三国は世界なり

『三国一の花嫁』『三国一の幸せ者』云々といった表現があるが、平安時代後期にはすでに定着していた言い回しのようだ。もともとこの『三国』とは、日本・唐土・天竺のことで、当時の日本の人々にとって、これはまさに『世界』を意味するものであった。
自らが暮らす日本はともかくとして、様々な新しい文物や高度な思想の源泉たる先進地中国への敬意、釈尊が教えを説いた大地インドへの憧憬がある。人々がこの時代の唐土や天竺がどのくらいの広がりをもって認識されていたか、そもそもどういう地理的観念を持っていたかについて私はよく知らない。
それでも極東の地日本から西側にある大陸部が、地理的に日本に近い部分に位置する唐土とそれより西方にある天竺としてとらえられ、その周辺に存在していた様々な国々については、これらふたつの大きな『二国』に集約されるものという考え方がなされていたのではないだろうかと想像している。
ただし人物の往来が盛んであったことから、唐土の文化なり人物なりに直接触れた経験を持つ人々から伝えられた。しかし天竺についてはこの唐土という分厚いフィルターを通して眺めたものであったことから、非常に具体性を欠くものであり一次情報の極端な不足からこれを把握するには相当なイマジネーションを要するものであったことは言うまでもない。
日本からタイなりカンボジアなりのインドシナ地域の国々を訪れると、中国からの色濃い影響とともに、インド文化からの強いインパクトも感じる。伝統的な建築、衣装、舞踊といったものだけでなく、人々が使う言語の中におけるインド系語彙の豊富さ、年中行事や宗教儀礼や式典等にも見て取れるだろう。おそらく生活してみると他にもいろいろ目に付くところがあることだろう。
こうした地域でも自国に中国・インドを加えて『三国一の・・・』という言い回しがあるのかどうか知らないが、長いこと中国とインドという二大国は圧倒的な存在感を持って認識されていることは確かだ。両国は、欧米列強の蚕食下ないしは植民地支配期にしばらく影の薄い時代があったものの、前者は1980年代以降世界経済の表舞台に台頭、後者もまたそれに一足遅れて90年代半ば以降から脚光を浴びることになっている。どちらもかつての強大さを取り戻すべく驀進しているように見えないだろうか。
両国が今後さらに経済力と国際社会での発言力を増すにつれて、アジア地域において『三国』という言葉が今後よく用いられるようになるのではないかと予想している。つまりどこの国であれ自身が生活の軸足を置く母国に加えて、アジアの中で突出した存在である中国とインドを合わせて『三国』と呼ぶ時代が今にやってくるのではないかと思うのだ。
たとえば、アジア地域で自国、中国、インドで人気を博すことを『三国一のメガヒット商品』『三国の市場を席巻する大ブーム』なんていう風に言うと、それら三つの国々の周辺にある国々はすでに含まれていることは言わずもがな、アジア全域に及ぶセンセーショナルな大ヒットといった表現になるのだろう。

バイオの御名において

原油高に加えてバイオ燃料ブームで、食用の穀物等の需要が逼迫して食料品価格が高騰・・・というのは、昨今の世界共通の現象のようだ。幸い日本の場合は、近ごろの円高傾向が両方の影響を緩和していることから、その影響は比較的軽いようだ。しかしインドのような途上国においては特に庶民の台所へのインパクトはかなり大きなものとなる。もともとエンゲル係数の高い世帯においてはなおさらのことだろう。
石油に代わる新たなエネルギーの開発と普及への努力は、環境問題等と合わせて今後大切な取り組みであることは間違いないとはいえ、一定ライン以下の人々の食料事情を無視してまで、とにかくバイオ、バイオと突き進んでしまうのはいかがなものかと思う。おカネの力がモノを言う、市場至上主義からくる負担を上から順繰りにツケ回していき、最後にはこれを他者に転嫁することのできない末端の人々に、その対価を空腹と引き換えに支払わせておきながら、『代替燃料です』『効率がいいです』『環境に優しいです』ときたものだ。どうやら燃料は胃袋に優先するものらしい。
下衆の勘ぐりかもしれないが、畑で燃料(の原料)を作るという発想については、そこに栽培される作物の品種についても何だか不安なものを感じる。食品のパッケージ上で『遺伝子組み換えトウモロコシは使用していません』とか『遺伝子組み換え大豆不使用』なんていう表示を見かけるが、燃料目的ならばなんでもアリだ。遺伝子組み換え作物の安全性についていろいろ議論されているところではあるが、害虫抵抗性、除草剤耐性だのといった特性を持つ品種が『バイオ畑』でどんどん栽培されるようになると、これらが受粉という自然な現象を通じて、あるいは過失や故意により周囲に拡散してしまうことがないのだろうか?
そうでなくとも、昨今の穀物等の価格高騰により、遺伝子組み換え食物が今後次々に食用として流通するようになるようだ。そんなモノを食卓に登場させてホントに大丈夫なのだろうか?たぶんボクらが今後何年間も食べ続けて『証明していく』ことになるのだろう。やはり市場はすべてに最優先するらしい。
ところでバイオ燃料、ついに自宅で(?)生産する機器が発売されるらしい。飲食店での飲み残しのアルコール飲料のように、これまで捨てていたものを再利用できるという利点はあるようだが、取り扱いや備蓄について、しっかりとした知識と細心の注意が(量が多ければしかるべき資格も)必要な燃料という危険物を気楽に自家生産するようになるとしたら、これもまた怖い。どうかこれを悪用した犯罪やテロなどといった憂鬱なニュースがニュースのヘッドラインに載ることがありませんように!
遺伝子組み換えトウモロコシ製品 食用に供給開始 日本食品化工、原料入手困難で (Fuji Sankei Business i.)
砂糖からつくるエタノール燃料の「自家用スタンド」登場 (MSNデジタルライフ)

