Markha Valley Trek The Day 2




屋上に設置されている太陽電池。これが日没後の居間の照明を灯す電源となる。

ユルツェのホームステイ先で、朝の6時くらいに目が覚めた。昨夜寝たのはずいぶん早かったので、ゆうに9時間半は寝たことになる。実にすっきりとした爽快な気分だ。午前7時に宿泊者たち全員が居間に集合して朝食、そして7時半過ぎに出発。
ホームステイ先を出発

ガンダ・ラ・ベースキャンプまで1時間くらい、そしてガンダ・ラという峠までそこから1時間半程度の道のり。雪を被った峰を仰ぎながら、少々急な斜面で息を弾ませながら登っていく。
キャンプサイト

この地域の運搬手段は馬とロバ

川沿いに進んでいく

しばらく登ると、川の流れはこんなに細くなってきた。

ここから先の登りは少々きつい

こちらは水をがぶ飲みしながら肩で息をしているのだが、ガイドのタシ君は呼吸が荒くなることもないようで、涼しげな表情で歩いている。彼の出身のアリアン・バレーの地域はラダックの中でも標高は高くなく、彼自身はずいぶん長いことジャンムーの学校に通っているのだが、ラダック生まれだけあって呼吸器の造りが違うのだろうか?と思ってしまう。

地表から湧き出る清水

冷たい清水をふんだんに吸って育つ高山植物

あと少しでガンダ・ラに着く


ところどころで地表から澄んだ清水が湧き出ており、こうした細い流れの筋がユルツェの村の前を流れる川に注いでいる。
ガンダ・ラ

来た道を振り返ってみる。

ガンダ・ラという峠に来た。標高は4,980mとのことだが、周囲に残雪もなく殺風景なので、そんな高地にいる気はしない。
ガンダ・ラから下るときに出会った馬とロバのキャラバン

羊の放牧

ガンダ・ラからは長く緩い下りとなる。峠が分水嶺となるため、これまで来た道筋とは反対の方向に水が流れている。息を切らせて登っているときにはあまり気が付かなかったマーモットの姿を楽しむ気持ちの余裕が出てきた。ここから先、シンゴの村までは緩い下り坂が続いている。いくつものマーモットの巣があり、ガイドのタシが口笛を吹くと背を伸ばしてこちらを見ている。ところどころ集合しており、まるでみんなで会話をしているかのようで可愛い。
巣穴から出てきたマーモットたち



シンゴの村まであとわずか

シンゴから先は傾斜が急になる。いくつかの川を越える。越えるといってもここでは流れの中で石伝いに渡るだけである。あるいは川岸にふんだんにある大きな石を川の中に投げて踏み台にしたりする。ところどころで清水が湧いており、いかにも「川のはじまり」といった感じがする。
2010年にラダックを襲った洪水の際には、このあたりでトレッカーたちが流されたとのこと。

しばらく進むと谷が細く深くなっている。このあたりでは、ラダックを襲った2010年の洪水の際には土石流の被害があったとのことで、キャンプしていた人たちが流されたりもしたそうだ。確かに今でもその土石流の後らしきものが確認できる。そうした荒天の際には、逃げ場がないだけに危険である。
岩に含まれるミネラル分の違いからか、ずいぶん色合いの異なる山肌

美しい花が咲いている。


狭小な渓谷を過ぎると景色が急に開けた。スキウの村まであと少し。

深く狭い谷を通過して、少し開けた谷に出た。ここからの斜面は緩く、ダラダラと下っていくとスキウに到着する。午前7時40分に出発して、午後3時半に到着したので、8時間ほどかかったことになる。宿泊先はスキウの村の東の端。明日の行程が少し短くなるから、とのことである。
スキウの村に到着

