池袋西口の「リトル・ダッカ」な日曜日

4月19日(日)に東京の池袋西口公園にて、「第16回カレーフェスティバル & バングラデシュボイシャキ メラ」が開催される。

いくつかのカレー屋さん、ハラール食材屋さんがあることを除けば、バングラデシュはともかく南アジアとの繋がりはほとんどない池袋ではあるが、この西口公園だけは、長年恒例の行事となったこのイベントとともに、2005年にカレダ・ズィア首相(当時)来日時に贈られたショヒード・ミナールのレプリカが置かれていることからも、ずいぶんバングラデシュと縁の深い公園となっている。

当日、こうしたイベントが開かれていることを知らずに通りかかった人たちは、この一角だけに着飾ったベンガル人たちがワンサカと溢れていることに驚くことだろう。日本で生まれの「二世」たちの姿も少なくなく、単なる一時滞在ではない、日本にしっかりと根を下ろして暮らしているベンガル人たちが多いことも感じることができる。

さて、この機会に春の喜びを在日バングラデシュの方々とともに、みんなで分かち合おう!

第16回カレーフェスティバル & バングラデシュボイシャキ メラ (Japan Bangladesh Society)

フライトの振替 250km先から出発

グジャラート州カッチ地方の中心地ブジの町に滞在していると、夕方以降の遅い時間によく飛行機の爆音が聞こえてくる。民間機が発着する時間ではないため、おそらく軍の飛行機なのだろう・・・などと思いながら、ウトウトしているうちに眠ってしまった昨夜。

今朝は早起きして出発準備。本日この朝7時半にチェックインとのことなので、6時50分に階下でチェックアウト。このホテルは空港までの送りをクルマでしてくれるとのことでタクシーを呼ぶ必要はない。午前7時でもまだまだ暗いのは、広大なインドの西端にいるがゆえのこと。

空港にはまだ人影は少ないが、早く到着する分には損はない。警備の人たちの立ち話から、昨日夕方のエアインディアの便がキャンセルとなったことが判り、何故かちょっと気になる。私が利用するのはジェットエアウェイズのムンバイー行きのフライトであるが。

預け荷物のXレイ検査機械の前で一番で待っていると次第に私の後に列が出来てくる。ジェットエアウェイズの人たちが次々に入ってきて、ようやくチェックインの始まりとなるようだ。

・・・と思っていたら「ロンドン行きの人は来てください」という案内があった。てっきりムンバイーからロンドンに向かう乗り継ぎ便がキャンセルとなった人たちがあるのかと思いきや、実は私が搭乗するはずのフライトがキャンセルになったとのこと。「ロンドン行きの人たち」を呼んだのは、国際線の乗る人たちを優先して振り分けようということだったようだ。

振り分け作業も遅々たるもので、ようやく私の番となり、どうなるのかと思えば、アーメダーバードからムンバイー行きのフライトに振り替えるとのこと。クルマで空港まで送るとは言うものの、7~8時間の道のりだ。本日午後のブジからムンバイーへのフライトについて聞くと、満席のためチャンスはないとのこと。他の乗客についてもブジからの午後便に振り替えられた者はないようで、カウンターでの喧々諤々のやりとりを耳にする限りでは、誰もが他の空港からのフライトをあてがわれているようだ。

「とにかく急ぐので」と頼むとラージコート行きのフライトとなった。これとて、ここから5~6時間くらいはかかるだろう。正午過ぎのフライトに間に合えばそれに乗れるし、それがダメだったら午後5時のものになるという。こればかりは仕方ない。ラージコート便への振替の他の乗客たちとともに、航空会社差し回しのクルマで出発する。

つい先日、ラージコートからブジに移動したが、まさかこうして再び同じ道をたどるとは想像もしなかった。ムンバイーからのフライトを予約したとき、カッチ地方のみを見て回るつもりであったのでブジ往復で予約したのだが、ブジに到着してから思いついて、サーサンやラージコート周辺も訪れることにした私である。ラージコートに着いた時点で、ブジからムンバイーに戻るフライトをキャンセルして、ラージコートからムンバイー行きを確保すれば良かったではないか、などとも思うが、今さら仕方のないことだ。

それにしても、フライトがキャンセルとなって、乗客全員を250km先の(ラージコート)、や400km先の(アーメダーバード)まで振替を実施したジェットエアウェイズだが、これが国営のエアインディアであれば、そのような措置はおそらくなかったことと思われるので、やはりジェットエアウェイズにしておいて良かったと思った。

ブジを出てからしばらく経つと、クルマは大きな幹線道路に出た。カッチ地方とサウラーシュトラの境のあたりの広大な塩田と発電の巨大な風車がたくさんならんでいる景色を眺めつつ、クルマは進んでいく。ちょうどリトル・ラン・オブ・カッチのあたりである。

