デリーからレーへのフライト

早朝5時前に、枕元でけたたましく鳴るアラーム音で目が覚めた。スマートフォンを使うようになって久しいが、これのおかげで不要となったものは多い。目覚まし時計、メモ帳、システム手帳、音楽プレーヤー等々。中には「カメラも要らなくなった」という人も少なくないかもしれないが、写真についてはいろいろこだわりがあるので、私はそこまで割り切ることはできない。
昨日予約しておいたタクシーで空港へ。日曜日早朝ということもあり、道路はガラガラで実に快適だ。飛行機はターミナル1Dから出る。数年前から操業している新しい空港ビルだが、それ以前の古いターミナルの時代の頃の混雑ぶりなどまるで遠い過去のこととなり、ゆったりとした気分で搭乗待ちできるのはいい。フードコートで注文したマサーラー・ドーサーをパクつきながら、空港でのヒマな時間は日記を書いたり、フェイスブックに投稿したりしながら過ごす。
インドでもスマートフォンの普及は著しい。少し前まではその類の携帯電話を持っているのは一見してエリート風の人たちであったが、今ではそうとは決して思えないような人もそんなので写真を撮ったりしている。一頃は圧倒的な人気だったブラックベリーはすっかり影を潜めてしまい、高級機といえばやはりアイフォーンかギャラクシーの上級機種のようだ。写真といえば、インドでも携帯電話やスマートフォン普及の関係で、日常的に写真撮影する機会が増えているのだろう。
フライトは定刻に出発した。雪山が連なる景色を見ることができることを期待して、窓側の席にしたのだが、そうではなかった。今年はモンスーンが派手に雨をヒマラヤ地域に降らせているためか、厚い雲に覆われている。それでも雲の切れ目から氷河の様子が伺えたりするのはさすが世界の屋根ヒマラヤだけのことはある。
雲が厚い
左下に見えるのは氷河
氷河の拡大写真
ようやくその雲が切れたかと思えば、まるで違う惑星のようなラダック地域に入っていた。どこまでも連なる水気のない、草木の存在感とは無縁の切り立った山々、水が流れて谷を形成したらしいにもかかわらず、水は流れていない。ごくわずかに水の流れが存在するところに緑があり、そこに人が生活していることがわかる。こうした景色はどこから始まり、どこで終わるのだろうか。
この山々の向こうはチベットか・・・?
荒涼とした景観の中でごくわずかに存在する緑。そこには水があり、人々の日々の営みがある証でもある。
こうした厳しい風景はヒマラヤ地域西部のムスリム居住地域にもあるが、寛容でゆったりとした自由闊達さが感じられるチベット仏教圏とは異なる。もしラダックがイスラーム化されていたら、人々の気質はかなり違うものとなっていたことだろう。もちろんラダック地域そのものがムスリム地域に隣接しているためもあり、居住しているムスリム人口は決して小さくはないのだが。
機体は次第に高度を下げて、空港近くに広がる軍のバラックの様子が目に入ってきた。

パンカム村への道4

朝5時過ぎに起床。その1時間ほど前に竹で編んだ壁から光が漏れているので、もう外は明るくなっているのかと思い、トーチを出して時計を見てみると、まだ4時前であった。

Kさんは午前3時半くらいにトイレに起きたそうだが、そのときには村の眺めが見えるくらい、月が煌々と照っていたのだそうだ。私が見た壁から漏れる光も月のものであったらしい。

午前5時過ぎのパンカム村に朝日が昇る。
パラウン族の仏教寺院

朝5時半に隣の仏教寺院に行くと、朝の勤行はすでに終わりの頃合いであった。この時間帯の気温は20度と涼しい。やはり高度が少しあるからだろう。海抜1,000mもないとは思うが。

朝食。一番手前はバニヤンの葉のスープ煮。こんなの初めて!

朝食は、卵焼き、ナスの煮物、昨日と同じ米とバナナの花のおこげ、そして特記すべきはバニヤンの葉のスープだ。バニヤンといっても大きくなるバニヤンとは少し種類が異なるものだそうだ。このあたりでは野菜、野草以外にも食用となる木の葉も多いようだ。食物繊維の摂取にはいいだろう。

泊めていただいた民家二階の寝室
村を出発

朝8時に村を出発。あとはほとんど下るだけである。昨日とは違うルートで、より緩やかな感じだ。このルートは雨季には使わないのだという。ところどころで川になってしまうからだそうだ。でもこのトレッキングを雨季に行なうのはかなり大変だろう。足元はぐじゃぐじゃになるし、ヒルも出るしで、苦痛を伴うこと必至だ。