翌日からはマールカー渓谷沿いを歩く

この日のホームステイ先の家の切り盛りするのはジグメットさんという男性。父母と兄弟合わせて5人、そして9歳と3歳半の子供とのこと。9歳の子はレーの学校に通っており、寮生活をしているとのことだ。夏休みは15日、冬休みは2か月半から3か月くらいとのことだが天候によるらしい。ラダックの冬は寒い、そして厳しい。こうした休みの時期にだけ学齢期の子供たちが帰宅するのだそうだ。
クルマが行き来できるチリンからここスキウの村までは近いため、まだいいかもしれないが、それでも小学校に入ったばかりの子供がひとりでレーに出たり、帰ってきたりというのはかなり大変だろう。村の子供たちと一緒に移動するにしても、さらに遠い村では途中で宿泊する必要があるし、大変厳しいものがある。もしかしたら携帯電話も持たせているのかもしれないが、山の中では通じないだろう。そんな環境のもとで、自立心が養われることは間違いないにしても、これまた厳しいものがある。

〈続く〉

Markha Valley Trek The Day 1

前日夕方にレーの旅行代理店で顔合わせをしていたガイドのタシ君と朝8時半にクルマでレーを出発。

彼はジャンムーの大学で修士号まで取得しており、まだ大学に籍があり勉強を続けながらJ&K州の政府の仕事を求職活動中。出身は「Aryan Valley」の俗称で知られる地域のガルクンという村に実家があるとのこと。複雑な山岳地には、しばしば周囲と隔絶した独特の伝統と性格を持つコミュニティが存在することがある。

モンゴロイド系の人々が暮らすラダック地域の中で、総じて小柄ながらも、アーリア系の特徴を持ち、元々は独自の信仰や習慣を持っていたが、時代が下ってからチベット仏教化した人々(主にインド側)、更にはムスリム化した人たち(主にパキスタン側)が暮らす地域である。このあたりへは、一昨年クルマで訪れたことがある。

タシ君もやはりアーリア系の風貌をしている。故郷がチベット仏教徒化した時代以降も、代々、コミュニティ内での結婚がなされているとのこと。そうした伝統があるがゆえに、アーリア系の外観が受け継がれていくこととなったのだろう。彼が在籍するジャンムーの大学には、このアリアンバレー出身の同郷会があるそうだ。ラダック人であるという大まかなアイデンティティのさらに深いところには、モンゴロイド系が主体のラダック人の中での明らかなマイノリティであるアーリア系コミュニティ(ドロクパと呼ばれる)への帰属意識があるようだ。

Facebook等のSNS普及により、彼らと同じルーツを持ち、ラダック語ではない彼ら自身の母語を話すパキスタン側の人たちとのネット上での交流も始まっているそうだ。印パ分離以前には普通に行き来があったものの、現在ではそれがままならなくなっている。
「それがネットの普及によってコンタクトが可能になったわけですから、世界が小さくなったことを感じます」とタシ君は言うが、村ではネット環境がないため、彼のようにインドの大きな街に出ている人たちの間でのみ可能という限定付きのものではあるが。

彼同様に、地域外の大学に在籍するラダック人学生で、夏休みの時期に帰郷してトレッキングガイドをしているという若者は多い。彼は毎年6月と7月にはラダックに戻り、こうしてガイドをしているとのこと。

ズィンチェンから出発!



クルマはズィンチェンに到着し、トレッキングがスタートする。連日の雨により、ルート沿いの川はかなり増水しているようで、音を立てて斜面を流れ落ちていく。

しばらく登っていくとやがてルムバクに到着。冬季にはスノーレパードを見ることができる名所となっている。ルート沿いにある茶屋でお茶を飲みながら小休止。背後には村の家屋が点在しており、ゴンパもある。このあたりまでは車道に近い村であるためか佇まいはレーの郊外の民家と大差ないように感じられる。

川の水は氷水のように冷たく、渡る際にしばらく足を浸していると痺れてくるようだ。

しばらく進んだところの開けた景色の中で昼食。女性の4人連れのトレッカーたちが通過していくのが見えた。凛々しい感じの女性が先頭を歩いており、欧州から来たトレッカーかと思ったが、実は3人連れのスペイン人女性たちの女性ガイドであった。ユルツェの宿泊先に彼らも宿泊していたので判ったのだが、彼女もまたガルクンの出身で、私のガイドのタシ君の縁戚であるそうだ。

