The Cha Project

いろいろ調べてみると、大いに楽しいカルカッタの旧チャイナタウンだが、それと知らずに通りかかっても、そこが華人が集住していたエリアであると気が付く人はあまりいないのかもしれない。
あくまでも「旧チャイナタウン」であり、現在は基本的にムスリム地区。華人の姿はほとんど見かけないからだ。
サダルストリートの東端に面した消防署前で交差するフリースクール・ストリートのほうが、華人経営の食堂、靴屋、電髪屋等々を見かけるくらいだ。
ただし旧チャイナタウンでは、よくよく眺めてみると、路地裏に華人の古ぼけた同郷会館があったり、いくつかの中国寺院が存在していたりするし、チャッターワーラー・ガリーと呼ばれる小路には、いくつもの華人たちの住居が見えるし、華人の子供たちが地元のムスリムの子供たちとクリケットに興じていたりもする。それでも、どこかで混血しているケースが多いこともあり、西ベンガル州のダージリンあたりから来た家族の子かな?という風に見えたりもする。
それほど華人の存在感の薄い「旧チャイナタウン」だが、もうだいぶ前から「The Cha Project」というのが活動しており、この地区の華人たちのヘリテージの復興を目指して奮闘中。これにはシンガポール華人その他も協力している。
その歩みはゆっくりとしたものだが、数年程度の長いスパンで眺めると、その進展には、なかなか興味深いものがあるかもしれない。

The Cha Project

コールカーター旧中華街点描

かつては相当規模の華人人口を抱えていたこの街だが、1962年に中印紛争が勃発して以降、インド政府から「敵性国人」とのレッテルを貼られて、強制収容所に送られたり、公安による監視対象となるなどしたことから、海外(主にカナダ、とりわけトロント周辺)へ流出したことから、その数を大幅に減らして現在に至っている。
そのため、旧中華街においても、毎朝開かれる中華朝市の時間帯を除いては、華人たちの存在が感じられるムードには乏しく、地域住民の大半はムスリムなので、ごくわずかにある華人経営の店も目立たないので、そうと言われなければ気が付かずに通過してしまう人も多いだろう。
そんな中でも、かつての華人たちの存在と繁栄を感じさせる名残りには事欠かないのがこの地域らしいところだ。

カルカッタ最古の中華料理屋 Nanking Restaurant (南京飯店)

元「Nanking Restaurant」

1924年(1925年?)に開業。往時は相当高級な中華料理屋であったようで、欧州人たちの利用も多かったようだ。時代が下って1950年代あたりになると、当時のインド映画のスターその他の富裕層がよく出入りする人気店だったらしい。
しかし、1962年に勃発した中印紛争により、インド在住(主にカルカッタ、他に西ベンガル州内、アッサム、メガーラヤの都市部に散在)していた華人たちは、インド公安当局により、ラージャスターンのデーオリーキャンプに送られる憂き目に遭う。
そうした反中的な機運の中で、南京飯店の経営は傾き、1970年代半ばあたりに店を閉めることになった。
荒れ果てたとはいえ、今でも相当立派な建物だ。2013年以前は建物の前がうず高く積まれたゴミ類でいっぱいだったのだが、これらが撤去されたため、今回はようやくその前まで行くことができるようになっていた。
このまま打ち捨てておくには、あまりに惜しいか、今は「安東会館」という看板がかかっているので、華人のコミュニティホールか何かとして利用されるようになっているのだろうか。

知日と親日

コールカーターを訪問すると、とりわけ年配の方々での間に知日家がけっこう多いらしいことを再確認できる。

総体的にインドでは日本に対する印象は好ましいものだ。歴史問題がないことから、反日嫌日感情とそれを利用する政治力学は不在である。

もっとも歴史問題が本当に存在しなかったのか?といえば、そんなことはない。日軍によるアンダマンの空爆はあったし、1936年に英領インドから分離したビルマに在住していた膨大な数のインド人移民たちは、ラングーン、マンダレーなどで甚大な被害を受け、大量の難民がインドに流出。今でもミャンマー在住のインド系の年配者たちの間で、当時の日本の悪行が深く記憶に刻まれている人たちは少なくない。また、インパール作戦ではインド軍は日軍と死闘を展開しており、この地域に住むモンゴロイド系の少数民族の人たちに与えたインパクトは決して無視できるものではない。