東南アジアの川らしくないほど澄んでいる。

幾つかの川を渡る。簡素な橋もあれば、切り倒した木の幹を向こう岸に渡しただけのものもある。後者は浅瀬になっているから可能。イチジクの木もあり、実が落ちていたが、ここでは食用にはしないとのこと。割ってみても、においをかいでみても、間違いなくイチジクであった。日本のそれよりも固めで、外観はより赤いが。バニヤンの葉のような、まさか食用にするなどとは想像もつかないものが食卓で供されたかと思えば、我々にとっては当たり前の「果物」が食用にされないとは興味深い。

画像奥のほうでは、村の子供たちが水に飛び込んで遊んでいた。

川の水際の豊かな風景を楽しむ。子供たちが川にザブンと飛び込んで遊んでいる。増水期にはそうもいかないだろうが、この時期ならば小さい子供たちだけで戯れていても大丈夫だろう。日本の江戸時代の村の様子もこんな具合であったのではないだろうか。

このところ経済面で大いに注目されているミャンマー。最大の商都ヤンゴンはこれから大きな変化の波に揉まれていくことになるわけだが、こうした山間の村々もまた同様に、スタート地点があまりに低かっただけに、今後の変化の度合いは非常に大きなものとなることだろう。

だが気になるのは、多様な生活文化を持つ少数民族の人々が、これまで長く伝統的なライフスタイルを大切に世代を継いで継承してきたわけだが、その変化の大波の中でそうしたものが時代遅れで未開なものであるとして切り捨てられてしまうのではないかと、気になっている。

村のコミュニティの中の人々で、経済的にベターな暮らしを得ることができるようになった人々が出てくると、彼ら自身もまたそのような価値判断を持って、自らの民族の文化を軽んじるような方向に行くようなことがないことを願いたい。

スィーパウの町からパンカム村へは、日帰りも可能だ。朝5時過ぎか6時くらい出発して、少し早いペースで飛ばせば昼前には着くだろう。登りの傾斜もゆるやかなので途中キツイ場所もない。村でしばらく休憩してから午後1時くらいに出て、少々早足で下れば、スィーパウの町に日没までには到着できるだろう。

だがこのルートの醍醐味は、やはり村に宿泊することにある。そう遠からず、もっと奥の村へのルートも旅行者たちの間で知られるようになり、ミャンマーのこのあたりといえば、少数民族の村々を訪れるトレッキングが楽しいということが、内外に広く知られるようになるのも時間の問題ではないかと思う。

<完>

パンカム村への道3

パンカム村に到着。左手はパラウン族の仏教寺院の門

午後2時過ぎに、パラウン族が暮らすパンカム村に到着。本日宿泊する先の民家で昼食を出してもらう。米はもち米で、料理は菜食料理。西洋人の中には肉を嫌がるものがいるので、トレッカー相手には菜食にしているのだという。もちろん西洋人たちの間ではヴェジタリアンは決して珍しくないとはいえ、多くの場合は冷蔵保存施設などありもしない村という衛生上の理由、加えて目の前で鶏などが殺されるのを目にしたくないといったことなどが理由だろう。また民家側のほうとしてみても、やはり肉を出すのは高くつく。

昼食。手前は米とバナナの花の炒め物である。

出てきた昼食は、もち米、春雨のスープ、米とバナナの花の炒め物でおこげのようになったもの、ジャックフルーツの実の炒め物であった。魚醬は使われていないようで、何か発酵調味料が使用されているような気がする。ちょっと不思議な味わいだ。ちょっと洗練させれば面白い料理になるかもしれない。

村のたたずまいは、プラスチック製品とわずかながら電気が来ている(川での自家水力発電かどうかは知らない)があること、バイクを持っている家があること、人々の多くが中国製の洋服を着ていること、屋根がトタンであることを除けば、数百年前とほとんど変わらないのではないかと思う。今も料理の燃料は薪だし。それがゆえに森林伐採が進むということもあるかもしれない。

宿泊する家の隣は仏教寺院。木造の建物で、これまたそう言われないとお寺とは気が付かない。前にシャン州に来たときに、木造の仏教寺院が珍しく思えたが、実は村に来るとこういうのが普通にあることがわかる。村に来てこそ、その民族のオリジナルな文化の基層部分、根幹の部分に触れることができるともいえるだろう。