女性の単独トレッカー、女性だけのグループ、もしくはカップルには女性ガイドを付けることができる。レーの町には女性客だけを対象とする女性スタッフによる旅行代理店もあり、なかなか好評のようだ。


本日の滞在先、ユルツェの村に到着したのは午後2時あたり。この「村」には一軒しかないので、ユルツェに滞在するということは、全員ここの家に泊まることになる。しばらく同宿の人たちと話をしたり、周辺の眺めを楽しんだりする。畑はよく手入れされており、麦以外にいろいろな野菜などが栽培されている。目の前の谷には川が流れているが、その対岸には雪が一部残っている。ちょうど斜面の窪地となっており、そこに残雪があるのだ。谷間を吹き降ろす風が冷たい。

峠から吹き降ろす風が冷たい


すこぶる快適なラダックの居間空間

ラダック式のキッチンは素敵だ

〈続く〉

Sia-La Guest House

Sia-La Guest House

「Assalaam Aleikum…」
またこの宿の門をくぐると、スタッフのスディール君が迎てくれて母屋に声をかけると、出てきてくれたおかみのザリーナーさんのはじけるような笑顔が眩しい。居間に通されて、ご主人のグラームさんを交えてしばし雑談。

ここ数年、夏にはラダックを訪問している。レーで常宿となっているのはSia-La Guest HouseというFort Roadから少し脇に入ったところにある宿泊施設。静かな立地ながらも、レーの町の中心部まで徒歩わずか5分程度。

西部のカールギルあたりを除けば、仏教徒が大半のラダックにあって、レーには歴史的経緯からムスリムの人たちも多い。ラダック王国時代にカシミール王国から輿入れした花嫁があった際に、王宮が町を見下ろす丘のふもとのエリアにムスリムの人々を住まわせたのが始まりと聞いている。現在もそのあたりはムスリム地区となっており、なんとなく中央アジア的な雰囲気が感じられるエリアとなっている。

さて、このゲストハウスは、そうした歴史背景を持つ敬虔なムスリム家族による経営。ここしばらくは毎年、夏季にラマザーンの時期がやってきているので、自らの生活のペース(日の出から日没までの断食)と滞在客の食事その他の用事等々)とうまく折り合いを付けながら、ホスピタリティに満ちた応対をしてくれている。

オーナー夫妻はとかく話好き。家族連れや友人同士のグループから一人旅のお客まで、いろいろまんべんなく声をかけて気を使ってくれる。楽しい会話とともに、彼らの暮らしぶりを垣間見ることができて興味深い。曽祖父がラダックで初めて英文で本を著した人物でもあるオーナー氏は、レーの町の歴史的な経緯等について、かなりの事情通でもある。

清潔で快適な部屋が用意されており、NGO関係者を含めた滞在客にはリピーターが多いようだ。宿泊料金についてはこちらをご参照願いたい。

宿の中庭は菜園になっており、畑と建物の間にはいくつかのテーブルとチェアがしつらえてあり、WIFIを利用することができる。座っているとスタッフたちがすぐにお茶を勧めてくれる。これは宿泊費に含まれている。自室以外に自由に使えるこうしたスペースがあることによって、他の宿泊客たちと知り合って、おしゃべりをしたり、あるいはトレッキングに同行したり、クルマをシェアして何泊かで出かけたりといった楽しみの幅が広がるものだ。こういうスペースの有無によって、宿の快適度が大きく左右される部分もある。

夏のシーズン中はかなり込み合うため、早めにメールや電話により予約しておいたほうがいいだろう。通常、メールによる問い合わせについては迅速に回答をもらうことができるのだが、ラダックにおいてはインターネットが数日間、いや数週間に渡ってダウンしてしまうという頼りないこともしばしば起きるため、「あれ?どうしたのかな?」と思ったら、インド国内においては電話、国外からの場合はスカイプ等で電話をかけてみたほうがいいかもしれない。

