ビカネール3 National Research Centre on Camels

食事を終えてから、オートでNational Research Center on Camelに向かう。市街地からかなり離れたところにある。午後2時から午後6時までという短い公開時間。うっかり午前中に出向いたらアウトである。着いたときにはまだ10分ほど早かったので少し待たされた。

広い敷地内は、大きく分けてみっつのエリア、事務棟、研究施設、飼育施設で構成されており、私たち外部の人間が見学することができるのは、事務棟の脇にある小さな博物館を除けば、当然のことながら飼育施設のみである。

小さな博物館、餌場、えさの時間以外に入れておく柵などがある。また餌置き場、そして餌のペレットの工場などもあるようだが、後者については公開されていない。博物館内の表示から、ラクダには4種類あることがわかるが、実物を眺めてもどれがどれなのかさっぱりわからない。

せっかく来たのだが、正直なところあまり面白くなかった。内容はさておき、農業省の関連施設なのに、外国人料金があるのも癪である。

入口
券バイカウンターの横でラクダミルク製品を販売
事務棟
研修施設
飼育施設

ラクダの診療所
ラクダの寄生虫に関する説明
この地域のラクダはどれも同じに見えるが、実はいろいろ種類があるらしい。

ビカネール2 旧藩営鉄道

宿から見て、鉄道駅がすぐ裏手なので、列車の汽笛がよく聞こえてきて風情がある。英領期には旧藩王国でも藩王国立の鉄道が敷設されたりなどしていた。開明的な君主が先端技術を導入したということもあろうが、これらの路線がイギリス当局により、藩王国の大きな負担により建設させたという部分も多いにあると思う。

こうした鉄道の多くはメーターゲージであり、各地にあった鉄道会社が独立後に統合されてインド国鉄となった後、ブロードゲージの幹線と軌道幅の相違から直接乗り入れできない不便を長いこと甘受してきたわけだが、同時に着々と全国路線のブロードゲージ化の事業は進行していき、近年はほぼ完成したといえる。ジャイサルメール、ビカネール、シェーカーワティーなどにもデリーからブロードゲージの直通列車が走るようになっている。シェーカーワティー地域においては、デリーからメーターゲージでジュンジュヌー経由でジャイプルに走っていたものだが、この路線も近年ブロードゲージ化された。ジュンジュヌーはまだメーターゲージのため、路線から外れることとなり、各駅停車の路線のみが残っている。

統合といえば国鉄だけではない。藩王国が割拠し、イギリスが間接統治を行なった旧ラージプータナ地域だが、インド独立後は行政組織も新生のインド共和国と統合させられることになったことから、旧藩王国により役人たちの明暗は分かれたのではないだろうか。有力な旧藩の役人たちはどんどん上のポストを占領して、そのラインで人事が進んでいく、あるいは冷や飯を食わされることになった旧藩の役人たちは不満たらたら・・・。そんな今の会社社会でもよくある悲喜こもごもが、ここでも展開されていったりしたのではなかろうか、と想像している。

〈続く〉

ビカネール1 旧藩王国最後の宰相の屋敷

バスはシェーカーワティーを出てしばらく細い道を進むと、やがて舗装が非常に良質で道幅が広い国道11号線に出た。スピードが出る分、運転席真後ろの狭いスペースにいると怖い。片側三車線区間が一部、あとは片側二車線が大半。ときどき一車線になったりもする。

昔のように「道路に穴が空いているのか、穴が空いているところに道路が通っているのかわからない」と首相在職時(1998年3月~2004年5月)のヴァジぺーイー氏が発言したようにひどい時代があったが、もはやそれは遠い過去のことになっている。インド各地の主要幹線道路はとても良くなった。

そのいっぽう、沿道の動物たちには危険なようで、30分に1回以上は、轢かれて死んでしまった野犬や牛などの哀れな姿を目にする。誰も処理しないのでそのままになっているのだが、ゾッとする光景だ。

シェーカーワティー地方を出てしまったことは、ハヴェーリーや塔のついた井戸が風景からなくなることでよくわかる。デリーやハリヤーナーに近く、ラージャスターンの他の地域にも囲まれているのに、どうしてこういう独自の伝統がここに残ったのか、それでいてなぜ他の地域にも広がることはなかったのかと不思議に思う。それとは反対に、ごく狭いところから周辺部に伝播した範囲で、シェーカーワティーの文化が形成されたのかもしれない。

やがてビカネール(正確に書くとビーカーネールだが、字面があまりに冗長になってしまうため、今後はビカネールと表記)までの距離表示が、すでに20キロを切った。道路の状態が良いので、もう目と鼻の先だ。

プライベートのバスであったためか、本来のバススタンドではない空き地に停車して、「ここが終点」とのこと。鉄道駅近くの宿まではずいぶん遠かった。

本日の宿は、Hotel Jaswant Bhawan。駅の北口近くとはわかっていたが、鉄道用地のゲート出たところであった。

ビカネール藩王国最後の首相であったラオ・バハードゥル・ジャスワント・スィンが暮らした家がホテルとなっている。築200年というこの屋敷だが、現在もオーナーであるファミリーの居間に通されて食事が出来るのを待つ。