カッチ地方とサウラーシュトラでは少し景色が異なるようだ。後者のほうが緑がかなり多くて畑も多いように思われる。さきほどの風力発電や塩田のあたりを境に、どちらも平坦ながらも急に風景のイメージが変わるのが面白い。ブジからラージコートに行くときにそう感じて、ラージコートからブジに帰る際にその印象を再確認した。またこうしてふたたびラージコートに向かっていてもそうなので、やはりこれでまちがいないのだろう。

ブジを出てから4時間ほどでラージコートに到着。途中幾度も停車していくバスではなく乗用車なので、その分早かった。市街地の混雑した中をクルマが進んでいくと唐突に空港が現れた。人口規模130万人ほどの街だが、これほど中心部に近いところに滑走路があるというのは、他にあまり例がないことだろう。この時点で12時半。すでにフライトはドアを閉めたとのことで搭乗できなかった。よって午後5時のフライトとなった。

それまでしばらくの間、他の振替え客たちとの雑談や日記書きの時間となったのだが、時間というものはいつもあれよあれよという間に過ぎてしまうものだ。やがてチェックインの時間となった。

フライトは1時間ほどでムンバイーへ至る。広大なダーラーヴィーのスラムを眼下に見ながら着陸。こういうロケーションにあるスラムは、中国ならばとうの昔に取り壊していることだろうが、そうはならないのはインドらしいところである。

着いて荷物を待っていると、同じジェットエアウェイズの午後便は、こちらよりも少し早く到着していたようで、乗客たちは荷物をピックアップしている。どうせならこちらにしておけば良かったのだが、こればかりはその時にならないと分からない巡り合わせなので仕方ない。キャンセルとなるとわかっていて、そのフライトを予約するわけではないのだから。

モールビーへ

先日、ブジからラージコートに向かう途中で見かけたマニ・マンディルが気になって、モールビーの町に来た。ラージプート建築と西洋建築の混交だが、キリッと端正な佇まいが印象的だ。

宿近くのバススタンドからモールビー行きのバスに乗り、1時間半程度の道のり。モールビーにはバススタンドがふたつある。新バススタンドはラージコートに近い側にあり、古いほうはもっと奥にある。古いほうのバススタンドで降りて、町中を回る。

Darbar Baghの入口

まず向かったのはダルバール・バグ。この中には入ることはできなかった。このモールビー自体が小さな藩王国の王都であったのだが、旧王家の人たちはムンバイーに住んでいて、ときどきモールビーを訪れることがあるという。また旧王族の人たちの中には現在ロンドンに住んでいる人もあるのだとか。

すぐ左手には現在ホテルに改修されている宮殿がある。料金は7000Rsが5室、9000Rsが2室である。それぞれの部屋にVijayaba Mahal, Kesarba Mahalといった名前がついている。

7000Rsの部屋でもさらに税金が追加されるため、 今のレートで一泊15,000円くらいになるので高いのだが、部屋の内部はいかにもパレスという、なかなかいい感じだ。こうした見事なヘリテージホテルがあるのもインドのこの地域の観光の魅力だろう。ただし、このホテルに宿泊する客がそれほど多いとは思えない。町の見どころは限られているし、宿泊するならばもっと便利な場所が選択されることだろう。

ホテルはオープンしてから7年目とのこと。宮殿自体は築150年とのことである。今も旧王家所有だが、ホテルのマネジメントはState Hospitality Servicesという企業に委託している。館内にはHaveli Reataurantというレストランもある。

Darbargarh Palace
State Hospitality Services

この宮殿ホテルの脇には、背後を流れるマッチュー河に架かる吊り橋への入口がある。元々は木でできたものであったそうだが、現在は鋼鉄のロープで吊られており、鉄製の床板が敷いてある。付近には、これまたモールビーの王家所有の宮殿のひとつであったというカレッジがある。

それからマニ・マンディルに向かう。2001年の地震でひどく損傷したとのことで、2年前から修復中とか。外装は完了したものの、内部はあと2ヶ月かかるとのことで入場することは出来なかった。よって外からの見学のみ。2001年のカッチの大地震の際にはこのあたりでもかなり被害が出たということは聞いている。

さて、このマニ・マンディルが落成したのは1930年年代とか。隣のラージャスターン州とともに、グジャラートでも様々な藩王国が割拠して、イギリスはそれらを通じて間接統治していたのだが、各地の藩王が競って西洋文化を吸収していた時期には、新しい建築技術やスタイルを導入して、ユニークな建物があちこちで造られている。それぞれ趣のある旧王都を訪れるのは楽しい。

建物だけではなく、イギリス当局との協力で鉄道を敷設したところもある。もっとも自らの積極的な意思というよりも、イギリス当局による強力な要請によりということもあったのかもしれないが。イギリスが去り、インド共和国成立後には、藩王国は共和国に吸収され、藩王国が敷設した鉄道もインド国鉄に統合された。

