ストリートの名前

インドの都市では、植民地時代に付けられたストリートの名前が独立間もないころにいろいろ変更となったが、その後もしばしば、各州において地元政権の都合で変更されたりもしていた。独立後、すでに改名されたのに、更に重ねて変更されたものも少なくない。
ずいぶん昔に名称が変更されたにもかかわらず、いまだに植民地時代の名前が、ごく当たり前に通用している通りもあれば、新しい名前でのみ広く知られているものもある。

とりわけその濫用ぶりが甚だしいのがコールカーターだろう。その意味で、地図に記されているストリート名が、あまりアテにならなかったりする。インド人で、地元アクセントでベンガル語を話すことができても、通りの名前を挙げるときに、それを間違えると、「あんた、この街の者じゃないね」とバレてしまうことだろう。

都会は奥が深い。

オートやタクシー運転手は、たいてい地元の人ではない。たいていは、ヨソの土地(主にUP州やビハール州)からの出稼ぎであるが、新人時代には市内のルート(加えてとても多い一方通行、加えて午前と午後で進行できる方向が反転する道路も多々ある)を覚える(カーナビなんかないし・・・)だけでなく、実際に口語で使われる名称が新旧どちらかを知らないといけないから大変だ、きっと。

カルカッタにやってきて20年というベテラン運転手でも、お客がベンガル語でややこしいことをしゃべると、『旦那、ヒンディー語でお願いできへんか?』と言う人は少なくないようだが、そのあたりだけはしっかりしている。実際に通用している名称のほうをしっかり覚えているからだ。

すると、私みたいな旅行者が地図で見て知った通りの名前を出すと、「それ、どこやねん?」となることから、『これは古い名前で呼ばれる通りなのか!』と分かったりする。

運転手だけではなく、とかく人口の流入や移動が多く、新参者も多数暮らしている大都会だが、それでも『地図に書いてあるとおりとは限らない、人々が実際に使っているストリート名』が、ちゃんと継承されていくのが興味深い。

都会は面白い。

Street Name Change (calcuttaweb.com)

テーングラーのチャイナタウンへ

カルカッタ東部にあるテーングラー地区はチャイナタウン。中華料理屋がいくつもあることで知られているが、ここの大きな産業は、革なめし工場と醤油等の中華食材工場など。
周囲をムスリム地区に囲まれて、雇用主は華人、被雇用者はムスリムという協働関係にある。

だいぶ前に、コールカーターで中華三昧 3 インド中華料理の総本山テーングラーで取り上げたことがあるこのエリアを再訪してみた。
数年前に訪れたときにはまだ機能していた培梅学校で、これについてもコールカーターで中華三昧 4 テーングラーの華人学校で、その様子を記したことがあるのだが、今回訪れてみると、すでに学校としての役割は終えていた。華人人口が減っているのと、やはりイングリッシュ・ミディアムの学校へ行くようになっているのだとか。そんなことを、敷地内で日向ぼっこしているおばあさんが親切に話してくれる。

時代とともに、コミュニティのありかたというものは移ろうものだ。華文学校がなくなることにより、若い世代の間で中国語を理解する人たちがかなり極端に先細りとなっていることは、想像に難くない。

閉鎖された学校の名前は「培梅中学」という。コールカーター華人のマジョリティは客家人、それに次ぐのが広東人だが、実はどちらも広東省の梅県出身者(現在の梅州市の一部)が多数を占めている。
「培梅」とは、先祖が梅県から渡ってきた子供たちを培うという意味で付けられたのではないか?と思うのだが、テーングラーを訪れて人々と話しているときに、すっかり失念しており尋ねていない。

実は、ミャンマーのヤンゴン界隈に居住している華人たちも、多くは客家人、それに加えて広東人。往々にして梅県出身者の子孫という点で共通しており、コールカーターに渡ってきた華人たちと、共通項が多いのが興味深い。

華人の商工組合
こちらはコミュニティ施設のようだ。
醤油工場
皮なめし工場
こちらも皮なめし工場
これまた皮なめし工場
祈祷施設もある。
閉校となった華文学校「培梅中学」
閉校となった華文学校「培梅中学」
華人墓地入口
華人墓地
華人墓地
華人墓地

華人墓地

欧州飯店再考

旧中華街(現在、ほとんど華人はいなくなっているので、『旧中華街』とする)を散歩した。
一見、欧州人のような風貌と肌をしながらもインド弁の英語でしゃべるご年配男性としばらく話をした。アングロ・インディアンかと思いきや、父親は英国人、母親は広東人とのことで、アングロ・チャイニーズであった。こうした人の話を聞けるのも、メトロポリタンなコールカーターらしいところだ。

