MAI (Myanmar Airways International) 成田空港に乗り入れる日はそう遠くない?

1996年から2000年まで関空からヤンゴンまで直行していた全日空のフライトが休止となって以来、日本からミャンマーへダイレクトの便は長らく存在しなかった。

そんな中、この春先にカンボジアのスィアム・レアプ、そしと中国の広州へと新規乗り入れを果たしたMAI (Myanmar Airways International)が近い将来ヤンゴンから成田への乗り入れを計画しているそうだ。

同社は長らく国営航空会社として知られていたが、同国を代表する民間銀行のひとつKANBAWZAが昨年2月に80%の株式を取得し、残りの大半を政府が保有という形になっている。

昨年11月に実施された総選挙により『民政移管を果たした』として、先進国による経済制裁の解除を熱望するミャンマー政府だが、同国が加盟するASEAN自体も同国の国際社会復帰を期待している。そうした中で、ミャンマーは2014年にASEAN議長国となることを希望する意志を表明している。これによって政権の正統性を示すとともに積極的な外交への足掛かりとしたいのだろう。

ミャンマーの『民政移管』については、軍人が制服を脱いだだけとの批判もあるものの、ともすればいくつもの『小さな国々』に分裂しかねなかった独立後の歴史の中で、同国の統一を維持するために国軍が果たしてきた役割は大きかったことは無視できないため、そのすべてを否定することはできないと私は考えている。どこの国にも独自の事情や歴史背景があるものだ。

インドの北東諸州の延長上にある(ナガ族のようにインドとミャンマーにまたがって暮らす民族もいる)民族と文化のモザイクといえる地域だ。東南アジア、南アジアそして中国といった三つの異なる世界がせめぎ合う土地であるだけに、ASEANの他国とは比較にならない固有の不安定な要因を抱えている。

それはともかく、国際社会への飛躍を画策しているのは政府だけではない。1946年にUnion of Burma Airwaysとして設立され、1972年にBurma Airwaysに改称、そして1993年にMyanmar Airways Internationalとなって現在に至るまで、ナショナル・フラッグ・キャリアとしての長い歴史を持つ航空会社も同様だ。

同国を代表する航空会社でありながら、これまで国外の乗り入れ先といえばシンガポール、クアラルンプル、バンコクといったASEAN近隣国首都に加えて、週一便でインドのガヤー(こういうフライトがあるのは面白い)のみという寂しいものであった。

それが先述の最近就航したスィアム・レアプ便、広州便に加えて、今後は東京、ソウル、デリー、ドゥバイ、ジャカルタ、デンパサールといった街への乗り入れという積極的な攻勢をかけようと画策しているというから只事ではない。『民政移管』をテコとしてなんとか飛躍を図りたいという政府とビジネス界双方の強い意志の表れのひとつだろう。今後ミャンマーはこれまで以上に大きく変わる予感がする。

それが同国の国際舞台への復帰と多国間での盛んな経済交流を生むことになるのか、それとも先進国不在の間に積極的に進出してきている中国の草刈り場のままでいることになるのか、それは日本を含めた先進諸国の足並み次第ということになる。

原発は不可欠?

電力供給の3割を原子力発電に依存している日本だが、同時にその輸出は国家戦略のひとつとしても位置付けられている。とりわけ今後は途上国において原子力発電の需要の伸びが大きく期待できるからである。

このたびの福島第一原子力発電所の事故は、各国で原発建設推進についての見直しの動きを生むこととなり、同時に地震大国において高い技術水準を背景に『震災に強い原発』を運転しているというイメージが崩れてしまった。

当面は現在進行中の事故に対する対応が最も大切なことであるが、今回の事故は同原発の1号機から5号機まで、営業運転開始日は異なるものの、どれも40年前後と旧い設計のプラントであったとはいえ、中・長期的にも日本の原発事業の海外への展開という面においても不利に作用するのは避けがたいようだ。

ところでインドにおける電力供給源としては、原子力発電は火力、水力に次ぐ第3位にある。マハーラーシュトラ州のターラープル原発のように、1969年という早い時期に操業開始したものもあるが、総体で見ると原子力への依存度はわずか3%と日本のそれに比べてかなり低いのが現状だ。