宿泊先の民家
村の中で最大級と思われる家屋

山間の村ではあるが、元々は馬を乗り回していたというパラウン族たちはバイクをよく利用している。どれも安価な中国製だが、これを用いることにより、行動できる半径が何倍にも伸びる。村からスィーパウまではバイクで一時間ほどで着くということなので、飴で道がグジャグジャになるモンスーン期を除けば、町の仕事に就いて、ここから通勤することだって不可能ではないだろう。町からその程度の距離であれば、今に道路が舗装される日も来るだろうし、四輪が乗り入れることができるようになる日も来るはずだ。

もちろんそういう時代になると、村の様子は大きく様変わりして、スィーパウの町角とあまり大差なくなっていることだろう。ここが少数民族の人々と出会うトレッキングの中継地として、観光客を多く呼び込むようになってくると、住民たちもパラウン族ばかりではなくなり、他の地域の人々、シャン族はもとより、ビルマ族、中華系、インド系の人たちも商機を求めて移住してくるということになるのではないだろうか。もとより商売にかけては、明らかにパラウン族よりもそうした人々のほうがノウハウも経験もある。

しばらくのんびりして過ごしてから、ウィン氏に午後4時半に村の北側を1時間ほど案内してもらった。このあたりはまだ森林が少し残っている。やはりこの丘陵地はどこも一面鬱蒼と茂ったジャングルであったのだろう。ここでも斜面には茶が栽培されているが、やはりちゃんと手入れされてはないようで、植え方も乱雑で、まばらに植えてある。

馬たちが草を食む姿もあった。パラウン族の人々がバイクに乗るようになる前に重宝していた日々の足である。

茶摘み歌が聞こえてくる谷間。ショボショボと生えている灌木のようなものは実は茶の木。

西側に開けた谷間に来ると、とても涼しくていい風が吹いている。遠くから茶摘み女の歌声が聞こえてきた。何を唄っているのか皆目見当もつかないが、その澄んだ声色に心奪われる。ぜひとも次代にも残してほしい村の風物だ。

村の遠景

村に戻り、すっかり日が暮れてきたあたりで、宿泊先の家で出された夕食は、よくわからない山菜やらいろいろあったが、特に印象的であったのはコンニャクだ。日本のそれよりももっと水分が多いようだ。これを炒めてある。それとナマスのようなものもある。昼食のときもそうであったが、火の通っていないものは遠慮しておく。これまた不思議な味で、正直なところあまり食欲は湧かないのだが、ここでしか食べることができない貴重な体験でもあるので、しっかりいただく。

夕食。コンニャクという食材はパラウン族にもあるとは少々驚いた。左の皿はコンニャク料理。

夕食時、そして夕食後には外で星を眺めながら、同行のKさんといろいろな話をする。少し雲がかかっているものの、満天の星の眺めは美しい。漆黒の天空に無数の小さな穴が開き、そこから光が漏れているような気さえする。

9時半くらいに就寝。簡素な造りの木造家屋なので、人が少し動くと揺れる揺れる。誰かが寝返り打っただけで地震かと思うくらい家屋がグラグラッと激しく振動するので驚いてしまう。

<続く>

パンカム村への道2

シャン族の家
村の「学校」

点在する村の居住する少数民族がマジョリティとなる山の中では、ビルマ語はあまり通じなくなるらしい。いろいろな言語が散在するこの国らしいことではあるが、村で同じ民族で集住しているため、使う必要がないということもあるだろうし、学校教育の普及程度の関係もあるだろう。

食料品類は基本的に自給自足の生活であるようだ。こうした形で少数民族が村単位で存続できた背景には、それで生活していけるだけの地味の豊かさがあったからに違いない。また周辺地域を統一しようとか、勢力を拡大しようという野望もなく、人々が平和に共存していくことができる状況が続いていたということにもなるのではなかろうか。

もちろん少数民族といっても皆が村に住んでいるわけではなく、町に出て働いている人たちも少なくないはずなので、皆がそういう伝統的な環境で暮らしているということにはならないが。

あれは仏教の寺だとWin氏が指差した先にあるのは、大きいながらも簡素な建物だ。門の上に翻る仏教旗がなければ、これがそうであるとはちょっと気が付かないだろう。規模が大きめな家屋ではないかと思うところだった。

シャン族の寺

通称、「シャントラック」と呼ばれる、中国製のクルマのシャーシーとエンジンと足回りを流用してトラックに仕上げた、創意工夫の賜物ともいえるトラックが大き目の農家の軒先にあったりする。近くを流れる川の水を有効に活用して、米、野菜、トウモロコシなどが栽培されている。このあたりでは様々な食用になる野草もふんだんにある。

