ビハールが禁酒州に

昨日からビハールは禁酒州に移行。しかしU.P.州では酒税率の削減により、酒類が安くなる。生活習慣が大きく異なるわけではなく、隣り合う州なのに。アルコールに起因する社会や生活の問題、酒という個人の楽しみと製造・販売の利権、どちらも票になるので、政権が社会のどのあたりの歓心を買おうとしているかによって転ぶ方向が違う。州ごとの自治性の高さからこうしたコントラストが生まれてくる。

Complete ban on alcohol in Bihar from today (The Indian Express)

Liquor prices come down in UP after state govt slashes excise duty on alcohol (India Today)

禁酒となっても、闇であちこち流通していることだろう。インドでは、他にも禁酒州はいくつかあるが、ブラックマーケットではかなり高い値段で取引されているかといえば、そうとも限らないようで、政府に税を払わずに売りさばくので、酒が合法な州よりも安く手に入るということもなきにしもあらず、のようだ。

こちらは2007年にindo.toにアップした記事だが、これはグジャラート州の酒に関するもの。当時、禁酒を見直す動きがあったものの、現在までのところ、この情勢には変化なし。

グジャラート州 酒類解禁への道 (indo.to) ※2007年2月の記事

手書き文字の訛り

東京都内のインド料理レストランにて。日替わりカレーのメニューを書いたのは、注文とレジ担当のAさん(ネパールの方)だな、と判ってしまうのは、やはり手書き文字の調子から。

人によって程度の差こそあれ、外国語を話すときにアクセント等で母語の影響が見られるのは当然のこと。日本語が大変流暢でも、少し会話するだけで出身国が中国だな、とかミャンマーの人だろうなどと判るものだし、在住歴20年を越える日本生活ベテランの韓国人でも、ひょっとしたところで韓国人らしいアクセントが出たりすることが少なくない。

幼い頃から日常に用いているのではなく、大人になってから習得した言語の場合はたいていそういうものだ。そこで生まれ育った人と違うアクセントであることは決して恥じるようなものではなく、自身の文化背景のひとつでもあるので、わざわざネイティヴのアクセントを真似る必要もないと私は思う。

実は手書き文字でも書き慣れた母語の痕跡が見られるということはしばしばある。タイの人が書いたもの、アラビアの人が書いたものなど、一目でそうと判ることは決して少なくないし、英文などでもそうした傾向が見られるもので、バングラデシュの人が書くローマ字には、なんだかベンガル文字風の重厚な雰囲気が醸し出されていたりすることもある。そうした「手書き文字の訛り」例のひとつが、この画像にある黒板上のデーヴァナーガリー文字風手書きメニュー。

また母語の文字の影響とはまた別の部分で、表記の慣習の違いなどもあったりする。通常、私たちが、数字の7を書く際に、縦棒の真ん中あたりに短い横棒を入れないのは、日本語の表記慣習のためであろう。日本人が「和式」で手書きした「7」を何の疑いもなく「なな」と認識できるようになると、かなりの「日本通」ということになるかもしれない。

80年代イランの切手

初めてイランを訪れたのは、ホメイニー師が亡くなってからすぐあたりであった。別に切手を集める趣味があるわけではなく、旅先で記念切手?を購入するということは、後にも先にもなかったのだが、この類の切手だけは有名であったので手にしてみたかった。

1979年に発生したアメリカ大使館占拠記念

1988年に起きた米軍によるイラン民間航空機撃墜事故に対する糾弾
交戦状態にあったイラクによる学校への爆撃により子供たちが多数亡くなったことに対する非難

当時のイランでは、大きな役所等の壁に「アメリカを打ち倒せ!」みたいなスローガンと勇ましいプロパガンダ画などが描いてあるのを目にした。

最初の切手はアメリカ大使館占拠記念、次は米軍によるイラン民間航空機撃墜事故に対する糾弾、三番目は交戦状態にあったイラクによる学校への爆撃により子供たちが多数亡くなったことに対する非難。
・・・といっても、イラン政府による「官製反米姿勢」とは裏腹に、イランの一般の人々の間で、こうした反米感情が渦巻いているわけではなく、極めて穏健かつゆったりとした人たち。

急進的な近代化を推し進めたパフラヴィー朝に対する宗教勢力を中心とする保守勢力に、これとは異なる側面、つまり王朝による強権的な支配、利権構造、腐敗などを苦々しく思っていた市民たちが、変革を期待して肩入れした結果、革命が成就することとなった。

しかしながら、王朝が倒れてからは、大多数の市民が期待したような方向に向かうわけではなく、今度は宗教勢力が大衆を強権支配するようになった。きちんと教育も受けていないならず者みたいな者たちが、政府の治安機構で用いられ、新しい政権が示したコードに従わない者をどんどん処罰していく。

さらには「革命の輸出」を警戒する中東近隣国との関係も悪化し、「ペルシャ湾岸の衛兵」的な立場にあった王朝が倒れることにより、欧米からも強く懸念される存在となり、大産油国でありながらも経済は悪化していったのがこの時代。

そのため、市民の多くは「王朝時代は悪かったが、今もまたひどいものだ」と呻吟する社会が当時のイランであったわけで、それなりの資産とツテのある人たちはアメリカその他に移住していくこととなった。

東に隣接する南アジア社会に較べると格段に高い生活水準と立派な街並みなどから、当時の私なぞは、あたかも東ヨーロッパに来たかのような気分にさえなったものだ。イランの人々の風貌はもちろんのこと、当時の地味な装い、イスラーム革命により、1979年に王朝が倒されてからは、経済面では社会主義的政策を取っていたこともあり、そんな雰囲気があったともいえるかもしれない。

