごしたくて、ここに泊まることにした次第であるが、たかが「寝るだけ」のスペースのために70ドルというのは無駄に感じられるとともに、また近い将来訪れる際にはさらに金額が上昇していることは間違いないので、私がこのホテルをまた利用することはないように思う。

空港近くに宿泊していると、雑踏が恋しくなり、タクシーでダウンタウン地区まで出ることにした。ところどころで、新しくオープンしたらしい時計やカバン等の高級ブランドの直営店(?)などが目に入ってくる。これまではインドの街に似ている印象を持っていたヤンゴンの街だが、今にタイの街のような感じになっていくのだろうか。

ダウンタウンで下車して、中華料理屋で夕食を取った後、ドーナツ屋でコーヒーを飲みながら店内のWIFIを利用してメールのチェック。隣の席には子連れの母親が彼女自身の妹らしき女性と楽しそうに会話している。小学校に入るあたりの子供がいながらも、非常にお洒落で美しい人がいるというのは、やはりこれから豊かになりつつある都会らしいところなのかもしれない。生活にゆとりがあるゆえのことである。

窓の外を行き交う人々を眺めていると、とりわけ若者たちの間ではロンジー姿ではない洋装になっている人たちがずいぶん多くなっていることに気が付いたりもする。通りには携帯電話のハンドセットを販売する店が増えているが、前はどんな商売をしている店舗が並んでいたのかよく思い出せない。

ミャンマー・ブームの到来は、ビジネスだけではなく観光客も大いに誘致する結果となったことを受けて、スーレー・パゴダ近くのこのエリアには、まだ商品は垢抜けないものの、明らかに外国人観光客のみを相手にするみやげもの屋もいくつか出来ている。今後も通りの眺めはどんどん変化していくことだろう。

日没後、次第にあたりが暗くなっていくこの時間帯、店内に入ってくる人や出ていく人、外を歩いている人たちの様子などをウォッチングしているのもなかなか楽しかったりする。

無神論者センター

「信仰の大地」という表現がよくなされるインド。確かに社会生活や政治における宗教の果たす役割が大きいことは間違いない。いろんな宗教が混在し、それぞれ大小様々な教団や施設を運営していたりするし、日常的に人々の宗教生活を目にすることも多いだろう。

だが同時に無信仰の人たちも決して少なくなく、とりわけ迷信やそれを煽るような活動に対して眼を光らせる無神論者センターのような組織もある。

この組織はいわゆる迷信の類に限らず、聖者による「奇跡」の背後にあるトリックに対する検証を行っていることでも知られており、彼らの活動は各種メディアでも取り上げられていたりする。個人的には、そうした奇跡そのものは教えの本質ではないため、そう目くじら立てることもないのではないかとは思うのだが。

無神論者ではなくとも、寺院や祭礼といったものに対して冷淡な人たちも少なくない。「神と人間は直接に交流すべきものであり、意味のない形式ばかり尊重する仲介者は不要」というスタンスであることから、私たち日本人の平均的な感覚とも近いと言えるかもしれない。もちろんこうした人たちはインドの主流派ではないのだが、インドの「信仰生活」の中における一側面ではある。