ここは運営を外部に委託しているわけではなく、ここの家族、特に奥さんと主人の若夫婦が対応してくれる。アットホームな雰囲気で、食事の場所や居間スペースが家族のところなので、ホームステイに近い感覚だ。部屋もまずまずで、ちゃんと蛍光灯が入っているので日記を書いたりする際にとても助かる。

料理のメニューは、同じ並びのすぐ隣にあるジャスワントという名のレストランのもの。中は薄暗く、バーと兼用なのであまり雰囲気の良い店ではなく、上品な家族の所有らしからぬ感じがするが、尋ねてみるとやはりそこも家族で所有しているとのこと。この宿で供される料理はレストランから運んでくるのではなく、ここの家のキッチンで作っていた。奥さんが使用人たちを指揮して、出来上がるとせっせと運ばせてくれる。

居間には勲章なども飾ってあり、藩最後の宰相が受けたものであったり、この家から出た軍人が与えられたものであったりするようだ。最近はWi-Fiを用意している宿が多くなったが、ここのホテルも同様だ。宿泊先に必ずWi-Fiがあれば、インドの携帯電話がなくてもなんとかなる部分はあるのだが、やはり移動中に観光地を調べたり、観光中に検索したり、そして電話も使いたいので、やはり今の時代は旅行中でも地元のSIMは必需品である。

〈続く〉

チャーイは世の中を変えた・・・かもしれない


旅先で、食後にチャーイを啜りながら、この日はあと何をしようか?どこに行こうか?と考える。

お茶やコーヒーがなかった時代、私たち人類は、何を手にして思考していたのだろうか。19世紀以降に急激に加速した社会の進展、技術の進化には、茶、コーヒーの普及と深い繋がりがあるにちがいない。 欧州の有産階級が、茶、コーヒー出現以前にランチで嗜むのはアルコール類だったそうではないか。それはそれでいい時代だったのかもしれないが。

茶、コーヒーで思い出したのだが、茶葉の大産地インドで、喫茶の習慣が地元の人たちに普及し始めたのは1920年代末から1930年代にかけてのことらしい。かつて貴重で大変カネになる作物であった茶も、このあたりになるとインド・スリランカでの算出量増大、この地域外においてもマレーシア、ケニア等々の英領各国での生産が広がったことから、価格が下落していくとともに、在庫がだぶつくようになってくる。

そこで当時のインド紅茶局が全国で喫茶習慣普及推進の旗振りを始めて、各地でデモンストレーションを始めたとのこと。それまではマーケットになっていなかった茶葉生産のお膝元での需要拡大を図ることになった。当初は英国式の飲み方を導入しようとしたらしいが、地元の人々の嗜好から現在のチャーイの形で広まることになって現在に至る。

その背景には、欧州ではすでに値崩れして買い手が少ない低級品の大量処分という狙いがあったとともに、当時の庶民の購買力の関係もあったはず。お茶はお茶でも、本当に下のクラスのものは、カフェイン入りの色付きのお湯でしかないがゆえに、マサーラーで香りを付けるとともに、ミルクと砂糖で味付けする必要があったということにもなるのかもしれない。

西欧では、カフェ文化の浸透により、様々な市民が集まり議論を交わすようになったことが、民主主義運動を拡大させるとともに、労働組合活動を盛んにしていったと言われているように、インドでもチャーイの文化が広がる中で、反英独立運動が勢いを増していったということもあるかもしれない。

チャーイを啜りながら、そんなことをぼんやり想ったりする。

田舎町の悩殺

ラージャスターン州の片田舎の町で、しばらく待っているとバスはやってきたが、すでに満員状態。なんとかぐいぐい押し込んで、ようやく乗車するとともに、運転手のキャビン内でなんとか居場所を確保できた。ちゃんとした席ではないため、実に苦しい体勢だ。

キャビンのすぐ後ろにガラス窓、そのすぐ背後に立って窮屈そうにしている豊満な若い奥さんが、胸元からガラケーを取り出して通話を始めた。取り出すときにムニュムニュ、ボヨヨーンという、大きなバストの元気良い動きに胸が高鳴ってしまう。

キャビンの中、私の隣に陣取っていた乗客がひとり下車していくと、私がそうしたのと同じく、彼女もまた無理矢理周囲の人たちを押しのけてこちらに入ってきて、私に密着して腰を下ろした。やがて車掌が乗車賃を集金に来ると、豊かな胸をプルプルと震わせて、深い谷間からお札を取り出すので、ちょっとドギマギしてしまう。「釣銭がない」と断られると、また同じ動きで胸の違う場所から小額紙幣を取り出す。別に見ようとは思わないのだが、とにかく狭い車内スペースで視界に入ってきてしまうのだ。

一度そういう所作が目に付いてしまうと、また次に何か取り出すらしきときには、ついつい視線が泳いでしまったりする。田舎では今でも胸元にお金とかいろいろ入れている人が多いが、とりわけグラマラスな感じの人がこうしていると、もう大変な悩殺シーンである。もっとも、地元の男性たちにしてみると、田舎の女性の粗野な振る舞いに過ぎないようだが。

しばらくすると、再び携帯電話が鳴り、彼女が乳房の左側から取り出す際に、引っ張られた豊かな部分がプルプル、ドサッと弾み、どうもいたたまれない。

※画像は文中に登場する人物とは無関係です。