SWACHCH BHARAT (Clean India)

モーディー首相率いる現在の政府が打ち出しているスワッチ・バーラト(Clean India)
キャンペーンにあやかって、各地でもスワッチ・ブジだのスワッチ・ラージコートだのという呼びかけがなされているようだ。

政党の活動家やらその手の人たちか、それとも地元の住民たちが自発的に行なっているのか知らないが、明らかに本来の掃除人ではない人たちが大勢で道路を清掃している姿もあったりするが、なかなかいいものだと思う。

これが一過性のものではなく、今後も続くといい。写真はムンバイの繁華街のコーラーバーにて、「スワッチ・コーラーバー」。せめてポイ捨てはやめて欲しいものだが、大都会の商業地では、土地に根っこを持たない人が多いので、ちょっとムズカシイかもしれない。

だが日常的にこうしたものを目にするだけで、人々の意識は変わってくることだろう。たとえ時間はかかるとしても。こうしたものが公衆衛生やトイレの普及(こちらについても今回の政府は力を入れている)等々、民生の向上に繋がってくれると大変嬉しく思う。

政府の掛け声でこうしたキャンペーンが展開されたのは、実はこれが初めてではない。だが今回はモーディー首相の人気ぶりと指導力に大いに期待したいものだ。

豪華なパーン

ムンバイーのコーラーバー・コーズウェイで超豪華版のパーンを見かけた。
インド人観光客向けにいかにも豪華なものに仕上げてあり、てっぺんにはチェリーまでのっけている。
最近は喫煙人口も大きく減ったように見えるインドだが、しばしばタバコ葉も使用されるパーンを嗜む人も減ったように見受けられるが、こんなに美しく飾り立ててあると、久しぶりに口にしてみたいと思う人、普段は口にしないけれども、試してみたいと思う人は少なくないはず。
田舎から上京して、あるいは他の都市からここムンバイーにやってきての物見遊山。そんなハレの日くらいには、パーンを楽しんでみてもいいだろう。
そんな時にはやっぱりこれくらい非日常的な豪華版のほうがふさわしい。

映画「PK」

映画館のポスター

12月19日に公開されて大きな話題となっている「PK」を観に行った。

宗教各界から上映中止を求める声が上がったり、あるヒンドゥー右翼団体による激しい抗議活動が展開されたりなど、様々な反響を呼んでいる作品である。

Protest against Aamir Khan’s ‘PK’ escalates, theatres in Gujarat vandalized (THE FINANCIAL EXPRESS)

あらすじを簡単に説明すると、このような具合だ。この作品をこれから観ようという方は、ここから先を読み進むとネタバレとなってしまうことをご了承いただきたい。

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地球の調査のためにラージャスターンに着陸した宇宙人(アーミル・カーン)が到着。だが間もなく、身に付けていたロケット(Locket : 胸飾り)を奪われてしまい、仲間と交信することが出来なくなってしまった。これなしには帰還することが出来ないため、彼にとっては死活問題となる。

これと同時並行で、ベルギーでパーキスターン人のサフラーズと恋に落ちたジャッグー(アヌシカー・シャルマー)が、サフラーズの裏切り(その時点ではジャッグーにとってそのように捉えられた)で傷心の帰国。そしてテレビリポーターとしてのキャリアをスタートさせる。

何か特ダネはないかと模索していたジャッグーは、「神が行方不明。ご存知の方は下記までご連絡を」と書かれた奇妙なチラシをデリーメトロ車内で配布する黄色いヘルメット姿の男、PKと出会う。

この男に興味を持ったジャッグーは、彼と接触を試みる。あるときお寺で賽銭箱から現金を抜き取ったPKが人々に袋叩きになりそうなとき、機転を利かせて自分の財布を賽銭箱の中に落とし、「彼は私の財布を探してくれようとしていたのだ。嘘だと思うなら賽銭箱を開けて調べてくれ」と言う。果たして、開かれた賽銭箱からはジャッグーの名前と顔写真が入ったIDが入った財布が出てくる。

これがきっかけとなり、ジャッグーに対して心を許しつつあるPKが自分の身の上を語り始めるようになった。最初は彼の言うことを信用していなかったジャッグーだが、彼が人の心を読み取る特別な能力があることを知るにいたり、彼が自分の星に帰還できるようにするため全面的に協力することを約束する。

