ペヘルガムへ1

ぺヘルガム(Pahalgam)を日帰りで訪問することにした。とにかく時間がないので、タクシーをチャーターして向かうことにした。

国道脇で木材が大量に積まれている。このあたりはクリケットのバットの材料となる柳の木(日本のしだれ柳とはだいぶ違う感じ)の産地として知られており、国道沿いにはバット作成のために削り出した木材が山積みされている。クリケットの世界では、オーストラリアとともに世界をリードするインドを下支えしているのがカシミールのバット生産といえるのかもしれない。

これからクリケットのバットに加工されるヤナギ材

ちなみにこの柳は、ラダックでもよく利用され、家屋や寺院の梁などを組むのにも使われる。強靭で弾力にも富むためだろう。

そこを過ぎて少し進んだ先、パームプル(Pampore)近くでは、道路両側が広大なサフラン畑となる。ここは世界に冠たるサフランの大産地。ここはジェーラム河のほとりに広がる湿原でも有名だ。収穫期は秋で、花ひとつに花芯は三本ほどしかなく、ゆえに高価なものとなるようだ。

そこからしばらく進んだところにはビジベハーラー (Bijbehara)という町がある。ここはJ&K州の前州首相のムフティ・モハンマド・サイードの実家があり、娘で父親の死後に州首相の座に就いたメヘブーバー・ムフティの生まれた町でもある。

このあたりで国道から左に折れて進んでいく。やがて道の両側はリンゴ畑となる。そのあたりでチャーイの休憩。運転手が言うには、観光客を連れてきている運転手はチャーイも食事も無料で提供されるのだとか。観光地間を結ぶ道路沿いではそんな感じらしい。

チャーイの休憩

立ち寄った店の横を流れる川

さて、本日の運転手はアブドゥル・カーディルさん。若い運転手だと向こう見ずな運転で怖いので、「中高年ドライバーを」と頼んだらやってきたのがこの方。すでに昨日、タクシースタンドの事務所で顔合わせしている。

アブドゥル・カーディルさん

運転手のアブドゥル・カーディルさんは、このあたりでは最高齢クラスの職業運転手だそうで、御隠居さん的に達観した落ち着きと重厚感がある。

だがジェントルな見た目とは裏腹に、なかなかおしゃべりな年配男性であった。
明日はどこに行くのか?と、やたらとグルマルグに日帰りすることを勧めたり、明後日デリーに飛ぶのだと言えば、空港には何時に行くのか?とどんどん売り込んでくる。必要があれば電話するとかわすが、それでもしばらくはそんなやりとりが続いた。

「子供たち四人全員結婚して片付いた。一緒に暮らしとる息子からは、もういい加減に引退しては?言われるけどな、家でぶらぶらしてると、家内が煩くてねぇ・・・」なんて、どこかの国でも耳にするようなことを言う。

もうとうに70才を越えているかと思ったが62才とのこと。このあたりの人たちのトシはよくわからない。

さきほどのメヘブーバー・ムフティの生まれた町を出たあたりから、次第に山道に入ってくる。近年は、カシミールの道路もかなりよくなっている。

おととい向かったソーンマールグとはまた違った雰囲気はあるが、やはりカシミールの景色は美しい。まさに風光明眉とはこのことだ。あまり険しい山道ではないが、次第に高度を上げていくとともに、気温も下がっていくようだ。高度はソーンマールグとどのくらい異なるのかは知らないが、向こうではすぐそこに見えた雪が、ここでははるか彼方上のほうに見える。

〈続く〉

シュリーナガル郊外観光

ダル湖の南東には、いくつかのムガル朝が残した離宮や庭園が点在している。文字どおり、ムガル帝国が強大であった時代に、スリナガルに建築させたペルシャ式のシンメトリーを基調とする美しい庭園だ。

オートで出発!

最初に訪れたのはパリー・メヘル(Pari Mahal)だ。ムガル朝の第5代皇帝シャージャハーンの息子であり、皇帝の跡取りとなることを目させていながらも、アウラングゼーブとの熾烈な争いに敗れて殺害されたダラー・シコーが建てさせたもの。
ここに行く途中にラージ・バワン(Governor’s House)があるのでBSFのチェックポストがあった。ここでは乗客は降りてチェックポストを通過、クルマやオートは運転手だけが乗って通過しなくてはならない。パリー・メヘルは、ここからの湖の眺めが素晴らしいはずなのだが、あいにくの雨天でいまひとつであった。

パリー・メヘル

パリー・メヘル

パリー・メヘルからダル湖方面の眺め

次に訪れたのは、チャシマー・シャーヒー・ガーデンCheshma Shahi Garden。規模は小さいのだがなかなかきれいでいい感じだ。ムガルの家臣であったアリー・マルダーン・カーンによるもの。