因果な遺伝子

イギリスに暮らすインド系・インド人住民たちの間では、心臓病にかかる割合が白人よりもかなり高いのだそうだ。在米の南アジア系の人々についても、同様の事柄について書かれた記事を複数見かけた記憶がある。別に欧米の風土がインド系の人々の健康に良くないというわけではもちろんない。だが世界総人口のおよそ四分の一を占めるインド人、2020年には世界の心臓血管にかかわる病気の患者の四割を占めるであろうとの予測もある。こうした状態を招く諸悪の根源は肥満であるとのことだ。
その理由について、食生活やライフスタイルに求める論調も多いが、同時に持って生まれた資質に言及するものも少なくない。このたび肥満を引き起こす可能性を高める遺伝子を持つ割合が、インド系の人々の間で高いことが発見された。食欲や体内に取り込んだエネルギーの消費や保存などをつかさどる機能に影響を与える。その遺伝子に書き込まれたプログラム次第で、現代の食生活や生活パターンでは栄養過多になってしまう。
人の生活は自然環境に大きく左右される。自らが暮らす土地で採れたものを食べて自給自足していた時代には、それぞれの土地に適合した作物が栽培あるいは採集され、そこでの暮らしにおいて持続可能な形での食生活が営まれていた。ふんだんな食料に恵まれていた土地もあれば、恒常的に飢えと隣り合わせの状態で人々が代々暮らしてきた土地もある。気が遠くなるような膨大な時間の流れの中で、人々はそれぞれの土地の食糧事情にうまく合った体質を作り上げてきた、あるいはそういう形で淘汰されてきたということになる。
南太平洋の島々などもその良い例らしい。熱帯とはいえ、四方を海洋に囲まれた珊瑚質の土壌の島での生活は、こと食料事情に関しては非常に貧しかった。そうした住環境に適合するために、わずかな食料から最大限の栄養を吸収できるような体質が形成されていったと考えられている。加えて不足がちな食料を高いカロリー値となる調理法で処理する傾向があり、滅多に口にできない祝祭時のご馳走は往々にしてそれに輪をかけてボリューム満点で豪華な料理となる。
だがそうした地域にあって、第二次大戦後の復興期を経て、西側諸国が急速な経済成長を遂げると、リゾート地として注目されるようになり、盛んに資本が投下されて開発が進み、そのインフラを基に以前は存在しなかった観光という一大産業がその地域に住む人々に大きな収入をもたらすようになった。同時にこれは人々の食生活を大きく変化させる引き金となる。食糧事情の飛躍的な向上により、以前の世代の人々が普段口にできなかったような贅沢品が毎日でも食べられるようになり、当然の結果として人々の身体は巨大化。長い歴史の中で築き上げられてきた『燃料効率の良い体質』が、飽食の時代では仇になってしまうのだ。
カロリー過多の傾向は結局のところインド系の人々の間でも同様らしい。伝統・文化・歴史どれをとっても『豊かな大地』インドでは食文化もまたバリエーション豊富かつリッチだ。しかし概ねこの地域はもともと食べ物について量的にさほど恵まれていたわけではない。むしろ大規模な飢饉にしばしば襲われる食糧難の土地であったといえるだろう。緑の革命はパンジャーブ州をインドの穀倉地帯に変えたがこれは農業の現代化の賜物だ。近代以前のパンジャーブの農村風景は、今とはずいぶん異なるものであったはず。インド系の人々は、どちらかというと食料の窮乏への耐性が高い体質らしい。それを裏付けるのが、このたびの遺伝子云々ということになる。
もちろん程度の差こそあれ肥満はインド系の人々に限らず、今の時代に生きる私たちの健康にかかる共通の問題だ。『地産地消』とは程遠い生産・消費パターン、季節感のない食卓といった点も考え合わせたうえで、可能な限り自然の理にかなった食生活をこころがけるようにしたいものである。
Genes ‘up Indians’ obesity risk’ (BBC NEWS)