しかしながらビルマ占領とインパール作戦には、インド独立運動の一翼を担ったスバーシュ・チャンドラ・ボース率いるINA(インド国民軍)も日軍とともに参戦している。英国支配の呪縛から祖国を救おうと試みて解放戦争を闘ったINAにとって、日軍は友軍(実態はINA自体そのものが日軍の傀儡であったといえるが)であったため、侵略者としての面が中和されて、後世に残る歴史問題とはならなかったようだ。

また、インド側にしてみれば、反英活動に忙しかった時代であること、分離独立により、東西パキスタンを失うとともに、両国間で大量に発生した移民の波と、移動のプロセスの中で発生した殺戮の記憶があまりに大きなものであった。マジョリティが住む本土から遠く離れた辺境での出来事についての関心は薄かったし、今も顧みられないということもあるだろう。

インド人全般に言えることだが、自国の北東辺境部に対するこうした共感意識の欠如は、独立以前から現在に至るまで、北東地域の不安定さの主要因のひとつでもある。

それはとかくとして、反日感情がないから親日かといえば、そうともいえないものがある。被害を受けた記憶がないから、当然悪い感情を抱くことはなく、概して好意的とはいえ、一般的に日本に対する知識がほとんどないのに、親日的とするのは行き過ぎだろう。

経済的に繁栄した国(近年は落ち目であっても)であることや日本ブランドの優れたクルマや家電製品などはいいなぁ、という程度の認知で、韓国や中国の人々のように、日本の良い面、そうでない面を相当程度知ったうえでのこととは、まったく次元が異なるのだ。

ちょうどトルコにおける『親日』感情と同じようなものだろう。紀伊半島沖で難破したエルトゥールル号の救出という歴史上の出来事、宿敵ロシアに戦争で勝ったというような遠い過去の出来事がよく挙げられる。そんな程度のものだ。

そんな中で、カルカッタやその周辺地域では、インテリ層年配者の間で日本式の菊などの盆栽がなかなか盛んである。戦後日本の復興期に製鉄や造船などに注力していた時代に大量の石炭を輸出した仕事の縁で日本に知己の多い老人、当時の貧しかった日本に将来を託して渡った留学生など、日本と深い繋がりを持ったことがある年配者がけっこういる。

彼らの時代には、戦前のスバーシュ・チャンドラ・ボースやカレーの中村屋の始祖となったラース・ビハーリー・ボースといったベンガル出身で、日本と近しかった民族主義者や革命家の記憶が新しかったのかもしれないが、年配の知日家を目にすることが少なくないコールカーターだ。

ここで敢えて『親日』ではなく、『知日』としたのは理由がある。
ご存知のとおり、韓国や中国には知日家は実に多い。日本への造詣が深いがゆえに、日本の良いところも知る反面、そうではない部分もよく知っている。
ゆえに知日家ながらも対日(政府への)感情は良くないということは珍しいことではない。

コールカーターの知日家について、日本についてどのように感じているのかはよく知らないが、親日・反日という感情については、まず日本のことについて、相当程度の知識なり経験があってのものであろうと私は思う。

そうした意味から、一般的にインドにおいては、それらのどちらでもない、ごくニュートラルなものであると言えるだろう。

アルメニア人教会のクリスマスイブ

アルメニア教会

世界に散在するアルメニア教会では、クリスマスを1月6日に祝う。クリスマスイブに当たる1月5日の夕刻に、コールカーターのOld China Bazar Streetにあるアルメニア教会を訪れてみた。

ここは細い路地の両側には、主に紙製品等を扱う商店、卸問屋などがぎっしりと並び、路上でも荷解きや卸先への発送準備などをしており人通りも多い。真っすぐ進むこともままならない物凄い混雑だ。大変密度の濃い商業空間から、突然姿を覗かせるインドらしからぬいでたちの建物がアルメニア教会だ。

建物内部やミサの様子の写真を撮ることは許されないため、その様子を画像で紹介することは出来ない。だが荘厳な衣装を身にまといミサを執り行う司祭も正装して集う数十名の信者たちも欧州人にしか見えない風貌と肌の色をした人たちだ。カルカッタにいることをつい忘れてしまいそうだった。

インドにおけるアルメニア人居住の歴史は、7世紀あたりから始まるようだが、コールカーターにおいては、17世紀にイギリスによってこの街が築かれてからということになるため、外地からここへの移民史もそれ以降に始まったことになる。この街における彼らの伝統的な居住地は白人地区と隣接したエリアで、ちょうどユダヤ人や華人たちのそれと重なる。

ユダヤ人と同様、植民地を支配する英国の買弁としての商売に従事した人たちが多かったため、後ろ盾であり最大の顧客を失うことに繋がったインド独立に際して、大半がインドを去っている。