チャシマー・シャーヒー・ガーデン

チャシマー・シャーヒー・ガーデン

ニシャート・バーグ(Nishat Bagh)はさらに壮大な規模の庭園。第4代ムガル皇帝ジャハーンギールの妃、ヌール・ジャハーンの兄であったアースィフ・カーンによるもの。これはダル湖のほとりにあり、ここからの眺めも素晴らしい。
ペルシャ式庭園の幾何学的なデザインや配置は、自然の眺めのそれとは無縁のものなので、こうして山や湖に囲まれた美しい風景の中では好対象を成しているが、ここがイスラームが伝わる前のヒンドゥー時代には、カシミールの人たちの暮らしや気質は今とはずいぶん異なるものであったことと思う。

ニシャート・バーグ

ニシャート・バーグ

ニシャート・バーグ

ニシャート・バーグ

ニシャート・バーグ

そしてシャーリーマール・バーグ(Shalimar Bagh)へ。ジャハーンギールが建てさせたもので、規模が大きなことはもとより、手入れの行き届いていることからも、湖の眺望も楽しめるニシャート・バーグと合わせて、どちらも甲乙付け難い。

シャーリーマール・バーグ

シャーリーマール・バーグ

シャーリーマール・バーグ

シャーリーマール・バーグ

シャーリーマール・バーグ

シャーリーマール・バーグ

素敵な庭園の水路脇にベンチがあった。「カップルにおあつらえむきだな」と思って撮った矢先に、若いカップルがやってきて腰掛ける。やはりこのロケーションは、そういうムードなのだ。

スクールトリップで、大勢の子供たちが先生たちに引率されて訪れている。乗り込むバスを間違えないように、先生は生徒たちにバスの番号を大声で唱えさせていた。
「bus no.38, bus no.38…」
元気な声で繰り返しながら進んでいく子供たちの姿が可愛い。

シュリーナガル旧市街観光2

ジャマー・マスジッドを後にして、ナクシュバンド・サーヒブ(Naqshband Sahib)のダルガーへ。もとよりスーフィズムが盛んなカシミールだが、ここに祀られているのはスーフィズムの創始者という大変ありがたいもの。モスクも併設されている。どちらも優雅なカシミール建築だが、モスクのほうはヒマーチャルで行われているような木材を組んだ壁を持つ構造がユニーク。

Naqshband Sahib
Naqshband Sahib

南に道路を下り、ローザーバル(Rozabal)というダルガーに行くが、ここは閉まっていて見学はできなかった。このダルガーの地下にはイエスキリストの墓があるとされる。

Rozabal

この少し先にはペルシャ出身のスーフィーの聖人、アブドゥル・カーディル・ギーラーニーを祭るピール・ダストギール・サーヒブ(Pir Dastgir Sahib)がある。4年ほど前、火災に遭ったものを再建したとのことだが、中の装飾は見事で、本日訪れた中で、視覚的にはここが最も気に入った。

Pir Dastgir Sahib
Pir Dastgir Sahib
Pir Dastgir Sahib
Pir Dastgir Sahib

この後、バードシャー・マクバラー(Badshah tomb)へ。カシミールの第8代スルターンの墓だ。ブルガリアあたりにありそうな、カシミールにあっては奇妙な造形の石造りの建物。中にはここに埋葬されているスルターンにあやかって無数の墓石が並んでいる。

Badshah Tomb

このすぐ近くをジェラム河が流れているが、そこには木造の橋がかかっている。ただし上は舗装道路になっており、大丈夫なのかな、と思ったりする。旧市街には、趣きのある辻や建物がいろいろあり、散歩するのが楽しい。

木造の橋
旧市街の眺め
旧市街の眺め

旧市街の見どころのハイライトはカンカー・シャーヒー・ハマーダーン(Khanqah Shahi Hamadan)。ムスリム以外は建物内に入ることはできないが、その反面、入口や窓から内部の写真撮影は可能。装飾はカシミールのペーパルマーシエーで作られており、非常に手の込んだ造りである。非常に美しい木造のモスクだ。

Khanqah Shahi Hamadan
Khanqah Shahi Hamadan
Khanqah Shahi Hamadan

カシミールの建築は上品で繊細で実に美しい。そう思うと、これまではあまり好きではなかったカシミールの刺繍なども魅了的に見えてくるから不思議だ。

そこから東に進み、シャーヒー・ハマーダーンから見てジェラム河の対岸にあるパッタル・マスジッド(Pathar Masjid)へ。1623年に完成したこのムガル式のモスクは、アフガニスタンのカンダハール出身で、ムガル皇帝ジャハーンギールの妃であったヌール・ジャハーンが建てさせたもの。

Pathar Masjid
Pathar Masjid

河を挟んで、カシミール建築の傑作、木造のカンカー・シャーヒー・ハマーダーンの壮麗さと、外地からもたらされた様式による質実剛健な石造のムガル式モスクが好対照を成している。これもまた、カシミールから見た「インドとの距離感」を象徴しているかのようである。