家族経営の宿について、アットホームな雰囲気で楽しい会話等が楽しめる反面、往々にしてルーズなマイナス面もあったりするものだが、このゲストハウスにおいてはそうした弱点は見当たらない。

ラダック人ムスリムのオーナー夫妻の元で働くジャールカンド州から来た出稼ぎスタッフたちが、かなり長い期間に渡って毎年夏にはここに来て働いている。そうした彼らとオーナー夫妻との間で築かれている信頼関係もまた大変好ましく感じられるところだ。

このゲストハウスの施設ではないのだが、隣にパドマゲストハウスという、ここよりも少々アップマーケットな宿がある。そこの屋上にあるレストランは、私の知る限りではレーにおいて最も見晴しの良い食事どころであり、ストックカングリー峰を含めたレーの南側に位置する山脈を眺めながら食事を楽しむことが出来る。とりわけ日没の眺めは最高だ。

先述のとおり、静かなロケーションながらも町中心にごく近いこと、清潔で居心地が良いこと、暖かくフレンドリーな家族経営であることに加えて、こうした周囲のロケーションも併せて、レーにおける私の常宿となっている。

普段は宿についてこだわりは何もないので、特に宿泊先について記すことはほとんどない私だが、ラダックの中心地レーの町において、ここはとてもお勧めの一軒である。

Sia-La Guest Houseホームページ

レーでバンド 2

7月22日、外の道路ではずいぶん早くからクルマのエンジン音がしていた。宿の奥さんの話では、本日の朝のフライトであった人たちは朝4時にタクシーで宿を出たそうだ。それ以降の時間帯になると本日のバンドのため走らないのでやむを得ずそんな変な時間帯に出ることになったそうだ。日の出前からクルマが走り回る音がしていたのはまさにこれだろう。

また、本日のフライトにて空港から宿にやってくる人たちがいたが、彼らについてはタクシーがないため、政府が用意したヴァンでレー市内の各所に回ることになったとのこと。そうした人たちが数人、私の滞在先にもやってきた。バスは無料ではなく、1人あたり20ルピー徴収されたとのこと。

本日のバンドでは、自家用車やバイクにも運転自粛を呼び掛けており、無理に走ると投石される危険があるとのことでもある。そんなわけで、外を走るクルマはほとんどなかった。スリナガル方面から、あるいはヒマーチャル方面からこちらに向かっているクルマについては、ラダック地域に入る手前のところで止められてしまうであろうという話も耳にした。









レー市街地では、路地裏の店まで、食堂や旅行代理店などを含めて見事に休業。チャングスパロードも完全に休みとなっている。唯一普段どおりに開いていたのは、ステイトバンクオブインディアの支店のみ。加えて、家屋やビルの新築や改装工事、メインバーザールの再開発工事の作業員などは、普段と同じように仕事していた。野菜や果物を売るラダック人の女性たちが路上で商っている姿はわずかながらあった。

市内の要所要所では、警官たちが警備している。中にはかなり重厚な装備をしている者もあり、万一の衝突があった場合などに備えているのだろう。

メインバーザールのゴンパでは、高僧らしき人物による説法が行われていて、白昼の路上の寂しさとは裏腹に、ここだけには人々が集まっている。・食事やチャーイも振る舞われている。

今朝方、デリーから到着して地元政府が用意したバスにて宿泊先のゲストハウスにやってきたシンガポール人の青年と会った。食事できるところがどこも開いていないし、短い期間で訪れているので、今日のうちにパンゴンツォに行くクルマの手配が出来ないと不安だと言う。ちょっと思いを巡らせてみると、少し奥まったところにあるゲストハウスの屋上のカフェ、そして階下では旅行代理店業もやっていることが頭に浮かんだ。