当時は、観光目的で三カ月以内の滞在については、査証の相互免除協定があったので、日本人である私たちがイラン入国に際してヴィザは不要で、イランの人たちが日本に来る際にもそうであった。    
      
つまりイラクとの戦争が終結したあたりから、イランから日本に出稼ぎに来る男性たちが急増したのは、ちょうどこのあたり。東京都内では、ヤクザみたいな恰好?したイラン男性たちをしばしば見かけて、イラン旅行中にはいつでもどこでもお世話になった紳士的かつ親切な人々の姿とのギャップにちょっとビックリしたりもした。でも、当時日本に出稼ぎに来ていた人たちの大半は若者だったので、故郷の地域社会の縛りが解放されて、ちょっとツッパッてみたい年ごろだったんだろうな、と思う。

当時のイランではNHK連続ドラマの「おしん」が吹き替えで放送されていたようで、各地でよくそのストーリーについて質問された。だが私はその「おしん」とやらをまったく見ておらずよく知らないので、逆にイランの人たちに尋ねる始末であった。(笑)人気ドラマにしても芸能人ネタにしても、自分の興味のない部分についてはまったく知識を吸収できないので、ときに困ることがある。この部分については、今になってもまったく治っていない。

そんなイランがこれから大きな変化を迎えようとしている。これまで長く長く続いた冬みたいな時代であったのかもしれないが、ホカホカと暖かく素敵な春を迎えるようになることを願いたい。

ゴーラクプル1

ベトナム寺院の宿坊で出発の準備。このお寺に起居する尼さん、坊さん、スタッフたちに挨拶をして、少し離れたところにあるメインストリートに出てバスを待つ。

ほどなくゴーラクプル行きがやってきた。空席はなかったが、それでも押し合いへし合いするほどの混雑ではなかったのは幸いだ。クシーナガルから1時間15分ほどでゴーラクプルに到着。

サイクルリクシャーでゴーラクプル駅へ。予約してある列車が夕方出発するまでしばらく時間がある。Eチケットに車両番号と座席番号が印字されていなくて、ただconfirmedと書かれているのみなので、念のため確認しておきたかった。駅長室隣にある事務所で尋ねてみると、午後1時くらいにチャートが作成されるまではコーチ番号も座席番号も出てこないとのこと。

Gorakhpur Junction Station

この人の名前からしてクリスチャンらしいというだけではなく、なかなか重厚で厳めしい英国風なので、ひょっとして?と思って尋ねてみると、やはりアングロインディアンであった。家の中では英語だけの環境で育ち、学校もイングリッシュ・ミディアムのところであったため、ちゃんとヒンディーを習ったことはないのだという。「もちろん土地の言葉なので、当然毎日しゃべっていますが、ヒンディーの読み書きは苦手です。」と言う。

イギリスから渡ってきた曽祖父も鉄道員で、技術職であったとのことだ。軍と鉄道はいかにもアングロインディアン的な仕事だが、今でも就職の際の留保があるとのこと。同様に、国会に2議席留保されているよく知られた話だ。

自宅で奥さんが作ったというブラウニーケーキを分けてくれたが、洋酒がしっかり効いている味は、いかにもアングロイディアン的である。通常、インド人のケーキならば洋酒は入らないのが普通だ。

家の中では今でも「英国風」の暮らしをしていると言い、スマホに入っている写真をいろいろと見せてくれたが、家屋はインドの庶民そのものという感じで、裕福というわけではないようだ。身内には豪州その他に渡った人もいるというが、まだこのあたりにはかなり多くのアングロインディアンたちが暮らしているという。機会があれば、アングロインディアンの人たちのコミュニティの中で、彼らがどうやって生活しているのか、どういう仕事に就いているのかなどについて知りたいものだ。

フェイスブックをやっているとのことで、その場でFB友達となった。これで何か質問があったらいつでも連絡できる。便利な時代になったものだ。

インドとミャンマーの国境交流本格化へ

もう2か月近く前のことになるが、こんな記事を目にした。

Cabinet Nod for 69 Bridges in Myanmar Highway (Northeast Today)

ミャンマー西部の国道建設にかかる援助プロジェクトで、マニプル州からの越境地点となるモレー/タムー国境から東進するルートになる。これは同州の州都インパールからマンダレー間で計画されている直通バスが通るコースでもあり、旅客のみならず二国間の物流面でも期待されている。

このあたりは東南アジアと南アジアの境目であり、国境両側に様々な少数民族の豊かな生活文化が残されている地域でもあり、単なる通過点としてだけではなく、観光面からも期待されるものは決して少なくないことだろう。

とりわけインドでは、近年になってから中央政府・北東各州政府ともに北東地域のツーリズム振興のために様々なキャンペーンを張っているものの、なかなかその効果は出ていないようだ。

ひとつは、州によってはまだ治安情勢に不穏なものがあり、マニプル州もそうしたカテゴリーに含まれること、そして大きな遺跡や見栄えのする名所旧跡が数多く存在するわけではなく、どちらかといえば、地域の生活文化そのものが魅力という地味な地域であることがその主な理由であろう。

さらには、ここを訪れてからどうするのかといえば、グワーハーティー、コールカーター等の大都市まで引き返してから、インド国内の他のところに向かう、あるいは周辺国に向かうということになる「地の果ての行き止まり」であったため、なおさらのこと、観光客が足を向けにくかったということがある。

そんな状況もインパールからミャンマーのマンダレーへの直行バスが運行されるようになり、私たち外国人もそれを利用できるようになれば、ずいぶん違った具合になってくることと思われる。

「ヤンゴンから入り、ミャンマー西部を訪れてから、インド北東州をあちこち見学、そしてコールカーターから帰国」といったルートがポピュラーになる日もそう遠くはないのかもしれない。