シャントラック
トウモロコシの脱穀作業中
旨そうなスイカ

ガイドのウィン氏が指差した先には「マラリアに効く」という野草があった。当然、マラリア原虫を駆除する効力はないはずなので、こうした山間の村で医療施設もないようなところに住んでいる人たちにとって、最大の予防は疲労をためないこと、ひいては睡眠時間をたっぷり取ることしかないだろう。

他にもデングのように同じく蚊が媒介する病気、赤痢やコレラといった他の伝染病も普通にあるはずなので、平和に暮らしていながらも人口があまり増えることがなかったということも、民族ごとの村落社会が長く継続できた理由かもしれない。川から汲んだ水を飲む村人たちの姿を見て、そんなことをふと思う。運不運もあろうが、地域の生活環境に適応できる丈夫な人たちが淘汰されて生き残っているわけである。

山道は、もちろん舗装などされていないダートであるため、雨季の水の流れによって削られていくためであろう、平坦ではなく幾筋もの溝が続いているような具合だ。それでも上のほうから中国製のバイクで駆け下りてくる人たちが少なくない。

ウィン氏によると、そうした人々の多くはパラウン族であるとのこと。元々は馬をよく利用していた人たちであるとのことだが、今の時代になると生身の馬から機械の馬へと乗り換えるようになっているということのようだ。同じような地域に暮らしていても、やはり民族性というのはあるようだ。

シャン族とパラウン族とでは、居住するエリアもかなり違うようで、前者はなるべく平らなところ、そして川の流域に好んで居住するが、後者は山の上のほう、尾根のような見晴の良い場所に村を形成するのだという。また、野生のシカや鳥類などを求めて、よく狩猟をするとのことでもある。集落内の家屋を外から眺めると同じように見えるのだが、生活様式はかなり異なるのではないかと思われる。

さらにどんどん上へと歩いていくと、やがて「ここからパラウン族の地域」とガイド氏は言う。住み分けの境界は少なくともこの地域でははっきりしているようだ。シャンとパラウンが混住する村は、町の近郊ではあるそうだが、それ以外では当混じって住むことはないという。シャンの村はシャン人だけ、パラウンの村はパラウン人だけという具合らしい。

顔立ちは私たちからすると同じに見えるが、言葉や生活習慣も異なるため、また住んでいるエリアが異なるということもあるのだろう。異なる民族間での結婚というのも多くないという。ただそれが不可能というわけではなく、ときにはそういうケースもあるのだそうだ。同じ仏教徒であればそう難しいことではないとも。このあたりの少数民族コミュニティは父系社会なので、異民族と結婚した女性が男性側の村に嫁入りすることになるという。

ただし相手の民族がどうあれ、宗教がクリスチャンであったり、ムスリムであったりということであれば、かなり困難であるそうだ。

「インド出身のムスリムでありながらも、シャン族の仏教徒コミュニティの中に同化していった私の祖父はその中の例外です。」とウィン氏は穏やかに笑う。

山道の上のほうから黒光りする銃器を持って駆け下りてくる男の姿があり、「山賊では?」とちょっと背筋が凍る思いがしたが、ウィン氏と顔見知りのパラウン族で、これから狩りに出かけるとのこと。背後からは彼の子供たちも続いて下りてきた。

チークの木に巻き付くバニヤンの木があった。木は逃げることができない。これから何年か先には、チークの木はバニヤンに絞殺されて、バニヤン自体が大きな木に成長していることだろう。

バニヤンに絞殺されつつあるチークの木

パラウン族の村の地域に入ると山の斜面に茶の木を見かけるようになってくる。この民族の間では茶の木の栽培が盛んであるとのことだが、ダージリンその他のインドの茶のプランテーションでのたたずまいとかなり違う。通常、木は等間隔で密の植えられるものだが、ここではずいぶん間隔が空いているし、木の背も高くなってしまって伸び放題だ。こんなに背が高くなってしまっている茶の木はインドでは見ない。

普通の木のようになってしまっている茶の木

収穫された茶葉は、家内工業として粗く製茶されるようだ。「粗く製茶」と言っては失礼かもしれないが、素朴な味わいの中にお茶本来の旨みが感じられて悪くない。

<続く>

パンカム村への道1

ミャンマー北部、シャン州のスィーパウの町から一泊二日のトレッキングに出発する。行先はパラウン族の人々が暮らすパンカム村。同行するのはバンコク在住の日本人K氏。スィーパウでの宿泊先が一緒で知り合った。

町から村までは徒歩で5、6時間とのことで、丘陵地なので起伏はあるものの、険しい地形ではなく歩きやすそうだ。だが途中で見かける眺めや村々、出会う人々のことが何もわからないというのでは惜しいので、現地のガイドを雇うことした。