少々歩いてそこに向かってみると、ドンピシャリであった。道路からかなり引っ込んだところに中庭があり、さらに奥なので平常通りの営業であった。彼には喜んでもらえて幸いである。困ったときは旅行者同士お互い様だ。食事を終えて、さらには彼がパンゴンツォに行く予約を済ませてから、することがないのでチャングスパロードを進んだところにあるシャーンティ・ストゥーパに行くことにした。普段はインド人や外国人の観光客が多く訪れるこの場所だが、今日ばかりは仕事から解放されてヒマになったビハール、UP、ネパールなどからやってきている出稼ぎ人たちが休みを楽しんでいた。

バンドの期限となる時刻が近づいてくると、店のシャッターを半分ほど開けて様子を窺っていたり、小声で呼び込みをしたりする店などが出てきた。そして午後7時になると、もうすっかり多くの店が平常どおりに営業を始めた。短い観光シーズンの中の貴重な1日の損失を少しでも取り戻そうというかのように。日中静けさがまるで嘘のように賑やかな有様となってきている。

バンドという抗議の形態は、英領末期にガーンディーが率いた反英闘争のときにも頻繁に使われた手法で現在も様々な形で用いられている。
今回のバンドでも大変迷惑であるというような話をしばしば耳にした。独立運動時代にも政治よりも日々の稼ぎにより関心のある人たちは大勢いたはずなので、当時も「仕方ないなぁ・・・」というのが本音の商売人や大衆も実は大勢いたのではないかと私は思っている。もちろん出会ったばかりの相手にそんなことは言えないが、まぁ世の中そんなものだろう。

午後の少し遅い時間までは、とても天気が良かったのに、日が沈んでからは雷が鳴りだした。レーでの雷は裏山にこだまするためか、勇壮な太皷の音のように聞こえるのだが、感心ばかりしているわけにはいかない。強い雨が降り出してきた。

それでもバンドが明けたバーザールでは、大勢の人々が行き交い、各商店での人の出入りも盛んなようである。この日は普段よりも少し遅くまで店を開けているところが多いようであった。

〈完〉

レーでバンド 1

午前中からレーの周辺をタクシーで回っていたら、運転手が唐突に「7月22日は明日だよね。明日はバンドとなるはず・・・」などと言う。どういう趣旨のバンドなのか尋ねたが、この人はよく知らないようであった。「理由はよくわからないけど、バンドだというから明日タクシーは走らないし、店も閉まるよ。午後になってからバーザールで話を聞けば判るよ。」とのこと。

夕方になってからレーの町に戻り、翌日のバンドの詳細に関する情報は簡単に手に入った。具体的な内容は、主に口コミで伝わるようだが、タクシースタンドにバンドに関するポスターが貼り出されていた。

タクシーユニオンによるバンドの呼びかけのポスター

これによると、ラダックに自家用車を運転してやってくるインド人たちが環境や安全を省みない無茶をすること、飲酒運転の問題などについて、行政が何の対策も取っていないことに対する抗議としてのストライキということになっている。

その建前の裏には、自家用車で来られると地元の短い観光シーズンに貢献する度合いが低くなる(タクシーの売上が上がらない)ことについての不満があるとのこと。外から自家用車を運転してやってくるインド人たちの中にマナーが非常に悪い人が決して珍しくないことと合わせて、ユニオンは常々申し入れをしていたようだが、なかなか聞く耳を持たないため、「それならば自分たちで対策を取る」と呼びかけたのが今回のバンドとなるようだ。

しかしながら、ユニオンが呼びかけてここまで完全なストライキが決行できるということについては、おそらく地元の有力な政党のサポートがあるのではないかとも思うのだが、このあたりについてはよく聞いていない。

今回のバンド、つまりゼネストはレー市内に留まることなく、ラダック地域ほぼ全域でタクシーはもちろんのことほぼすべての商店や事務所等々が閉まることになるようだ。つまりツォモリリ、ヌブラその他にタクシーで出かけている人たちについては、明日一杯は滞在先で足止めということになる。

バンドは翌日の7月22日午前6時から午後7時までとのこと。

〈続く〉