Rabindra Bharati Museum

市内中心地にあるRabindra Barati Museumを訪れた。Rabindra Bharati Universityの付属施設で、この大学のすぐ隣にある。

カルカッタやその近郊には見事なラージバーリー(領主の館)があるが、こうしたかつての大土地所有者(ザミーンダール)のラージバーリーないしはタークルバーリーの大半は、もう顧みられることなく荒れ放題であったり、中を細分化して賃貸に出していたりする。
博物館内ではタゴールの詩以外にも絵画その他の創作活動、日本や中国との親交や欧米の知識人たちとの往来等に関する展示もあり、見応えがあった。

それぞれの生年・没年を記した家系図の大きなパネルもあった。一族の中では、幼くして亡くなったり、30代、40代で早世してしまった人が多いことに気が付くが、タゴール家が短命なわけではなく、そういう時代だったのだろう。

ちなみに19世紀までは、英国から渡ってきた人たちの平均寿命がわずか7〜8年だかなんだか(数字はうろ覚えなので誤りがあるかもしれない)と書かれたものを目にした記憶がある。まだ病理学が充分に発達する前で、はるばる英国から渡ってきた人たちは、往々にして赤痢、マラリア、コレラなどに倒れたらしい。

カルカッタのサウスパークストリート墓地(植民地期の英国人墓地)の墓標を眺めてみると、最高裁判所の裁判官、行政官といった支配層の人たちが、30代後半や40歳を少し越えたあたりでなくなっていたり、高級官僚一家が半月ほどで、次々に亡くなっていたりすることがわかったりする。後者は明らかに何かしらの伝染病によるものだろう。

植民地支配層の英国人の墓石には、出生地、生前の肩書、没した年月日などが記されていることが多く、死の背景をある程度推測することが可能な場合もある。英国から渡ってきた特権階級の富裕層でさえこうした具合なのだから、インドの庶民の場合はどんな風だったのだろうか。

そんなわけで、なかなか往時さながらの姿を目にする機会はなかったりするのだが、ここはそうした生まれ育ちの詩聖ラビンドラナート・タゴールを記念する博物館として公開されており、展示物もさることながら、見事な屋敷を堪能出来るのもありがたい。

言うまでもなく、ラビンドラナートは、アジア人で最初のノーベル賞受賞者だが、詩だけではなく、絵画や音楽等々、多岐に渡る才能を発揮した人物だが、シャンティニケタンにあるヴィシュワバーラティー大学を創設したことでも広く知られる。

現在の西ベンガル州だけではなくバングラデシュでも土地を初有していたため、タゴール家ゆかりの館は国境の両側を跨いでいくつもある。この屋敷以外にも、実は旅行者ゾーンのサダルストリートにもタゴール家の屋敷が存在していたことがある。ラビンドラナートがそこに起居して詩作にいそしんだ時期があったそうだ。もう今は残っていないが、10, Sudder Streetがその場所。現在は安宿、旅行代理店、両替屋が入る汚い建物がある。

ラビンドラナート・タゴールの詩は、ギクシャクした訳文で読んだことはあるが、その良さはよくわからなかった。原語のベンガル語が判れば、きっとその素晴らしさが堪能出来るのだろうと思う。

グレート・イースタン・ホテル復活

The Lalit Great Eastern Hotel

シンガポールにラッフルズあれば、カルカッタにはグレート・イースタン。1950年代末だか1960年代初頭だかには、訪印したエリザベス女王の食事会も開催されたほどのホテルだ。

1970年代以降は、共産党州政権のもとで、州営ホテルとなってからは大きく格を下げ、2000年代に入り、ムンバイを本拠地とするホテルグループ、The Lalit Hotelsに売却される直前は、なんと1500Rs程度で宿泊出来るまでに転落。

今から10年ほど前に、グレート・イースタン・ホテルと題して、この宿泊施設を取り上げてみたことがある。

売却後、2005年から長らく工事のため休業していたが、2013年から再び高級ホテルとして開業して現在に至っている。

THE LALIT GREAT EASTERN KOLKATA HOTEL

インディアン・コーヒーハウス

コールカーターのカレッジストリートで書籍漁りをした帰りに、インディアン・コーヒーハウスに立ち寄ってひと休み。数々の文化人たちや一般社会の人々たちはもちろん、幾多の革命家たちからも世代を継いで愛されてきた、アジアきっての名門カフェだ。
コーヒーやお茶はもちろんのこと、けっこうちゃんとした食事も楽しむことができる。
常に多くの人々が出入りし、賑やかな会話が各テーブルから聞こえてきて、どこからかタバコの煙がゆっくりと流れてくる。
近ごろ流行りの洒落たカフェにはない重厚さがなんとも素晴らしい。

Indian Coffee House (zomato.com)

コールカーターの街

英領期の壮麗な建築物が今もふんだんに残るコールカーター

文化人類学者の中根千枝氏が、戦後間もない頃に自身のコールカーター等に滞在している。彼女が何かで書いていたが、当時目にしたコールカーターの印象は、今の時代の私たちが感じるものとは相当異なるものであったようだ。

壮麗な建築物が整然と建ち並び、当時としては非常に良く整備された都市インフラと行き届いた給電があり、中には空調設備が整った施設もあったという。色濃く残っていた英国式マナーと文化的なたたずまい等々に感銘したらしい。インド独立直後のカルカッタは、まだ『先進的な欧州の街』であったのだ。

分離独立時の東パーキスターンからの難民流入に加えて、その東パーキスターンが西パーキスターンが相手の独立戦争を経て、バーングラーデーシュとして再度独立を果たすに至っては、さらに大きな規模の難民が雪崩を打って流れ込む中で、街中の様子が大きく変わったとも聞く。

その少し前から始まった基幹産業や銀行などの国有化政策により、大きく左寄りとなった中央政府のスタンスにより、90年代に入るまでは長く停滞が続いたインド経済だが、とりわけ西ベンガル州においては、70年代に共産党が政権に就いてから(2011年の州議会選挙で負けて野党に転じる)は、カルカッタの街は右肩下がりの低迷を続けた。

知の都コールカーターを擁する西ベンガルは、インドを代表する『革命の都』であったことから、様々な左翼活動家を輩出し、今も労働組合活動が大変盛んな土地柄だが、暴力的な極左勢力マオイスト(西ベンガルのナクサルバーリーで決起したことから、ナクサライトとも呼ばれる)が活動を始めたのも西ベンガル。

当時のカルカッタ大学にも、これに共鳴するシンパは多かったとのことで、英領期から続く名門大学の学生がかなりの規模で行方不明(警察による検挙)となった過去がある。初期のナクサライトを指揮したマーズムダールはベンガルひとながらもカルカッタ大学出身ではなく、デリー大学の卒業生だが。

カレッジストリートにあるインディアン・コーヒーハウスも、そうした若き革命家たちも出入りして、闊達に議論を戦わせる場所でもあった。
コールカーターでは、現在もユニオンや左翼政党による戦闘的なラリーが開かれたりポスターが貼られたりしており、今も革命の都の面影が感じられたりする。

インディアン・コーヒーハウス
インド共産党(マルクス主義派)の街角集会