カッチ ナヒーン デーカー トー クュッチュ ナヒーン デーカー (カッチを見なければ、何も見なかったのと同じ)

kutchh nahin dekha to kuchh nahin dekha (カッチを見ないのは何も見なかったのと同じ)」とは、グジャラートのカッチ地方を訪れた際のアミターブ・バッチャンの言葉。カッチ地方の人々へのお世辞とはいえ、やはり地元っ子たちは、いたく気に入っているようだ。とりわけ、外から来た人によくこの言葉を使う。
ともすれば、非常に寒いオヤジギャグになりかねないこの一言。市井の人が口にすれば、「ヘンなダジャレ」ということになるのだろうが、そこは父親が国民的な詩人であり、自身もインド映画界を代表する名優Big Bが口にすると立派な褒め言葉になる。
「カッチ ナヒーン デーカー トー クッチュ ナヒーン デーカー」
これを口にするカッチの人たちの表情を見ていると、Big Bに「よくぞこれを言ってくれた!」という感謝の意とともに、それを自身の深い郷土愛が感じられるようでいい。
アミターブ・バッチャンはグジャラート・ツーリズムがオーガナイズするRann Utsavのイメージ・キャラクターも務めており、彼自身もこのカッチ地方はなかなかのお気に入りなのではないかと思える。
これで見どころに欠ける土地だったりすると残念なだけなのだが、幸いにしてあまり手垢の付いていない魅力に溢れるカッチ地方だけに、この言葉は実にしっくりくるものがある。

グジャラーティー・ターリー

インドで一番豪華なヴェジタリアン・ターリー。不思議なのは、おかずやご飯と甘い菓子類をいっぺんにサービスすることだ。またバターミルクも付いてきて、これらすべてが食べ放題で飲み放題なので、とても嬉しい満足感がある。品数多いおかずの味付けは、このグジャラート州以外のインド北部地域とはずいぶん異なる。ダールもやけに甘いのだが、それはそれで美味しい。おかずも店によってずいぶん異なるものを出しているし、同じ店でも日によって出てくるものがかなり違うところもある。

おかずとチャパーティーやプーリーを食しながら、甘い菓子をかじり、ときどきバターミルクで口の中を洗い流すという作業を繰り返しているうちに、フラフラになるほど空腹だった自分がどんどん満たされていき、もうこれで充分と頭では思いつつも、ついついお菓子をもうひとつとか、いやあちらの菓子もいいなと次々にもらってしまうのである。

ただ欠点もある。ご飯党にとってはちょっと残念なのは、ライスを所望すると「さて、これで私はおしまいにします」という合図となってしまうことだ。もちろん頼めばもっと運んできてくれるのだが、ご飯を頼んだからには、この人は当然これで食事はシメである、という了解がある。

画像左上がプーラン・プーリー

先述のとおり、店によって中身がかなり異なるので、各アイテムの見た目が美しい店もあれば、ボリューム感抜群の店もある。ボリューム感とはおかずや主食のみで醸し出されるものではなく、やはり大きな役割を占めるのはお菓子類である。

こちらの写真の店では、人参のハルワーとともに糖蜜漬けになったローティーというか、プーリーというか、その名も「プーラン・プーリー (PURAN PURI)」というのだが、さらにこの中には黄色いダールで作られた餡子が入っている。この餡のような味は日本にもあったような気がするが、非常に甘くて脂分も大変多い。ダールでこのような餡を作るというのは初めて知った。

インド広しといえども、おかずや主食とともに甘い菓子をパカパカ食べるのは、グジャラートくらいだろうと思う。

私の隣のテーブルには、デリーから来たという中年カップルが座っていた。私と同じターリーを食べ始めているが、甘い菓子類はすべて断っている。
「甘いものは苦手で?」と尋ねると、小声でこんな返事が返ってきた。
「そんなことないけど、甘いものは食後に、当然別皿で食べたいもんだねぇ・・・」

まさにそのとおり。私もまったくもって同感なり。

白い塩の砂漠

朝9時の宿の前でオートがやってくるのを待つ。
先日久しぶりにお会いしたジェーティーさんにオートのチャーターを頼んでみたところ、「日本人女性が予約しているのでシェアすることにしては?」と言われたので、そうすることにした。本日向かうのはブジの町から北へ90kmほど進んだところ、Great Rann of Kutch (大カッチ湿原)の周縁部にあたる地域。

カッチ地方には、Great Rann of Kutch(カッチ大湿原)とLittle Rann of Kutch(カッチ小湿原)とがあるが、これらの「大」と「小」はあくまでもこれらふたつの面積の比較上の話であり、どちらも広大な湿原である。湿原とはいっても内陸部や高原などにある湿原と異なり、真水と海水が混じり合うものであることから、モンスーン期にはドロドロの湿地帯、乾季には広大な砂漠状態となるなど、季節によってその姿を大きく変化させる。

