旗の高さを競った末に

舞台はラージャスターン州のジョードプル。あるムスリム男性がイスラーム教を象徴する緑色の旗を立てたところ、これに対抗して隣家のヒンドゥーのブラーフマン男性も自らの宗教のカラーであるサフラン色の旗を立てる。
両者は旗の高さを競い、周囲の人たちの注目を集める中、これが次第にエスカレートしていき、ムスリムとヒンドゥー、それぞれのコミュニティの人たちを巻き込んで、ついにはどちらも大きな旗を仕立てて、巨大な竿で両家の屋上に掲げようとするに至る。
彼らが、それぞれの帰属を象徴する旗を渾身の力で立ててみせると、風にはためくサフラン緑の旗の有様は、その間から垣間見える空の雲の色と合わせて、なんとインド国旗となって、円満に一件落着というオチ。
導入部分といい、クライマックスに至るまでの描写とスピード感といい、最後のどんでん返しまで、非常に良く出来た作品だ。
しかしながら、やはり最終的に手打ちとなるのは、あくまでも緑(ムスリム)の旗が下の位置にあり、ヒンドゥーを象徴するサフランが至上というのがミソ。
モーディー人気の中、BJPがますます影響力を増している世相を反映していると見ることもできる。

Aameen Jodhpur (facebook)

ゴアの郵便

Basilica of Bom Jesus
Basilica of Bom Jesus内部

オールド・ゴアのBasilica of Bom Jesusに併設されている博物館を訪れた。ここで植民地時代の遺物や歴代の総督や要人の絵とともに、ポルトガル領時代の郵便に関する展示があり、なかなか興味深かった。
ゴアとポルトガル間での郵便の往来は1510年に開始されたそうだ。所用6ヶ月ほどで、喜望峰経由の運搬。海賊被害や海難事故により、届かないことも多かったのだとか。
また1798年3月23日から(日付もきちんと記録されているのはさすが西洋の国)は、ゴア、ボンベイ、ダマン、ディーウ(ここまでは当時のポルトガル領インド。ボンベイは、1961年にポルトガルのカタリーナ王女が英国王室に輿入れの際、イギリスに割譲)、スーラト(現在のグジャラートの港町。ここにポルトガルの東インド会社商館があった。ポルトガルからイギリスに割譲されてからボンベイが急成長することにより衰退) 、モザンビーク、そしてポルトガル本国のリスボンとの間での郵便が開通。
しかしながらこれは政府間の書簡の往来のためでありも民間人が利用できるようになるまではその後1世紀近くかかったらしい。
また、英領インドとの間では1822年から始まったらしい。そのいっぽうで、ゴアの地域間での郵便の往来は、1843年から開始されたというから、これはずいぶん遅く感じられる、ポルトガル領インドの通信史というテーマも面白そうで興味をかきたてられる。

ゴア・ポルトガル間の郵便往来が始まった1510年当時、ここに暮らす大半の人たちにとって、リスボンはまるで宇宙の彼方のようなものであったことだろう。

マプサのマーケットにて

タイ産のドラゴンフルーツ

ドラゴンフルーツが売られているので、産地を尋ねてみると、やはりタイからの輸入。地元の人たちからのウケが良ければ、このあたりの沿岸部で栽培される日もくるかもしれない。

話は違うが、インドのこのあたりでは、ドリアンの野生種が自生している地域があるものの食用にはされず。インド人が関心を示さないがゆえに、商業作物にはならないわけだが、何かの弾みで広く浸透することもあるかもしれない。

インドの人たちの間で、茶を飲む習慣が一般化したのは1920年代後半から1930年代にかけて。最初は中国の清朝の専売品であった茶の葉がインドで栽培出来るようになった当初は欧州向けの利ざやが大きな商品だったものの、栽培技術の進化と普及により、収穫が増えるだけでなく、マレーシアやケニアなどで生産された茶の葉が国際的に出回るようになり、在庫がダブつくことになった。

その結果、インド紅茶局は、当時3億人規模の人口を有していたインドをマーケットに取り込むことを画策し、全国で『お茶を飲みましょう』というキャンペーンを打ったことがそもそもの始まりだ。

