Sri Mariamman Temple

バンコクのシーロムにある有名な南インド系寺院。またの名をワット・ケーク(インド寺)。1860年代にタミル系の人たちによって建てられたもの。

ヒンドゥー教の裾野と仏教のそれは重なる部分があり、テラワダ仏教のタイだが、信仰の周縁部には、ヒンドゥーの神々の存在感もあることから、タイ人の参拝者でごった返している。
この界隈には神具屋が多い。

その中のひとつに入ってみると、インド人のお爺さんがおり、9年前からここで働いているという。立派な風采なので、てっきり店主かと思ったが、タイ人オーナーが経営する店で、彼は雇われているだけのようだ。名前からしてブラフマンなので、いかにも神具屋にはピッタリという感じだ。

UP州のゴーラクプルから来ているとのことで、バンコクでは近くにある北インド系寺院に起居しているそうだ。何代も続くインド系社会というインフラがあるので、こうした新規の移民が定着する隙間というか、懐の深さがあるのだろう。

どういうヴィザで来ていて、月にいくら位稼いでいるのか、ちょっと関心のあるところだが、まさか初対面の人にそんなことを尋ねるのは気が引ける。

インド人は、けっこうそんなことを外国人にズケズケと質問してくるのだが・・・。

インド系商業ビルの外で

バンコクのインド人街、パフラット地区にあるグルドワラ・スリ・グルー・スィン・サバーのインディア・エンポリアムという商業雑居ビルのすぐ外に、こんな立て札があった。
マナーの悪い新参者のインド人が多いのだろうか。
『ツバ、タン吐き禁止だぞ。捕まったら罰金500バーツ、いいかぁ?』というような、簡単な注意書きで間違いがあるくらいなので、これを書いたのはバンコク生まれのインド系の人かもしれない。
界隈には、複数世代に渡り長くタイに在住してきたインド系タイ人、近年インド本土からやってきた人、ネパール人、隣国ミャンマー在住のネパール系の人などが多く出入りしており、インド料理の店、ミターイーの店、神具屋にインド衣類の店なども集中している。このあたりのインド系の人たちの人口は、そこそこの規模がありそうだ。
ふだんは乗換えで立ち寄る程度のバンコクだが、いろいろ調べてみると興味深そうに思える。

旗の高さを競った末に

舞台はラージャスターン州のジョードプル。あるムスリム男性がイスラーム教を象徴する緑色の旗を立てたところ、これに対抗して隣家のヒンドゥーのブラーフマン男性も自らの宗教のカラーであるサフラン色の旗を立てる。
両者は旗の高さを競い、周囲の人たちの注目を集める中、これが次第にエスカレートしていき、ムスリムとヒンドゥー、それぞれのコミュニティの人たちを巻き込んで、ついにはどちらも大きな旗を仕立てて、巨大な竿で両家の屋上に掲げようとするに至る。
彼らが、それぞれの帰属を象徴する旗を渾身の力で立ててみせると、風にはためくサフラン緑の旗の有様は、その間から垣間見える空の雲の色と合わせて、なんとインド国旗となって、円満に一件落着というオチ。
導入部分といい、クライマックスに至るまでの描写とスピード感といい、最後のどんでん返しまで、非常に良く出来た作品だ。
しかしながら、やはり最終的に手打ちとなるのは、あくまでも緑(ムスリム)の旗が下の位置にあり、ヒンドゥーを象徴するサフランが至上というのがミソ。
モーディー人気の中、BJPがますます影響力を増している世相を反映していると見ることもできる。

Aameen Jodhpur (facebook)

ゴアの郵便

Basilica of Bom Jesus
Basilica of Bom Jesus内部

オールド・ゴアのBasilica of Bom Jesusに併設されている博物館を訪れた。ここで植民地時代の遺物や歴代の総督や要人の絵とともに、ポルトガル領時代の郵便に関する展示があり、なかなか興味深かった。
ゴアとポルトガル間での郵便の往来は1510年に開始されたそうだ。所用6ヶ月ほどで、喜望峰経由の運搬。海賊被害や海難事故により、届かないことも多かったのだとか。
また1798年3月23日から(日付もきちんと記録されているのはさすが西洋の国)は、ゴア、ボンベイ、ダマン、ディーウ(ここまでは当時のポルトガル領インド。ボンベイは、1961年にポルトガルのカタリーナ王女が英国王室に輿入れの際、イギリスに割譲)、スーラト(現在のグジャラートの港町。ここにポルトガルの東インド会社商館があった。ポルトガルからイギリスに割譲されてからボンベイが急成長することにより衰退) 、モザンビーク、そしてポルトガル本国のリスボンとの間での郵便が開通。
しかしながらこれは政府間の書簡の往来のためでありも民間人が利用できるようになるまではその後1世紀近くかかったらしい。
また、英領インドとの間では1822年から始まったらしい。そのいっぽうで、ゴアの地域間での郵便の往来は、1843年から開始されたというから、これはずいぶん遅く感じられる、ポルトガル領インドの通信史というテーマも面白そうで興味をかきたてられる。

ゴア・ポルトガル間の郵便往来が始まった1510年当時、ここに暮らす大半の人たちにとって、リスボンはまるで宇宙の彼方のようなものであったことだろう。

マプサのマーケットにて

タイ産のドラゴンフルーツ

ドラゴンフルーツが売られているので、産地を尋ねてみると、やはりタイからの輸入。地元の人たちからのウケが良ければ、このあたりの沿岸部で栽培される日もくるかもしれない。

話は違うが、インドのこのあたりでは、ドリアンの野生種が自生している地域があるものの食用にはされず。インド人が関心を示さないがゆえに、商業作物にはならないわけだが、何かの弾みで広く浸透することもあるかもしれない。

インドの人たちの間で、茶を飲む習慣が一般化したのは1920年代後半から1930年代にかけて。最初は中国の清朝の専売品であった茶の葉がインドで栽培出来るようになった当初は欧州向けの利ざやが大きな商品だったものの、栽培技術の進化と普及により、収穫が増えるだけでなく、マレーシアやケニアなどで生産された茶の葉が国際的に出回るようになり、在庫がダブつくことになった。

その結果、インド紅茶局は、当時3億人規模の人口を有していたインドをマーケットに取り込むことを画策し、全国で『お茶を飲みましょう』というキャンペーンを打ったことがそもそもの始まりだ。

それまでまったく馴染みがなくても、きっかけ次第でそれがガラリと変わることもある。ミャンマーからマレー半島にかけてインド系の住民が多いが、その中にフツーにドリアン好きが大勢いる。決して、インド人の好みに合わないというわけでもなさそうだ。

しかしドリアン。植物の実ではあるのだが、極めて官能的な味わいと動物性原材料が含まれているかのような食感は「ノンヴェジ」ではないかというのが、私の個人的な見解。

有名なマプサのマーケットは実に広大

魚の乾物類いろいろ
スパイスの類も品揃え豊富

各種ナッツ類の専門店

ちょっと奇怪な形のヒンドゥー寺院があった。