これらの地域は、人間にとっては不毛な大地で、製塩業や風力発電くらいしか利用価値のない土地ということになるものの、農業を含めた人々の経済活動に不向きであるがゆえに、人口も非常に少なく、人の手が入る度合いが少なかったがゆえに、独自の自然環境が豊かに残っているとされる。

カッチ湿原には野生動物の保護区が多く、以前カッチ小湿原にある野生のロバの保護区を訪れたことがある。

Rann of Kutch 1(indo.to)

Rann of Kutch 2 (indo.to)

Rann of Kutch 3 (indo.to)

Rann of Kutch 4 (indo.to)

野生のロバ以外にも、ニールガーイその他の大型草食獣、オオカミ等も棲息している。またフラミンゴその他の大型の渡り鳥も多く飛来しては、乾季にはカラカラに干乾びた大地となるこの地域に点々と残る水場で羽を休めていることから、この時期にはバードウォッチャーたちにとっての楽園でもある。

ホワイト・ラン、ホワイト・デザートと呼ばれるエリアまではかなり距離があるようだ。片道で90kmほどあるため、往復で180kmくらいになる。そんな長距離をオートで走ったことはこれまで私にはない。片道で3時間くらいかかってしまう。午前中はかなり寒いし、本当ならばタクシーのほうが良かったであろう。実際のところここに行く車両多かったのだが、私達以外はすべてバスか乗用車であった。速度も倍くらい違うため、移動に倍くらいの時間がかかってしまうことにもなる。

多少の植物が繁っていたり、まったくのカラカラの大地であったりという程度の違いで、基本的には単調でまったくフラットな景色の中を進んでいく。ブジからあまり遠くないところに枯れ河があった。雨季には流れる河であるとのこと。ブジからの行程を三分の二くらい進んだところにはビランディヤーラーという村があり、道路から少し外れて立ち寄る。

遠目には魅力的な伝統的なカッチの村に見えたのだが、実は観光客のためにしつらえてあるものであるという側面が強いことが判った。伝統を模したもので、それはそれで面白いのだが、ここでの稼ぎは女性たちによる手工芸らしく、どこの家でもそれらを販売している。売っていたものはビーズ細工であったり、刺繍であったりするのだが、稚拙な造りのものばかりであった。それなのにやけに高い値を言ってくるのだ。村の家屋内にはヒンドゥーの神の絵が壁に貼ってあるところもあったが、村の入口にモスクがあり、やはり運転手のバラトさんもこの村の住民たちは皆ムスリムであるという。なんだかいかにも観光向けの村といった具合だ。

その村を出てから道路に戻って少し進んだ先がポリスのチェックポストで、ここでパーミットを発行してもらう。ここからさらに30kmくらい進むとホワイトランに着くようだ。チェックポストを少し過ぎたあたりでは、ラクダの群れを飼育している男たちがいた。ラクダに任せてパーキスターンとインドの間を往来する密貿易が行われているとのこと。人はつかずにラクダだけが移動するのだというが、本当なのだろうか。

Rann Utsavの会場

ホワイトランにつく前に、開催中のRann Utsavの会場で食事することにした。12月初旬から3月初旬にかけて毎年開催されている政府主導のイベントで、会場には沢山のテントがあるとともに、食事の模擬店がいろいろ出ている。あまりたいしたものはないにしても、こんなところでこのような大きな規模のイベントが開催されていること自体がちょっとした驚きかもしれない。

Rann Utsavの会場から少し走るとホワイトランに着く。面白いのはそこに到着する手前までは塩のように見えるものは特にないのに、ある地点から急に真っ白になってしまうことだ。

入口にはゲートがあり、ここから塩原に入る。ふたりのBSFの兵士が警備していた。こここまで来る少し手前に検問があるが、そこもBSFの詰所であった。

どこまでも続く白、白、白・・・。
塩の塊は少し水分を含んでいる。

塩原はまるで雪原のようである。地平線の彼方(の方角はパーキスターン)までずっと白い塩原が続いている。なんとも不思議な光景だ。15日に一度の大潮の際に海水が流れ込んで、この広大な塩原を形成したのだという。塩の下を少し掘るとすぐに水が出てくる。この塩は不純物が多く、食用に適さないが除雪用、工業用として輸出されているとのこと。塩原には観光客をのせるための馬とその世話人たちがたくさんいた。白い塩の反射がまぶしく、目が痛くなりそうだ。満月の夜には塩原全体が銀色に輝くということだ。

少し掘るとすぐに水が出てくる。

ホワイト・デザート、塩で出来た砂漠があるというのは実際に目にするまで信じがたいような気がしていたが、こうして訪れてみるとこの光景は幻想的でさえあった。

ブジ市内

Sharad Bagh Palaceシャラド・バーグ・パレスへ。着いたのは午後1時半くらいで、ちょうど昼休み時間であった。今でもインドではこうした場所に昼休みがあるところはときどきある。古き良きインドがここにまだ残っているという思いがする。門のところで寝ている老人がいて、ただの使用人あるいは門番かと思ったが、チケットを売るのがこの人であったので、実は職員であることがわかった。