午前8時に、私たちを案内するシャン族のウィン氏がやってきた。肌色が濃くて顔立ちも彫りが深い感じだが、祖父がインドからやってきたムスリムであったとのこと。だが彼の家は今では仏教徒となっており、祖父の宗教を継承していない。スィーパウの町では、しばしばインド系の人々の姿を目にする。多くは同じくインド亜大陸出自のヒンドゥーないしはムスリムのコミュニティを形成しているが、地元のモンゴロイド系仏教徒の人々の大海の中に埋没していく例も少なからずあるらしい。

小さな町なので、しばらく歩いくとすぐに郊外に出てしまう。マンダレーからラーショー方面へと向かう鉄路を越えると、そこから先は緑の濃い田園地帯が広がる。

スィーパウ郊外の田園風景
牧歌的な風景

畦道を進んだ先にはムスリムの墓地があった。この地域でのムスリムといえば、ほとんどがインド亜大陸起源ということになるが、道路際から眺めた範囲では、墓標はどれもビルマ語で書かれている。古いものになるとウルドゥーで書かれた墓石もあるのではなかろうか。

シャン高原に位置し、スィーパウのあたりでも海抜800m程度はあるので、朝晩は充分涼しくクーラーの必要はないのだが、やはり陽が高くなってくるとそれなりに暑くなってくる。リュックに付けた温度計に目をやると摂氏34℃。ムスリム墓地を過ぎたあたりからは、集落が点在する丘陵地となる。

このあたりは、かつては深い森林地帯であったことだろう。今では伐採が進んで禿山になっていたり、さらに焼畑のため斜面にまったく何もなくなっていたりするところも多い。環境面からは好ましいことではない。

禿山が続く

昔から良質なチーク材の産地として知られてきた地域だけあり、それらは今でも少なからず残っている。こんないい材木がふんだんにあるということで、長らく伐採されてきたわけだが、植民地時代には多くの企業家たちにビジネスチャンスを、そして植民地政府にも大きな富を与えた。これらの輸出で富を蓄積していった企業家たちは数多いし、そうした出自ながらも、その後業種を変えて、またインド地元資本化して現在に至っている組織もある。

1840年代に、イギリスからムンバイーに渡って貿易業を手掛けたウォレス兄弟が設立したボンベイ・バーマ・トレーディング・コーポレーションなどはその典型だろう。ミャンマーやタイにおけるチーク材の伐採と輸出により一世を風靡した企業で、ピンウールィンのヘリテージホテルとして知られるティリミャイン・ホテル (通称カンダクレイグ)は、この会社の施設であったが、今では政府系のホテルとして転用されている。

現在のボンベイ・バーマ・トレーディング・コーポレーションは、パールスィー系のワーディヤー一族が運営する財閥、ワーディヤー・グループの傘下にある。もはや材木関係は扱っていないようだが、紅茶やコーヒーといったプランテーション作物の取り扱いがある。旧植民地企業のDNAが脈々と受け継がれているのかもしれない。

スィーパウの町からしばらくの間はシャン族の集落が続く。家屋は素朴な造りだ。木の柱で骨組して壁には編んだ竹を使用して、トタン屋根を葺いている。付近を流れる小川では水車が回って製粉をしていたり、自家発電に利用されていたりもする。こうした発電により、数世帯の電球くらいは灯すことくらいはできるのだそうだ。

このあたりの川はとてもよく澄んでいるのが東南アジアの他の地域と異なる。川沿いにはいくつも小さな堰があり、水車を利用しての水力発電がなされている。水車以外の方法でダイナモを回している装置も見かけた。政府が何もしてくれないがゆえの自力更生努力である。また太陽電池で電気を供給している家屋もときどき見かけるのには少々驚いた。

民家の外壁にはよくヘチマが干してある。これで身体等を洗うタワシを作るというのは昔の日本と共通の発想だ。

穀物の脱穀、そして発電と多用な水車
ソーラーパネルが設置されている家があった。
タワシとなるヘチマ

発電装置やプラスチック類の存在、わずかな電化製品を除けば、燃料は今も薪のようだし、日本の江戸時代のころからこの地域の生活はあまり変化していないのではなかろうか。あとは民族衣装を着る人が少なくなっていることくらいか。やはり大量生産の安い衣類、とりわけ中国製のそうしたモノが多く入ってくるようになると、製造に手間がかかる民族衣装は着なくなるのが当然だ。それでも女性は年配者などで今も伝統的な恰好をしている人たちもわずかながらいるようだが、若い人たちの間では皆無なので、日常の衣類としては遠からず廃れてしまうことだろう。

<続く>