このふたりが邂逅する前、PKはまず地球人の言葉能力を獲得するために協力してくれる人(数時間に渡り、その相手と手を繋いでいる必要がある)を見つけるために苦労を重ねる。その能力を得てからは、どうやら自分が取り戻そうとしているものを手にするためには、「神」という存在に頼らなくてはならないというように考えるようになったが、その神を祀る宗教施設、神との間を取り次ぐということになっている聖職者等は世間にたくさんあるものの、実際には誰ひとりとしてその神に直接接した者はいないことが判ってきた。

またその神に対する人々の態度も様々であり、それぞれ異なる方法で接していることから、どれが正解なのかPKには計りかねた。ある宗教(キリスト教)では清浄なものであるとされているワインがイスラーム教徒にとっては禁忌であったりする。いったい神とはどこにいるのか、また人々に何を説いているのか・・・。

やがてPKは、ある有名なヒンドゥー聖職者がヒマラヤで神が授かったものであるとして、自分のロケットを持っていることを知ることとなった。宇宙船からラージャスターンの大地に降りて間もなく、彼のロケットを強奪した男は、なんとこの聖職者にこれを高く売りつけていたのだ。

この後、ジャッグーが所属するテレビ局が、この聖職者とPKの対談の中継が実現し、ふたりは激しいバトルを展開していく・・・。

最後にようやく再びロケットを手にしたPKは、ジャッグーに見送られて宇宙に帰還する。
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大変良く出来た、腹を抱えて大笑いできるコメディー映画であるのだが、同時に非常に社会批判性の強い作品でもあり、信仰や人間性といったものに対していろいろ考えさせてくれる仕掛けがあちこちに散りばめられている。

自然界に存在しない、人間が創り上げた文化、つまり「信仰」「宗教」などと呼ばれるものが、人々を分け隔てしまっていることに対する痛烈な批判。万が一、神という存在がこの世にあったとしても、本来ならば個々がその神とやらに直接コンタクトすればいいところだが、宗教者やら宗教団体という、いわば「ブローカー」が介在して、人々から上前をハネていること、巨万の富を生み出すビジネスとなっていることなどについて、これまで少なからず疑問を抱いていた人たちは多かったことだろう。

そんなことから「神」と距離を置く個人はあっても、表立って異を唱えることが出来ないのは、所属する共同体とのしがらみであり、さらには家族の世間体への配慮ということになるのだが、これを軽々と乗り越えてしまうのが、様々な神々に自らの問題の解決を懇願しつつも果たせず、それぞれの宗教の矛盾を体感してしまった宇宙人であり、この世のそうした事柄とのしがらみを持たないニュートラルな存在であるからだ。

さて、神を信じようが信じまいが、信仰というものが、それぞれの国や地域における精神文化、思考や価値観と切り離せないつながりがあることはもちろんのことである。また、共同体意識、社会奉仕の精神、道徳観といった精神性の部分で果たす信仰の役割は決して悪いものであるとは思わない。それでも先述のとおり、宗教というものには、非常にネガティブな部分も多く、それを表立って糾弾しにくいものがある。

加えて、万人の平等やらなんやらを唱えつつも、信仰そのものは往々にして味方と敵を区別する旗印になっており、そのカラーの違いで向こう側の人たちを傷つけたり、殺めたりということがしじゅう世の中で起きていることは誰も否定できないだろう。

作品中でこんなシーンがあった。
アーミルが木のたもとに石板を置き、もうひとつ大きめの石をちょこんと立てて、その「額」にあたる部分に赤いティーカーを付ける。それで神像に見立てたうえで、その前の石版に幾ばくかのコインを置き、「これで投資が何倍にもなる」とつぶやく。

やがて通行人たちがこれを見つけて、次々に祈りを捧げ、賽銭を置いていく。中には地面に身体を投じて、つまり腹ばいになって祈る人も出てくる。観客たちは大笑い。
そうした中で、チャーイワーラーもあらわれて、そうした人たちにチャーイを売るようになる。