マニ・マンディルの敷地内に食い込む形で立地するダルガー(聖者廟)がある。これを多様性の中の調和と見るか、ムスリムによる侵食と見るかは人それぞれだろうが、少なくとも近年までは無かったはずところに新たにダルガーが出現する過程を調べてみると大変興味深い事象があるはずだ。また、こうしてマニ・マンディルの修復に多大な資金を投入して作業が進行中である中、ダルガーの存続についても様々な議論、ローカルな政治的な駆け引きなども行われていることだろう。

マニ・マンディルの手前に立地するダルガー

その後、ネールー・ゲートに行く。インド独立前にはLloyd’s Gateと呼ばれていた門である。本日、こうしてマニ・マンディル以外のところも見たのには、昨日ラージコートで、モールビーに住んでいるというエンジニアの人と話す機会があったからである。いくつかの見どころを彼に聞いておくことができた。モールビーは小さな町なので、かつてラージコートで多く目にすることが出来たような古い建物や町並みがけっこう残っている。

非常に大きな鍋でチャーイを淹れている露店があった。立ち上るチャーイの芳香が鼻をくすぐり、それだけでいい気分にしてもらえる。

ラージコート 2

朝6時過ぎに近くのモスクからアザーンの呼びかけが流れてくる。今日は7時まで寝ているつもりであったので、「起きるものか」と頑張ってみるが、数秒の間を置いて他のモスクからも流れてくる。互いに反響するみたいにワンワンと鳴るので、やはり目覚めてしまう。

しばしば思うのだが、この礼拝の呼びかけについて、スピーカーで電気的に拡声した声を流すというのはいつごろから始まり、どのようにして各国に広まっていったのだろうか。その過程でその是非について宗教者たちの間で議論などはあったのだろうか。

朝7時ごろ、部屋に朝食を頼む。移動する日には時間の節約のため朝の食事は抜いている。こうしてゆっくり食べると気持ちに余裕が出来ていいものだ。

オートでGO!

ガーンディーが15歳のときまで暮らしていたという彼の父親の旧家へ。ここの藩王国の宰相であったという割には意外に簡素な家である。あまり大きくもない。建物内ではガーンディーや独立運動にまつわる様々な写真を中心とした展示がなされている。

その後、Watson Museumに行く。1880年代のイギリス人行政官のコレクションが元になっている博物館である。彼が集めたサウラーシュトラ地域の文物以外に、自然科学関係の展示もあった。だが内容としては田舎博物館という感じで、あまり見応えがあるものではない。

しばし徒歩で市街地の古い建物を見物する。この街を前回訪れたのはもう20数年も前のことになる。当時は快適そうなテラスや手の込んだ飾り窓などが付いた伝統的なたたずまいの建物がたくさんあり、テキスタイルを中心とする商業活動は盛んながらもひなびた雰囲気があったと記憶している。だが今はずいぶん様変わりしているようだ。レンガにコンクリートや漆喰、そしてペンキで塗られた四角い建物に置き換わっている。それこそ、インドネシアでもアフリカでも、つまり世界中どこにでもある普遍的な景色になっているといえる。地域性の希薄な建物だ。

当時、かくしゃくとしたご隠居さんであった人たちの多くはすでにこの世を去り、元気に働いていたおじさん、おばさんたちは隠居し、あのころオギャアー、オギャーと盛大に泣いていた赤ちゃんたちがバリバリとよく働く商売人、でっぷりと貫禄のあるお母さんになっていたりするのだ。それほど長い時間が経過しているのである。もはやふた昔半くらい、つまり四半世紀くらい過ぎているのだから。

だがそんな中にも古い街並みは少し残っていた。傾斜屋根の瓦、二階に突き出た出窓やテラスであったり、面白い意匠の飾り窓であったりする。なかなかいい感じだ。ただし、多くは残念なコンディションにあり、ところどころ崩れていたりもする。しばらく立ち話をした地元の人によると、2001年のカッチの大地震のとき、ラージコートでも相当な被害が出て、そうした古い家屋におけるダメージも相当あったとのこと。

古くからの伝統的なスタイルの家屋は、街や地方の個性を無言のうちに主張していたものだが、そうしたものはどんどん消滅している。遅かれ早かれ、これらは街中から消滅してしまうことだろう。こうした様式で新しく今風の建材で作ってもいい感じなのではないかと思うが、そうしたものはだ見ていない。

シンガポールやマレーシアのように、行政が主導して保存に取り組むことがなければ、こうしたものはすぐに消えてなくなってしまうであろうことは間違いない。街並み保存については、そうした措置を講じるほどの社会的な余裕があるかどうか、人々が今もそれらに愛着を抱いているか、保存にメリットを感じるかどうかによるのだろう。

