カルカッタ最古の中華料理屋 Nanking Restaurant (南京飯店)

元「Nanking Restaurant」

1924年(1925年?)に開業。往時は相当高級な中華料理屋であったようで、欧州人たちの利用も多かったようだ。時代が下って1950年代あたりになると、当時のインド映画のスターその他の富裕層がよく出入りする人気店だったらしい。
しかし、1962年に勃発した中印紛争により、インド在住(主にカルカッタ、他に西ベンガル州内、アッサム、メガーラヤの都市部に散在)していた華人たちは、インド公安当局により、ラージャスターンのデーオリーキャンプに送られる憂き目に遭う。
そうした反中的な機運の中で、南京飯店の経営は傾き、1970年代半ばあたりに店を閉めることになった。
荒れ果てたとはいえ、今でも相当立派な建物だ。2013年以前は建物の前がうず高く積まれたゴミ類でいっぱいだったのだが、これらが撤去されたため、今回はようやくその前まで行くことができるようになっていた。
このまま打ち捨てておくには、あまりに惜しいか、今は「安東会館」という看板がかかっているので、華人のコミュニティホールか何かとして利用されるようになっているのだろうか。

知日と親日

コールカーターを訪問すると、とりわけ年配の方々での間に知日家がけっこう多いらしいことを再確認できる。

総体的にインドでは日本に対する印象は好ましいものだ。歴史問題がないことから、反日嫌日感情とそれを利用する政治力学は不在である。

もっとも歴史問題が本当に存在しなかったのか?といえば、そんなことはない。日軍によるアンダマンの空爆はあったし、1936年に英領インドから分離したビルマに在住していた膨大な数のインド人移民たちは、ラングーン、マンダレーなどで甚大な被害を受け、大量の難民がインドに流出。今でもミャンマー在住のインド系の年配者たちの間で、当時の日本の悪行が深く記憶に刻まれている人たちは少なくない。また、インパール作戦ではインド軍は日軍と死闘を展開しており、この地域に住むモンゴロイド系の少数民族の人たちに与えたインパクトは決して無視できるものではない。

しかしながらビルマ占領とインパール作戦には、インド独立運動の一翼を担ったスバーシュ・チャンドラ・ボース率いるINA(インド国民軍)も日軍とともに参戦している。英国支配の呪縛から祖国を救おうと試みて解放戦争を闘ったINAにとって、日軍は友軍(実態はINA自体そのものが日軍の傀儡であったといえるが)であったため、侵略者としての面が中和されて、後世に残る歴史問題とはならなかったようだ。

また、インド側にしてみれば、反英活動に忙しかった時代であること、分離独立により、東西パキスタンを失うとともに、両国間で大量に発生した移民の波と、移動のプロセスの中で発生した殺戮の記憶があまりに大きなものであった。マジョリティが住む本土から遠く離れた辺境での出来事についての関心は薄かったし、今も顧みられないということもあるだろう。

インド人全般に言えることだが、自国の北東辺境部に対するこうした共感意識の欠如は、独立以前から現在に至るまで、北東地域の不安定さの主要因のひとつでもある。

それはとかくとして、反日感情がないから親日かといえば、そうともいえないものがある。被害を受けた記憶がないから、当然悪い感情を抱くことはなく、概して好意的とはいえ、一般的に日本に対する知識がほとんどないのに、親日的とするのは行き過ぎだろう。

経済的に繁栄した国(近年は落ち目であっても)であることや日本ブランドの優れたクルマや家電製品などはいいなぁ、という程度の認知で、韓国や中国の人々のように、日本の良い面、そうでない面を相当程度知ったうえでのこととは、まったく次元が異なるのだ。

ちょうどトルコにおける『親日』感情と同じようなものだろう。紀伊半島沖で難破したエルトゥールル号の救出という歴史上の出来事、宿敵ロシアに戦争で勝ったというような遠い過去の出来事がよく挙げられる。そんな程度のものだ。

そんな中で、カルカッタやその周辺地域では、インテリ層年配者の間で日本式の菊などの盆栽がなかなか盛んである。戦後日本の復興期に製鉄や造船などに注力していた時代に大量の石炭を輸出した仕事の縁で日本に知己の多い老人、当時の貧しかった日本に将来を託して渡った留学生など、日本と深い繋がりを持ったことがある年配者がけっこういる。

彼らの時代には、戦前のスバーシュ・チャンドラ・ボースやカレーの中村屋の始祖となったラース・ビハーリー・ボースといったベンガル出身で、日本と近しかった民族主義者や革命家の記憶が新しかったのかもしれないが、年配の知日家を目にすることが少なくないコールカーターだ。