しかしながらインド政府としては、2050年までに総発電量の4分の1を原子力によるものとすることを目標にしており、今もいくつかの原発の建設が急ピッチで進むとともに、新たな発電所の計画も多い。

そうした中で地震による津波により発生した福島第一原子力発電所の事故について、AERB (The Indian Atomic Energy Regulatory Board) は、当初これが明るみに出た直後には『我が国で同様の事故が発生することはありえない。どんな最悪の災害にも充分耐えることができるようになっている』といった声明を出した。これに対して各メディアからは多くの懐疑的な意見が出ていたが、当のAERBもすぐにインド国内すべての原発の安全性に関する調査に乗り出している。

AERB to reassess safety measures at Indian N-plants (THE HINDU)

今回、深刻な規模の原発事故を起こした日本だが、このたびの原発事故により東京電力管轄地域では恒常的な電力不足に見舞われることが明らかとなった。その解決には近い将来新たな原発を設置するしかないということになるのだろう。今は原発そのものに対する不安感と警戒の色を隠せない世界各国も、これまた遠くないうちに原子力発電へと回帰せざるを得ないだろう。またインドを含めた途上国のいくつかは、現時点において原発推進の姿勢に変化はないという強気な態度を明白にしている。

事故を起こすことさえなければ、火力発電に比べて環境に負荷が少ないこと、また相場の変動が激しく供給に不安定感のある石油に比べて、ウランは安定的に取引されていること、水力発電のようにダム建設を含めた広大な用地取得の手間がなく、発電の効率が優れていることなどが主な理由となる。

とりわけ重要なのは、経済発展に伴い逼迫している電力需要だろう。たとえ現状ではなんとか事足りていても、年々高率で成長を続けている新興国の場合、5年後、10年後には事情が大きく異なってくる。

India Todayのウェブサイトでも、福島第一原子力発電所の事故に関するニュースは連日トップで扱われていることは、自国の原子力政策に対する不安の裏返しかもしれない。

Radiation inside Japan’s Fukushima Daiichi nuclear plant rises sharply, workers evacuated (INDIA TODAY)

だが結局のところ、脱原発という動きにはならないだろうし、すでに原子力発電を行なっている国々、今後導入しようとしている国々の大半もそうだろう。これまでの安全基準の見直しと、より周到な危機管理の実施云々といったところで、これまで敷かれた規定の路線をそのまま進んでいくことになるはずだ。

今から半月ほど前に福島第一原子力発電所を襲ったのは『想定外の規模の津波』であったが、国によってはそれ以外のリスクもあることは忘れてはならない。もちろん人為的なミスにより原発事故が起きたケースもこれまであったが、テロあるいは外国からの攻撃という可能性を想像するだけで恐ろしい。

果たして私たちは、そうしたリスクも背負い込んだうえで『原発は不可欠である』とする覚悟は出来ているのだろうか?覚悟せずとも、原発なしには喫緊ないしは近未来の電力不足に対応できず、結局それを受け入れざるを得ないという現実があるのが悩ましい。

地震・津波そして原発 2

 現在、東日本の多くの地域が輪番による計画停電の対象となっている。買い占め等により、生活物資やガソリン等の供給に支障が生じている。沖縄県の友人によると、彼が住んでいる石垣島でもスーパーマーケットの棚からインスタントラーメンが姿を消したとのことだ。 

被災地に立地していた工場からの供給や交通の途絶という部分もあるが、多くは一時的に需要が極端に膨張したことに対して供給が追いつかないことによるものであることから、時間とともに解消していくはずだ。 

電力不足のため、鉄道も便数を減らして運行している。商店も夕方早く店じまいするところが多くなっており、企業その他も普段よりもかなり早い時間に職員を帰宅させるようになっている。 

このたびの震災により、身内の安否を心配したり、家にいる時間が長くなったりしたことにより、家族との絆、自分にとって一番大切なものは何であるかに気付かされたという人は少なくないことと思われる。 

今回の災害に関する一連の報道において『未曾有』『想定外』という表現が頻出しているが、そもそも気象その他に観測史というものは決して長くないし、数十年という短いスパンの生涯を送る人間と違い、地球のそれは比較にならないほど長い。そのため自然界で起きる事象について、私たち人間が知らないことはあまりにも多い。ゆえに『想像を絶する』現象は今後もしばしば起きるはずだ。 