それまでまったく馴染みがなくても、きっかけ次第でそれがガラリと変わることもある。ミャンマーからマレー半島にかけてインド系の住民が多いが、その中にフツーにドリアン好きが大勢いる。決して、インド人の好みに合わないというわけでもなさそうだ。

しかしドリアン。植物の実ではあるのだが、極めて官能的な味わいと動物性原材料が含まれているかのような食感は「ノンヴェジ」ではないかというのが、私の個人的な見解。

有名なマプサのマーケットは実に広大

魚の乾物類いろいろ
スパイスの類も品揃え豊富

各種ナッツ類の専門店

ちょっと奇怪な形のヒンドゥー寺院があった。

「THE LAST ANGLO-INDIANS」という本

アマゾンのKindle版で読んでみた。アングロ・インディアン全般について書かれたものではなく、著者の祖父母、母のインドでの生活の日々から、母親が南米出身の船乗りと結婚して1960年代に米国に移住するまで、19世紀終わりから21世紀に入るまでを淡々と綴った3代に渡る家族史。

インドでは中産階級に位置する家庭だが、一家やその一族は、電報局や鉄道勤務だったり、軍人だったりと、いかにもアングロ・インディアン的な勤め人世帯。

著者が語るに、アングロ・インディアンたちは、土地や家屋を所有せず、多くはアングロ・インディアンたちが多い地域で借家暮らしであったということだが、こうした層の人たちは、多くが転勤族であったことによるのではないかと想像する。アングロ・インディアンの商人層には、これとはまた異なるライフスタイルがあったことだろう。

勤務先での出世といっても、要のポジションに配置されているのは、本国からやってきた英国人。英国系とはいえども、インド生まれの人たちはローカルスタッフの扱いであったようだ。英国もインドも階級社会だが、アングロ・インディアンの中でも、生業や出自、業種や経済状況などにより、いろんなクラスがあったらしい。

1929年から1933年にかけての大恐慌の時代には、インドもひどいとばっちりを受けているが、現地在住のアングロ・インディアンも失業して、文字通り家族で路頭に迷う者も少なくなかったのだそうだ。英国系ということで支配層に比較的近いところにいたとはいえ、やはりそのあたりは、文字通りの勤め人なので、極端な不景気に見舞われると大変である。

家庭料理には、ふんだんにインドらしいメニュー(英国テイストを含んだ)が並び、そのレシピもいくつか紹介されていた。今度、料理してみようかと思う。

一般のインド人家庭よりは、恵まれた環境にあったようだが、それでも10代の反抗期には、グレてしまったり、勉強嫌いで学校からドロップアウトして、家族から離れてしまう者もあったりと、日本で暮らす私たちの家の中で起きることと、同じようなことが書かれている。

ただ、衛生状態や医療水準は今とは違うので、著者の母親は幼い頃、チフスで危うく命を落としかけたようだが、その時代には裕福だったアングロ・インディアンの家庭でも、生まれた子供たちがみんな元気に育つということはなかったらしい。

Kindle読み放題を利用したが、単体で購入しても570円。コスパの高い、英領末期前後のアングロ・インディアンに関する書籍である。

ゴアンな料理2

デザートのベビンカを食べ終えてから、付近の別の店に入り、ゴア料理アイテムのひとつ、サクティーを注文。こちらはチキンのものにした。やはりゴアにいるときには、個性的なゴア料理を楽しみたい。

その後、再び場所を移して、ポルトガル風家屋を転用したレストランで、ポーク・バルチャオ、カリフラワーの炒め物、ライスはウグラーというゴアの赤米を注文。粒が大ぶりで丸いもので、ケーララあたりでも近縁と思われる品種があるが、独特のコクがあって面白い。

食後にはカラメルプリン。使われている卵もカラメルソースも濃厚。香り高く、天にも昇るような陶酔感で本日の食事はシメとなる。

帰り道、ホテル近くに酒場があったので立ち寄ってみる。ビールのツマミにゴアンソーセージ。かなり酸味と塩味が強いゴアのソーセージのぶつ切りと野菜を一緒に炒めたものが出てくる。今度はビールによる軽い陶酔感で、心地よいゴアの夜は更けていく。