ここで敢えて『親日』ではなく、『知日』としたのは理由がある。
ご存知のとおり、韓国や中国には知日家は実に多い。日本への造詣が深いがゆえに、日本の良いところも知る反面、そうではない部分もよく知っている。
ゆえに知日家ながらも対日(政府への)感情は良くないということは珍しいことではない。

コールカーターの知日家について、日本についてどのように感じているのかはよく知らないが、親日・反日という感情については、まず日本のことについて、相当程度の知識なり経験があってのものであろうと私は思う。

そうした意味から、一般的にインドにおいては、それらのどちらでもない、ごくニュートラルなものであると言えるだろう。

アルメニア人教会のクリスマスイブ

アルメニア教会

世界に散在するアルメニア教会では、クリスマスを1月6日に祝う。クリスマスイブに当たる1月5日の夕刻に、コールカーターのOld China Bazar Streetにあるアルメニア教会を訪れてみた。

ここは細い路地の両側には、主に紙製品等を扱う商店、卸問屋などがぎっしりと並び、路上でも荷解きや卸先への発送準備などをしており人通りも多い。真っすぐ進むこともままならない物凄い混雑だ。大変密度の濃い商業空間から、突然姿を覗かせるインドらしからぬいでたちの建物がアルメニア教会だ。

建物内部やミサの様子の写真を撮ることは許されないため、その様子を画像で紹介することは出来ない。だが荘厳な衣装を身にまといミサを執り行う司祭も正装して集う数十名の信者たちも欧州人にしか見えない風貌と肌の色をした人たちだ。カルカッタにいることをつい忘れてしまいそうだった。

インドにおけるアルメニア人居住の歴史は、7世紀あたりから始まるようだが、コールカーターにおいては、17世紀にイギリスによってこの街が築かれてからということになるため、外地からここへの移民史もそれ以降に始まったことになる。この街における彼らの伝統的な居住地は白人地区と隣接したエリアで、ちょうどユダヤ人や華人たちのそれと重なる。

ユダヤ人と同様、植民地を支配する英国の買弁としての商売に従事した人たちが多かったため、後ろ盾であり最大の顧客を失うことに繋がったインド独立に際して、大半がインドを去っている。

インド独立時のカラー映像

ネルー、サルダール・パテール、マウントバッテン総督など、当時の要人の姿をカラー映像で見るのは新鮮な思いがするが、動画半ばで出てくる印パ両国からの難民の姿に、カラーであるがゆえの強烈な現実感をおぼえる。
動画には出てこないけれども、独立のほぼひと月前に、当初の予定ではアッサム地方の一部としてインドに残るはずであったのに、かなり唐突に決まった住民投票で東パキスタン(現バングラデシュ)に帰属することになってしまったシレット(・・・と日本語で表記されるけど、本来はシルハトあるいはスィルハトとすべき)では、相当な混乱があったことと思う。
印パ分離の悲劇については、両国の人々の間で広く共有されている体験だが、英国統治の前に統一インドが存在したことは一度もなく、英国による統一がなければ、現在の形でひとつにまとまったインドが実現することは、おそらくなかったであろうという歴史の皮肉を思ったりもする。

1947 Indian Independence rare color video clip (Youtube)

シャクンタラー鉄道 インドに今も残る「私鉄」区間

インドで植民地時代に建設された鉄道網の中で、唯一現在も「私鉄」となっている区間がマハーラーシュトラ州にあるのだそうだ。

インド独立とともに、各地に存在した鉄道会社は国有化され、「インド国鉄」に統合されたが、なぜかこの区間だけは民間所有のままで残ってしまったらしい。

これは、シャクンタラー鉄道と呼ばれているメーターゲージの区間で、かつてはもっと長大な鉄道ネットワークを運営していたCPRC (Central Provinces Railway Company Ltd)という、1910年創業の歴史的な鉄道会社が現在も所有しており、この区間にインド国鉄が列車乗り入れて運行させているという具合らしい。よって、これを「私鉄」というのはどうか?という気がしないではないが、民間の路線に国有鉄道が乗り入れる形になっている点で、非常にユニークである。

Central Provincesとは、植民地後期のインドにおいて、周囲を複数の藩王国に囲まれたインド中央部の英領直轄地域のことで、このあたりで生産される綿花を輸出するため、この地域に鉄道を敷設したのがCPRCだが、その後まもなく旅客輸送も始めている。

なお、このCPRCはインド独立後は経営が現地化されており、「イギリス企業」という訳ではない。

The little known story about Shakuntala Railway (rediff BUSINESS)

シャクンタラー鉄道のルート