普段は『あって当たり前』であった電力の供給が不足することにより、被災地でなくとも交通や物流等で大きな混乱を生じることとなっている。被災地の外であっても、東日本地域で暮らしていれば、ここしばらくは今回の地震による影響を忘れることは片時もないだろう。 

今回の地震にから教訓を得て、新たな天変地異に備える心構えは大切だし、災害により強い街づくりも必要だが、これを機に私たちの暮らしのありかたを見直す必要もあるのではないかと思っている。生活や仕事のインフラがいかに脆弱なものであるかということが明らかになるとともに、これまで『地震に強い』『絶対に安全である』とされてきたものへの信頼感は完全に崩壊してしまった。 

同時に日本という国への信用という点でも大きく傷ついたことは否定できない。良好な治安状況は変わらないにしても、地震という固有のカントリーリスクが今後さらに重く意識されることになる。 

ただでさえ危機的状況にある国の財政事情だが、これからは甚大な被害を出した地域への復興支援という重圧がのしかかる。これを機に衰退してしまうということはないにしても、将来へ明るい展望を抱くことができるようになるには、当分時間がかかりそうだ。 

だがここが私たちの国である。不幸にも被災された方々に手を差し伸べることができなくとも、何か自分のできることを行ないたいし、同様に日本人である自分たちが日々取り組んでいる仕事が、間接的ではあるものの何がしかの形でこの国の復興に貢献していると信じて一日、一日を大切に過ごしていきたいものだ。 

<完>

※サートパダー2は後日掲載します。

エアアジア(タイ) インド便就航間近

 これまでマレーシアからは、エアアジア(マレーシア)で、クアラルンプルからコールカーター、ハイデラーバード、バンガロール、コーチン、トリバンドラム、ティルチラッパリといったインドの都市へ、加えてエアアジア Xにてデリー及びムンバイーに向かうことができる。 さらに、今年12月1日からはエアアジア(タイ)によるタイのバンコク発のデリー便とコールカーター便が就航することになっている。 

Thai Air Asia to launch Bangkok flights from Delhi, Kolkata (Deccan Herald) 

旧来は西の方角にある国々(湾岸諸国等)との間のフライトが密であったインドだが、近年は東方向への便も数を増していることは、インドのASEAN諸国との接近ぶりを示すとともに、このあたりをも含めた地域大国として頭角を現しつつあることを反映している。 

そうした中で、空のゲートウェイとしてバンガロール、ハイデラーバードその他の街がこれまで以上の存在感を示すとともに、他の大都市の発展と自らの停滞のため、相対的に経済的な魅力を失ってきていたインド有数の大都会コールカーターも、地理的にこれらの国々と近いことも幸いして、ここ発着の国際線に内外の航空会社次々に乗り入れするようになってきている。インドとその近隣国の距離は確実に狭まりつつある。 

だが、ちょっと目を東に移して、もうひとつの大国である現在の中国の『横暴』について思いを巡らせておきたい。近年、日本のメディアのみならず欧米その他からも中国の脅威に関する様々な論調を目にする。以前のように是が非でも外国からの投資や技術等を呼び込もうと汲々とする国ではない。依然、貧富の格差が大きく、地域差も甚だしい社会でありながらも、総体としてはもはや日本を抜いて世界第二位の国内総生産(GDP)を誇る経済大国となった。 

自国で蓄えた鉄道技術(元々は日本から与えられた技術がベースになっているにしても)を海外に積極的に売り込む、他の途上国へ援助攻勢をかける、地下資源等を確保するために世界各地へ進出していき、これまで彼らに様々な支援を与えてきた先進国と各地で利害が衝突し、火花を散らせるライバルにのし上がってきている。政治的にもそれらの国々を向こうに回して『大いにモノを言う』存在となった。 

同様に、インドとその周辺地域との間の相互依存関係がより密で抜き差しならぬものとなったとき、かつ膨大な貧困層を抱えつつも、国家としては経済的に圧倒的な存在感を持つようになった暁には、どのような態度でそれらの国々に接するようになるのか少々気にかかったりもする。 

国と国のエゴが衝突する外交の世界で、国と国との間の力関係によって、交渉の行方が決まる。立場の弱い側から見て『傲慢な大国』はあっても、『謙虚な強国』というのはあまり例がないだろう。 