その後、サーリーを機織りしている工房へ。ここでは糸からすべて手作りで生産している。婚礼シーズンで使われるという絹のサーリーを製作中であった。糸は最初から染めてあり、その色の間隔できちんとデザインを組み上げていくという職人技の世界。オートの運転手に携帯で話をさせて場所確認して行ったのだが、普通の住宅地に見えるところなので、ここを通過しただけだったら、まさかここがそれらの工房が寄り集まっている場所であるとは気がつかないことだろう。

通り過ぎただけでは機織職人たちのエリアとは判らないだろう。

おそらくこれらの品物の単価が高いからであろうが、どの家もかなり立派だ。作業場はそれなりに散らかっているものの、外から家を見ると、ロワー・ミドルクラスやそれよりも少し上くらいのクラスの家に見える。かなり経済的にうまくいっているコミュニティであることが見て取れる。

機織を見学してからしばらく徒歩で街中を散策してみる。途中、路上でハルモニウムを修理している人がいた。知的な風貌の人で、彼の名前のブランドでハルモニウムを製作しており、その顧客から依頼された修理をしているという。彼自身の作製したハルモニウムだというのだが、本当だろうか?

〈完〉

ラージコート 1

サーサンの宿を朝7時過ぎたあたりでチェックアウトした。幹線道路に出たところで、ディーウ島近くのウナーから来てラージコートまで行く直通バスがやってきた。昨日やってきた時のように、ジュナーガルで乗り換える必要があるものとばかり思っていたので、ちょっとラッキーな気分だ。

現在、グジャラート州営のバスは、どこもチケットは車掌が手にした電子機器からプリントアウトされるようになっている。昔のようにカバンから何種類かの金額別のチケットをちぎって渡すような具合ではない。乗車勤務が終わってからの精算も簡単なのだろう。

サーサンからジュナーガルまでは一時間半か二時間弱くらいであった。ここまでの道の路面状態はあまり良くない。片側一車線ずつの道路で道両側に大きな木々が植えてある昔ながらの道路といった感じだ。よく茂っている場所では緑のトンネルを形成していて美しい。

サーサン近くの湖のあたりのような、集落がほとんどないエリアでは携帯が2Gになったり圏外になったが、あとはほとんど3G環境。田舎道をバスで走っていてもフェイスブックで友人たちの動向がわかったり、書き込みをしたり、メールのチェックができたりするというのは、しばらく前には考えられなかったことだ。地元の若者たちにとっては当然のことになっていて、隣に座っている女子学生たちもスマホでいろいろやりとりしているようだった。

昔々、インドの女の子に電話するのはなかなか大変だったもの。家の誰が出るかわからないし、とりわけお父さんが出たらとても緊張した。当然、電話することができる時間帯もごく限られてしまうなどということは当然として、家に自前の電話がないということもごく普通であったため、直接顔を合わせることが唯一の意志疎通の手段さえであったりもした。当時のソーシャルコードや環境が現在とは大きく異なることもあるが、以前は通信手段が男女交際のバリアーになっていたという部分もあるだろう。

携帯電話の出現により、個々が自前の通信手段を持つようになり、誰が電話口に出るかわからないという不安が解消されるとともに、家族の監視の目から逃れることができるようにもなった。また、目の前で話していても相手が誰だか偽ることもできるし、時間の制約から解放されることとなった。そして通信費の大幅な下落がそれに拍車をかけることとなった。そしてスマホの爆発的な普及により、通話だけではない様々なコミュニケーションが可能となってきている。

このような事情から、昔と違って結婚前の男女が交際することがごく容易なものとなり、同時に結婚してからの不倫なども簡単になった。親が決めた結婚のあともそれまで付き合っていた相手との交際が可能ということにもなってしまっているという部分もあるだろう。そんな家庭内でのトラブルは今ではよく耳にするものとなってしまっている。

今では遠い昔となってしまった90年代前半までの若者たちと、現在のそれとではかなり大きな意識や行動の違いがあるのは当然のことだろう。こうしたことについては娯楽映画などを見ても内容が非常に変化していることが読み取れる。

ラージコートに到着

そんなことを思いながら、ジュナーガルを通過して、ラージコートに着いたのは午後1時ごろ。昨日朝にチェックアウトした同じホテルに投宿。ここは料金の割にきれいで広くて快適だ。

料金の割に立派な感じの宿泊先

私が宿泊するフロアーの廊下いっぱいに若者たちがいるので、何事かと思い尋ねてみた。この階の一室で、ある会社の就職試験の面接が行われているとのことだ。廊下で待っている誰もが緊張した面持ち。どこの国でも求職活動は大変だが、頑張ってほしいものだ。

〈続く〉