中華街から少し南へ歩いたところのガネーシュ・チャーンドラ・アヴェニューにある「欧州飯店」へ。ここは、カルカッタに現存する最古の中華料理屋とされる。「欧州」という名前ながらも、ここは中華料理店。ここよりも古くからやっていた料理屋はあるのだが、廃業したり、他国に移住(移住先の大半はカナダで、なぜかトロントとその近郊に集中している)するため店を閉めたりなどで、ここが現存する最古の中華料理屋となっている。

客家人家族による経営。創業は1920年代初頭なので、もうすぐ100年となる。代々守り続けてきたレシピは門外不出の家訓があるそうで、地元の人を雇っても、決して厨房に立たせることはないという。メニューについては、インドのグルメサイトzomatoでも紹介されているが、華人経営の他店と同じようなラインナップだ。

味わいはというと、グレイビーが多いインド中華スタイルを踏襲しているが、とてもマイルドかつ甘めの味付けで、一般的なインド人の好みではないように思われる。旧中華街あるいはコールカーター東郊外のテーングラーにある華人経営の店が出す料理とも、甘味の積極的な使用という意味で、明らかに趣向が異なるようだ。他地域のそれらの店の多くでは、ムスリムを雇用していたり、ムスリム地区あるいはそれと隣接するロケーションであったりすることなどから、豚肉類は出していない店がほとんどだが、ここではそれらが豊富なのも特徴のひとつだ。以前、欧州飯店 in Kolkataと題してこの店を取り上げてみたことがあり、その後も幾度か訪れているが、ここで食事をする度に、「他店とずいぶん違う」ということを感じる。

インドのメディアによるこの店について書かれた記事には「Authenticな中華料理」と評されていることが多いが、この街に現存する最古の中華料理屋ということは、おそらく全インドでも最も古くからある店ということになるであろうことに加えて、それらを記した記者たちが「インドで馴染んだ中華料理」の味とはかなり異なることから、「これが本来の中華料理なのだろう」という思い込みがあるのだろう。実際のところ、この店の味はAuthenticなものではなく、Europianizedされた中華料理であり、「欧州飯店」独自のものだ。

植民地期のカルカッタの白人地区がすぐ近くで、在住の欧州系の人たちが主要な顧客であったというだけあり、「中華料理欧州風味」がこの店伝来の持ち味で、ゆえに屋号も「欧州飯店」ということなのかもしれない。

かなり荒れた建物の中にあるが、店内は明るく清潔なのでご心配なく。

「欧州飯店」店内

The Cha Project

いろいろ調べてみると、大いに楽しいカルカッタの旧チャイナタウンだが、それと知らずに通りかかっても、そこが華人が集住していたエリアであると気が付く人はあまりいないのかもしれない。
あくまでも「旧チャイナタウン」であり、現在は基本的にムスリム地区。華人の姿はほとんど見かけないからだ。
サダルストリートの東端に面した消防署前で交差するフリースクール・ストリートのほうが、華人経営の食堂、靴屋、電髪屋等々を見かけるくらいだ。
ただし旧チャイナタウンでは、よくよく眺めてみると、路地裏に華人の古ぼけた同郷会館があったり、いくつかの中国寺院が存在していたりするし、チャッターワーラー・ガリーと呼ばれる小路には、いくつもの華人たちの住居が見えるし、華人の子供たちが地元のムスリムの子供たちとクリケットに興じていたりもする。それでも、どこかで混血しているケースが多いこともあり、西ベンガル州のダージリンあたりから来た家族の子かな?という風に見えたりもする。
それほど華人の存在感の薄い「旧チャイナタウン」だが、もうだいぶ前から「The Cha Project」というのが活動しており、この地区の華人たちのヘリテージの復興を目指して奮闘中。これにはシンガポール華人その他も協力している。
その歩みはゆっくりとしたものだが、数年程度の長いスパンで眺めると、その進展には、なかなか興味深いものがあるかもしれない。

The Cha Project

コールカーター旧中華街点描

かつては相当規模の華人人口を抱えていたこの街だが、1962年に中印紛争が勃発して以降、インド政府から「敵性国人」とのレッテルを貼られて、強制収容所に送られたり、公安による監視対象となるなどしたことから、海外(主にカナダ、とりわけトロント周辺)へ流出したことから、その数を大幅に減らして現在に至っている。
そのため、旧中華街においても、毎朝開かれる中華朝市の時間帯を除いては、華人たちの存在が感じられるムードには乏しく、地域住民の大半はムスリムなので、ごくわずかにある華人経営の店も目立たないので、そうと言われなければ気が付かずに通過してしまう人も多いだろう。
そんな中でも、かつての華人たちの存在と繁栄を感じさせる名残りには事欠かないのがこの地域らしいところだ。