撮影隊のようなものが来ていた。何かと思えば、新婚さんたちの写真を撮るのだそうで、結婚記念アルバムにでも使用する写真を準備しているのだろう。夫婦どちらとも精一杯装っているようだが、非常に垢抜けないのは仕方ない。

パレス敷地内で、パレスの手前にある様々な品物等が展示されている部分には、トラの剥製もあったが、やはりトラの毛というのはネコなみに細やかでキレイなものであることが、すでに変色してしまっている古い剥製からも見てとれる。

シャラド・バーグ・パレスの背後部分は2011年の大地震でひどく破損したまま

パレスは屋上の欄干の部分が崩落してしまっているが、まだ正面からはこれでも地震による被害は少なかったように見える。しかしひどいのは背後で、階段がまるごと落下していたり、柱がスライドしてしまっていたり、二階部分ですっかり崩落してしまっている部分があったりという具合。2001年に発生した大地震の前には中を見学できたように思うが記憶違いだろうか。

その後、ここから旧市街に戻ってプラーグ・メヘルに行く。前回、2009年に訪れた際にはまだ修復作業中で、公開されている部分はあまりなかったように記憶しているが、作業はだいぶ進んだらしい。外も内もずいぶんきれいに直してある。地震以前よりもきれいになっているといえる。とりわけホールの部分は素晴らしくなっている。そのまま今でも王家のそうした場であるとして使えるようだ。しかし天井の崩壊が生々しい部分もある。天井の絵が無惨に落ちたままのところもあった。奇妙だったのは、壁がまるで木目のようにペイントしてあったりする部屋があったことだ。

大地震前でさえも公開されていなかった塔に上ることができるようになっており、ここからのブジを一望する眺めは素晴らしい。人口14万7千の街であるが20数万人万人規模のタウンシップで2001年の地震で公式の発表で3万人が亡くなったという事実(この数字は政府による公式発表だが本当はもっと多かったらしい。中には死亡者10万人という説もある。)はあまりに重い。

城壁に囲まれた旧市街から南は昔の王族たちが建てたチャトリ群

夕方以降、上空では飛行機が飛んでいる音がする。民間機の発着はこの時間帯にはないはずなので、おそらく軍が国境警備のために飛ばしているのだろう。いかにもパーキスターン近くの最果ての地という感じがする。

宿に泊まっている人たちの中にスコットランドから来ている中年夫婦。いかにも人柄の良さそうな面持ちのご主人は、実際話してみると、とても感じのいい人だった。奥さんのほうは中華系かと思ったのだが日系。祖父が日本人であったとのこと。それでも百年前とかなんとかで、神戸からカナダに渡った人で、そこで出会ったスコットランド女性と結婚。それが彼女の祖父と祖母であるという。よほど祖父の系質を強く引き継いでいるようで、見た目も仕草も日本人としか思えない奥ゆかしい感じの女性であった。

とりとめのない世間話をしながら彼らと食事するが、旅行先では普段まったく接点のない人たちと出会うことができるのはいい。

ブジで宿泊したホテル・マンガラムは快適であった。

ジェーティーさん

ブジに来たので、以前幾度かお世話になっているプラモード・ジェーティーさんに会おうと、彼が働いているアイナー・メヘル内の博物館に出向いてみたが、すでに退職されているとのこと。

もうすっかり引退して、悠々自適なのかと思いきや、すぐ近くで観光案内をしたり書籍を売ったりしているのだと聞いたので訪れてみる。アイナー・メヘルを出てから右手に少し進んだところの左手にある小さな店舗スペースでジェーティーさんは本を読んでいた。

ブジを幾度か訪れた際に、彼にはお世話になっている。先述の博物館で学芸員をする傍ら、カッチ地方を訪れた人たちに旅行情報を提供したり、クルマやオートでのツアーをアレンジなどもしていた(執務中にこうしたプライベートな兼業が成り立つ鷹揚さがいいなぁとも思う)ジェーティーさんである。とにかくこの地域の旅行情報の生き字引みたいな人で、何を質問しても即座に的確な答えが返ってくる。彼が著したカッチ地方のガイドブックもまた良かった。

久しぶりにお会いしたのだが、相変わらずお元気そうで良かった。彼は、26年間ここの博物館の学芸員として働き、昨年9月に62歳で退職したとのこと。
「まだまだやらなくてはならないことが沢山ある」とのことで、以前の職場のすぐ近くにこうして案内所を開くことになったのだとか。

「好きなように書物を読んだり調べ物をしたりしながら、いろいろと書いていますよ」という彼は、これまでの学芸員という「本業」から解放されて、長きに渡り続けてきた郷土史研究に専念することができているようだ。

下の写真はジェーティーさんによるカッチ地方のガイドブックの最新版。訪れるインド人や外国人のお客の観光相談、カッチ地方の民族・文化・自然に関する書籍を販売したり、ツアーのアレンジをしたりしながら、自らが心から愛する郷土の研究にいそしむ毎日。実に素敵な老後だと思う。