アーミルが仕掛けた「石」は、結局のところ、人が「でっち上げた」怪しげな宗教団体なり、施設を示唆しており、そこには神など存在しないのに盲信してしまう人々を象徴する。

そのお金を生みだす「石」と、おなじくお金を稼ごうとするチャーイワーラーの比較で、「あの人、あのひと(チャーイワーラー)は、お客を呼び込むためにへつらい、腐心するけど、あちら(神像に見立てた石)のほうは人々にへつらうことなく、向こうからやってきて、しかもお客のほうが媚びへつらっている」と揶揄する。

また信仰の典型的な装いを、それとは異なる信仰の人たちに着せて登場させてみたりするシーンもあった。そうした見せかけのカタチにとらわれていると、事実を見誤ってしまうこと、本当に大切なのは××教徒という装いではなく、もっと本質的なことであることを私たちに悟らせてくれる。だがこの映画が唱えているのは無神論であるかといえば、そうでは決してないことが判ることと思う。

アーミル演じるところの宇宙人は本来、裸であるというところで、本来人々自らが何ら自身を偽って飾り立てることない清らかな存在であるらしい思わせるところで、生のままの自らに内在しているはずの神性や善性を示唆していたりするなど、すべてのシーンやセリフ回しに、数え切れないほどのメッセージがこめられている。

だが、それらがまるでそれぞれの水源から始まった川の流れが次第に合流して大河となって、やがては大海に注がれるように、きれいに統合されていく展開は見事だ。それでいて、まったく説教臭くないのも素晴らしい。
ここに描かれているのは信仰に関する事柄のように見えるが、実は世の中あちこちで普遍的に存在する不条理な「常識」「因習」「しがらみ」への挑戦でもあり、インド国外でもグローバルに支持される内容だと思う。基本的にはワッハッハと腹を抱えての笑いをとるコメディー映画だが、あちこちに散りばめられた鋭い社会党批判とエンターテイメント作品中としての両立に、いたく感激した。

また、その後の現実社会の展開も興味深い。宗教勢力の一部から映画の中での表現を巡って物言いがついているが、その内容はごく表層的な部分への批判にしかなっておらず、作品が指し示した本質的な部分に関しては、手も足も出ない状態のようだ。まさに映画「PK」のファイナル部分での展開と同じになっているのが興味深い。こうした勢力から上映差し止めの請求が出されたものの、裁判所は「観たくなければ、観なければいい」とこれを却下している。

まさに「PK」の痛快なストーリーが今度は現実社会で続いているわけで、ここでまた大笑いなのである。いつか日本で上映される日も来るであろうから、皆様にもぜひご覧いただきたいと思う。

バーングラーデーシュの2タカ硬貨は日本製

すでに1年ほど前の話になるが、日本の独立行政法人造幣局がバーングラーデーシュの2タカ硬貨を製造することとなっている。

バングラデシュ中央銀行から2タカ貨幣の製造を受注(独立行政法人造幣局)

バングラデシュ2タカ貨幣製造受注に関する契約調印式(独立行政法人造幣局)

他にもニュージーランド、スリランカ、カンボジアブルネイミャンマーオマーンなどの記念硬貨の製造を受注している。また、独立行政法人印刷局はインドネシア政府証券印刷造幣公社との間で技術協力等に関する覚書を交わしている。

独立行政法人国立印刷局とインドネシア政府証券印刷造幣公社との間で技術協力等に関する覚書を締結 (独立行政法人国立印刷局)

日本の紙幣の印刷に使われているのは株式会社小森コーポレーションの印刷機だが、インド中央銀行に紙幣製造一貫プラントを1996年に納入開始している。

日本の貨幣製造技術が国外でも高く評価されているがゆえのことであり、人々が日々手にするお金に日本の「技」が生きているということは喜ばしく思う。

ASUS TF103C

 

最近のAndroid環境は、スマホでやタブレットといったハード面でも、OSやアプリ等のソフト面でも、AppleのiPhone, iPadなどに較べて遜色なくなってきた。

タブレットも携帯性を重視した7インチという小さめのサイズ、主に自宅での利用を視野に入れた10.1インチの大型画面のモデル等、各々の使用目的に応じて、様々な価格帯から選択できるようになっている。先月はLenovoから13.3インチという、とりわけ大きな画面を持つタブレットも発売されている。タブレット端末も低価格化が進み、かなりハイスペックなものが手頃な価格で購入できるようになっているのも嬉しい。