今の中国の姿は、将来のインドのそれときっと重なるのだろうと想像するに難くない。従前より南アジアで圧倒的な存在感を持つこの国が、周辺国に及ぼしてきた影響力の届く範囲が、さらに遠くへと広がっていくことは間違いない。 

目下、ブームのこの国をもてはやすだけではなく、私たちはこの大国との将来に渡っての付き合い方についても、よく考えておくべきではないだろうか。

ソウルからインドへ

エアインディアが、デリーから韓国のソウルまで、週に4往復させていることに遅ればせながら気が付いた。デリー・ソウル線(香港を経由)は、今年8月から就航しているようだ。 

90年代以降、韓国企業によるインド進出、対インド投資には目を見張るものがあり、韓国のキャリア以外にインドの航空会社によるインド・韓国間の直行便が就航するまで意外に時間がかかったという印象を受けなくもない。 

ソウル・香港間あるいは香港・デリー間のみの乗客も多いことだろう。ちょうど東京・デリー間で途中バンコクに寄港する便があったころのような感じなのかもしれない。(現在、東京・デリー間は直行のみ) 

ふと思い出すのは、かつてエアインディアの香港経由で東京・コールカーター直行便があったこと。そのころデリーIN、カルカッタOUTあるいはその逆で、日本からインドを訪れる人は多かった。確か90年代に入って間もなく、コールカーター直行便は廃止されたと記憶している。 

船の時代から、インドから見て東側方面からの主要な玄関口であったコールカーターである。デリーに遷都されるまで、長らく英領インドの首都であったためもある。中国大陸からもバンコクやシンガポールと並んで、稼ぎが期待できる外国の街であったため、大量に移住者を送り出している。 

今のように通信手段が発達しておらず、何がしかのツテが頼りであったため、移民の送り出し元はかなり限られた地域からであることが多い。バンコクでは潮州系、マレー半島では福建系や広東系が多かったように、コールカーターには広東系や広東を中心とする地域出身の客家人が数多く住み着いたようだ。コールカーターの華人たちから、しばしば梅県という地名を耳にする。現在の広東省の梅州市とその周辺エリアに相当する地域だ。 

日本にとっても、第二次大戦後しばらくの間は、最も身近なインドの都会といえば間違いなくこの街であったということは今ではちょっと想像できないだろう。戦後の復興期から高度経済成長が始まるあたりまで、西ベンガルから輸出される豊富な鉄鉱石は、かつて鉄鋼大国であった日本の原動力のひとつでもあった。 

また日本に留学生がやってくるようになり始めた時代、1960年代にはインドからの留学生たち(・・・といっても数は大したことなかったのだが)といえば、その主流はベンガルからの学生たちであったようだ。 

その関係もあるのかどうかよく知らないが、今でも西ベンガル州ではちょうど日本でやっているのと同じような菊の盆栽を楽しむ年配者たちはかなりあり、そうした人たちの中には、なかなかの知日家もあるようだ。『日本の菊栽培の解説書を手に入れたいのだが、英語で書かれたものを出している出版社はないかね?』と初老の男性に頼まれたこともある。 

この街とそこを州都とする西ベンガル州の経済面での停滞に加えて、かつての『四大都市(デリー、ムンバイー、コールカーター、チェンナイ)』以外に、バンガロール、ハイデラーバード、アーメダーバード等の台頭により、相対的な地位が凋落していった。 

その結果、インドの航空会社はもとより、東南アジアからの飛行機も乗り入れが減り、ちょっと寂しい状態になってしまっている。それでも近ごろ流行りのLCCキャリアがバンコク便を開設したり、隣国のバーングラーデーシュの新興航空会社もコールカーターとの間に新規乗り入れしたり、増便したりしているのは幸いである。もはやインドを代表する随一の都会ではなく、ひとつの地方都市に成り下がってはいるものの、まだまだ地域のハブとなる底力は充分残されている。 

話はエアインディアに戻る。エアインディアの東アジアへの就航地は、数十年来の長い付き合いである東京、大阪、香港に加えて、上海そしてソウルが加わっており、インドという国自身がゆっくりと顔を東方にも向けてきていることを如実に反映しているようでもある。これは同時に東アジアの諸地域にとっても、視野の中にインドが大きく姿を現してきていることの表れでもあろう。