犬ってやつは・・・

もともと犬が嫌いな私。こちらが特に何もせずとも、人間に対して何がしかの警戒心ないしは関心を持つこの動物のおせっかいな習性からして好きになれない。猫のように人影が近づくと一方的に逃げるとか、あるいは牛のようにこちらに対して無関心でいてくれるといいのだが。
暗い夜道でどこからともなく現れた複数の犬たちにガウガウ吠えられると不安になるし、田舎の小さな町の細い路地を徘徊する犬なんかは、ヨソ者をすぐに見分けて(嗅ぎ分けて?)てバウバウ吠えてきたりする。『ええいっ、俺に構うな!』と怒鳴りつけたくなるが、そんな言葉が通じるわけでもなし。
愛犬家には申し訳ないのだが、まったくもって不愉快千万な動物だ。ちゃんと躾けられた『文化的な』ワンちゃんならいいのだが、それでも正直なところ、『けっきょく本能の部分ではああいうのと同じなんだよなぁ〜』と思うと、やっぱりちょっと引いてしまうのである。
ところで一昨日、こんな記事を目にした。
『Bitten by dog, shunned by hospitals』 (Hindustan Times)
デリーで犬に噛まれた12歳の少年が、狂犬病ワクチンの注射を求めていくつかの政府系病院を回ってみたものの、行く先々で『持ち合わせのワクチンがない』と言われて断られたという内容だ。
インドで、どこかの自治体が野犬の捕獲を始めると、きまって動物擁護団体とかその手の活動家たちが大声で批判を始める。しばしばメディアもそれに同調する。でもよくよく考えてみるまでもなく、野犬が多数徘徊しているという状態は危険であり、特に小さな子供たちや高齢者たちとってはかなり大きなリスクでもあることは間違いない。
加えて『狂犬病』という、発症して回復したらそれこそギネスもの(発病したにもかかわらず回復した人物がギネスブックに記録されている。それほど稀なケースであるということだ)という恐ろしい病であることを思えば、『野犬狩りはならぬゾ!』と息巻く人々には、野犬ならびに狂犬病の危険を防ぐために、実際的かつ有効な対案を出して欲しいと思う。
まったく野犬ってやつは・・・。

BBC の存在感

BBC Hindi.comのサイト内で、穀物、果物その他に関連する語彙をワンポイントで教えるLearning English Idiomsというプログラムがある。これまでBean, Bananaなどが出てきていたが、本日現在取り上げられているのは『Fish』だ。
いつも“Hello ! I’m a very interesting and an intelligent man….”で語り始めるややエキセントリックな表情のアナウンサーが、魚に関するイディオムをユーモアたっぷりに視聴者に教えている。ごく数分程度のプログラムだが、ネットに接続するついでに覗いてみるとなかなか楽しい。なお、BBC World Serviceのサイト上にはLearning Englishというページも設けられており、ここには豊かなコンテンツが用意されている。
それにしてもウェブ版のBBC、世界中で33ケ語によるニュースを提供しており、うちアラビア語は北アフリカと中東、ポルトガル語もアフリカと南米といった具合に別々のニュースサイトが用意されている。どの言語においても文字、画像、音声等による最新ニュースや旬なトピックが満載だ。南アジアのみ挙げてみても、ウルドゥーヒンディーベンガーリーネーパーリータミルシンハーリー、と6ケ語で、それぞれの言葉が使用される地域の関心ごとを中心に、ニュースが構成されている。またこれらに加えて、英語によるアフリカ南北アメリカアジア・パシフィックヨーロッパ中東南アジア、そしてイギリスといった各地域ごとのニュースサイトもあり、どれも豊かな情報量を誇る。
近年、イギリス政府の対イラク政策について批判的な報道から、自国政府と対立するスタンスも話題になったことからもわかるとおり、BBCの報道の中立性、コンテンツそのものの信頼性について評価が高いことは言うまでもない。中国やミャンマーをはじめ、自国の報道が政府の厳しい管理下にあり、非常に偏重したニュースしか流れないような国において、外国発の自国語によるニュースに触れる手段さえ持っていれば、『ホントはどうなっているのか』を知る大きな助けとなることだろう。質・量ともに、BBC World Serviceの圧倒的な存在感には脱帽である。