これほど世間にタブレットが浸透している背景には、寝ているとき以外の時間帯にはネットに常時接続であるということが当たり前になっていること、様々な形態によるネット接続の普及、電子書籍の普及などもあるが、大きな画面サイズであるがゆえの「スマホではこなせない利用目的」や「パソコンではちょっと難しい用途」、つまりスマホとパソコンの間の隔たりを埋めるエリアへの需要が高いからだ。スマホ、タブレットとパソコンの利用目的は重なる部分はあるものの、守備範囲は大きく異なるがゆえに、三者三様の需要がある。

だがタブレットのサイズについては、ノートパソコンに近いものがあるため、このふたつを兼ねることができる、つまりタブレットとしてもノートパソコンとしても利用できるようなものがあると便利、というニーズも当然あるわけで、それに対応したのがウィンドウズOSで駆動する、あるいはAndroidで動くキーボード付きタブレットであるということになる。

両者ともに長所・短所があることについては否めない。前者はほとんどパソコンとして利用できる強みがあるが、それとは裏腹にスマホで馴染んでいるAndoroid環境とは異なることにストレスを感じたりすることもあるだろうし、Androidではごく当たり前のアプリがWindowsにはない、ということもよくある。

後者については、従来のスマホやタブレット環境と同じという点が利点であるとともに、Windowsではないためパソコン環境とかなり違うという不利な部分が表裏一体となっている。つまり「いつも使っているアプリ」をじゃんじゃん利用できるという便利さがあるものの、マウスを使えないこと、印刷や保存ファイルの取り回しから始まって、パソコンでいつも使用しているソフトを使うことができないなどといった制約がある。

だが最近ではAndroid 端末からの印刷が可能となっているプリンターは少なくないし、少なくともオフィス系のソフトならば、Microsoftの製品と互換性を持たせたものが出ている。そのため、タブレットとして利用しつつも、限りなくパソコンに近い使用さえも可能な製品も数多く出回るようになっている。

日本語文書を作成する際に、打鍵数が少なくて大量の文字を打つ場合に有利な「かな入力派」にとって、Android端末への物理キーボードからの日本語入力環境が基本的に「ローマジ入力」であったことすでの過去の話となり、現在ではnicoWnn IMEをインストールすることにより、「かな入力」環境がごく当たり前に用意することができるようになった。

キーボード付きタブレットといえば、やはりパソコン的な用途となることが多いためか、Windows RTあるいはWindows 8で動くモデルが多いようだ。しかしながら個人的にはスマホあるいは小ぶりなタブレットの延長線上にあるAndroidベースのものもなかなかいいと思う。先述のとおり、日本語入力環境が改善されていることもあるし、オフィス系のソフトもマイクロソフトと互換性の高いものが無料あるいは廉価で入手できるからだ。

そうしたアンドロイドOSでキーボード付きのタブレットとしては、ASUSのTF103Cはとりわけ魅力的に感じられる。今年7月に発売されたが、すでに3万円以下で入手できるようになっている。スペックもハイエンドとは言わないまでも、必要にして充分以上の性能だ。コストパフォーマンスの観点から卓越したものがある。

タブレット本体の重量は550gだが、キーボードを付けると1.1kgとやや重くなってしまう反面、手にしてみるとなかなかしっかり感があって好ましく思える。取り外しができるキーボードだが、造りもしっかりしているし、合体時には実にしっかりと本体と結合するのも安心感があっていい。

SIMを差し込んでの3GやLTE通信は対応しておらず、ネット接続はWifiのみとなるが、Wifi環境のない場所では、スマホからBluetoothテザリングでネット接続するという前提が考えると、これまた安上がりでいいかもしれない。

単体でタブレットとして使ってもよし、キーボードを装着してノートパソコン的に利用してもよし。日常生活で、また旅行先でも大いに使い回すタブレット兼ノートパソコンとしての大いに活用できる1台ではないだろうか。

Asus Transformer Pad TF103C 2-in-1 Android tablet review (liliputing.com)