〈完〉

シュリーナガル旧市街観光1

それでも7時くらいまで寝ていたので疲れは取れた。
宿のロビーで朝食。そして旧市街へオートで向かう。

グルドワラー・シュリー・チャッティー・パートシャーヒー・サーヒブ(Gurudwara Shri Chatti Patshahi Sahib)へ。スィク教の第6代グルーのハルゴービンドが17世紀前半に、カシミール各地を歴訪した際に建立したものとされる由緒あるグルドワラーだが、現在の建物は20世紀以降に建築・増築されたものである。

Gurudwara Shri Chatti Patshahi Sahib

その奥にあるカーティー・ダルワーザー(Kathi Darwaza)は1590年にムガル帝国のアクバル大帝が建てさせた門。ハリ・バルバトの丘のふもとに位置する。

Kathi Darwaza

ここから少し坂道を登り、マクドゥーム・サーヒブ(Makhdoom Sahib)というスーフィー聖者のダルガーからじっくりと見物を始める。このダルガーのすぐ下には、シャージャハーンの息子であり、兄弟であったアウラングゼーブとの争いの中で殺害されたダーラー・シコーが、17世紀半ばに建てさせたアクンド・ムッラー・シャー・マスジッド(Akhund Mullah Shah Masjid)の遺跡が見える。

Makhdoom Sahib

階段を下り、そこからジャマー・マスジッド(Jama Masjid)までかなり距離があるかと思ったが、そんなことはなかった。旧市街を歩くと、インドではなく中央アジアにでも来ているかのような気がする。それほど「インドとの距離感」がある。

Jama Masjid
Jama Masjid

Jama Masjid

ジャマー・マスジッドは典型的なカシミール建築で、やはりここにしかない個性がある。1,400年に建造された木造のモスク。ドームはないが斜型の屋根を持つ、独自性に富んだカシミールならではの建物。内部では非常に太い木の柱が天井を支えている。石造ではないため火気には要注意で、これまで3度も焼け落ちているという。

「インドとの距離感」を覚えるのは、伝統建築も然りだ。決して人口は多くなく(インド側で1,000万弱、パキスタン側で300万人強程度)なく、それほど経済的にも豊かではなかった地域ではあるものの、文化的に非常に高く洗練されたものがあることを感じさせてくれる。

カシミールの文化についてあまりよく知らない外国人が訪れても、そう感じるくらいなので、カシミール人たちにとってはやはりインドは異国なのであろう。印パ分離直後、カシミールの所属が宙に浮いていた頃に、これを巡って両国が武力衝突し、力で事実上の分割が行われてしまったという経緯もある。

目鼻立ちが整っていて、男女ともに優美な風貌をした人たちが多いのとは裏腹に、気が短くてケンカっ早い傾向もまた、カシミールで何か起きる際には本当に唐突に事が発生するということにも繋がるのかもしれない。

〈続く〉

シュリーナガルの官営シルク工場

2014年9月の洪水
2014年9月の洪水
2014年9月の洪水

シュリーナガル周辺の緑と農産物豊かな盆地は、ジェラム河の賜物だ。しかし、2014年9月、まさにこのジェラム河の氾濫による発生した大規模な洪水は、大きなニュースになったので、記憶されている方は多いだろう。街中を歩いている分には、当時のダメージを感じさせるものが目に付くことはないとはいえ、人々に尋ねてみると、やはり自宅や店が浸水してしまい、「それはもう大変だった!」という話はよく耳にした。建物を指差して、「壁の色があそこから色が少し違うでしょ?あのラインまで浸水したのです。」というようなことも聞いた。

もとより可処分所得の多くないこの州だけに、当時の被害による負債が後を引いているという人たちは少なくないことだろう。また、短期滞在者として、外面だけ眺めている分には気が付くことはなくても、人々の暮らしの中に入っていく機会があれば、そうした影響はまだまだ顕著に残っているに違いない。

そんなことを思ったのは、シュリーナガル市内にある州政府系の絹織物工場を訪れたときのこと。シルク専門の工場としては規模が大きく、かつては「世界最大級の絹織物工場」とされた頃もあったそうだ。戦前、すなわちインド独立前の藩王国時代に藩営工場として創業開始。インド共和国成立後の経営は、州政府に引き継がれた。

正面の建物がシルク織物工場
シルク織物工場の壁にも当時の浸水の跡が見られる。

その工場について、先述の洪水の約半年前に書かれたこんな記事がある。

Once largest in world, Rajbagh Silk Factory ‘dying’ of official apathy (Greater Kashmir)

歴史的な工場だが、近年は生産性がはなはだ落ち込み、好ましくない状態にあったらしいが、そこに追い討ちをかけるように、2014年の洪水でひどいダメージが与えられたとのことだ。工場内には30前後のラインがあるのだが、動作していたのはわずか三つのみ。それ以外は泥を被ったままであるのが痛々しい。

敷地内には、私が見学させてもらった棟以外にも、いくつかの施設があり、絹織物工場としては相当大きなものであったことは容易に察しがつくだけに、なんとももったいない話である。