砂漠の船はどこへ行く

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 ラージャスターン州の典型的な町中風景のひとつとして、通りを行き交うラクダの姿を挙げることができるだろう。御者に操られ大きな荷車を曳いてゆっくり歩いているかのように見えるが、実はストライドが非常に長いためかなりの速度で進んでいるのだ。
 だがインディア・トゥデイ誌3月28日号によると、このラージャスターン州でラクダの数が相当な勢いで減っているのだという。「1998年には50万頭いたものが2003年にはその四分の一が失われている」「1992年と比較して2003年には三分の一が減少」「ラクダの飼育頭数が1994年から2004年までの間に半分になった」といった調査結果さえあるのだそうだ。
 インドでラクダの用途といえば、さすがに砂漠の舟とまで言われるだけあり、主に運搬用ということになるが、井戸水の汲み上げや食料としての搾乳にも役立っている。しかも大きな図体の割には大量のエサを必要としないので、乾燥地にはぴったりの使役動物であろう。
 そして軍籍にあるラクダたちもいる。ラージャスターン州の国境警備にも利用されており、いつだか冬の時期にラージャスターン・パトリカー紙で「寒さで気がおかしくなった軍ラクダが兵士を噛み殺した」という記事を見かけた記憶がある。
 ラクダの減少の主な理由は地域の開発が進んだことである。灌漑の整備により井戸水に頼る度合いが低くなり、それまで道がなかったところに道路が通じ、従来からあった道が舗装されるなどといったことから、エンジンの付いた車両が乗り入れることができるようになった。ラクダよりも多くの荷物をはるかに早く目的地まで届けることができるし、手間のかかる世話もいらない。効率という観点からはラクダとクルマでは比較にさえならない。
 インドもとかく忙しくなりつつあるこのご時勢。急な経済成長に沸く都市部や工業地帯ほどではないにしても、この地でも人々の購買力が向上しつつある証ともいえるだろう。
 これまで長きにわたってラクダが有用だったのは、地域の後進性がゆえと片付けてしまうこともできるが、このあたりの人々の暮らしがいかに大きな変化を迎えているかということを象徴しているのかもしれない。「20世紀に」「インド独立後に」といった比較的長い時の流れの中に起きた変革の中で、地域経済や人々の生活における「1990年代以降」というかなり短い期間のうちに生じた質的変化は相当大きなものではないのだろうか。
 ラクダたちの姿以外にも、やがていつの日か「失われた風景」となるであろうものが沢山あるような気がする。もちろんそれはラージャスターン州に限ったことではないのだが。

デリーの古城で

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 最近「インドの酷熱地獄に日本人収容所があった」という本を手に入れた。これを読むまで大戦中にインド日本人収容施設があったことなどまったく知らなかった。非常に興味深いものだったので、内容の一部を取り上げてみよう。
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 独立前夜のインド、首都デリーのプラーナー・キラーで暮らした日本人たちがいた。その数なんと2859人。当時の英領各地で、「敵国の人間」であるがために捕らえられた日本の民間人たちである。
 しばらくして解放され、インドから出国できることになった者が400人ほどあったものの、他の人々はここで425日間過ごしたあと、彼らはラージャスターンのコーター市から国道12号線を80キロほど北東へ向かったところのデーウリーという町近郊へと移った。
 1941年12月8日に起きた日本軍による真珠湾攻撃(現地時間では12月7日)により幕を開けた太平洋戦争。まさにその瞬間を待ち受けていたかのようにシンガポールやマレーシア在住の邦人たちが、地元当局により一斉に拘束された。彼らは船でインドへと連れて行かれる。カルカッタに上陸後に鉄道でデリーへと移送され、プラーナー・キラーの中に設置された抑留者キャンプに入れられることになった。
 やがてビルマから、そしてセイロンからは僧侶を含めた人々、またインド在住の日本人たちも捕らえられた人たち、はてまた遠くイギリスや当時英領下にあったアフリカ地域から送られてきた者もあった。運悪くこの時期アメリカの船舶に乗り合わせていたがために、途中寄航したイギリス統治下のイエメンのアデン港で拘束された挙句にインド送りになったというケースもあった。
 非戦闘員である一般市民がこうした形で強制収容されてしまうのは今ならば考えられないことだが、当時アメリカ在住の日本人たちも似た経験をしたように、そういう時代であったということだろう。なにしろ当時、日本の駐シンガポール総領事も同様に拘束されてインド送りになっている。もっともその「身分」を考慮してのことか、抑留地は過ごしやすい避暑地のマスーリーであった。
 1947年のインド・パキスタン分離独立の混乱時、プラーナー・キラーは地元在住のムスリムたちを保護するための難民キャンプになったという。しかしその数年前には日本人抑留者キャンプとなっていたことは、おそらくデリーの人たち、相当年配の人たちでもそれが存在したことすら知らない人のほうがずっと多いのではないだろうか。外の市民生活から隔離された特別な空間であったからだ。
 外部の情報から遮断されたムラ社会であるがゆえの悲劇も起きている。デリーのプラーナー・キラーから移動した先のラージャスターンのデーウリーのキャンプで終戦を迎えても、日本の敗北を信じない人たちが多かったのだという。祖国の敗戦を事実として受け止めた人とそうでない人々たちの間の抗争は、ついにキャンプ内での流血をともなう暴動にまで発展する。騒ぎの鎮圧のために投入された軍隊の発砲により、19人が死亡するという惨事にいたった。
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 東南アジア各地に旧日本軍にまつわる戦跡その他は多い。タイの「戦場にかれる橋」マレーシアの「コタバル海岸」シンガポールの「チャンギ刑務所」等々。そして今では数はめっきり減ってしまっているものの、占領時代を経験した世代の人たちから声をかけられることもたまにあり、「戦争」について考えさせられる機会は決して少なくない。
 南アジアにそうした場所はほとんど見あたらないが、インドの首都観光に外すことのできないポピュラーな史跡、プラーナー・キラーにまつわる故事来歴の中にこうした史実が加わると、ここを訪れるときまた違った関心が沸いてくるのではないだろうか。
<インドの酷熱砂漠に日本人収容所があった> 
峰敏朗著 朝日ソノラマ発行 発行年1995年
ISBN4-257-03438-6

MADE IN INDIA !

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 フランスのルノー社がインド合弁で低価格乗用車「ロガン」を生産するという。東南アジア諸国の中で右ハンドル地域、つまり左側通行の国々への輸出拠点に発展する可能性もあるのだという。タタ社の「インディカ」も提携先のローバーブランドでイギリスにて販売されているように、自動車業界のグローバルな生産拠点としての地位を占めつつあるようだ。
 もっともこうした外資が参入以前から、タタやアショーク・レイランドのバスやトラックの姿は南アジアの周辺国以外でも、東南アジア、中東、アフリカなどで決して珍しいものではなかった。インド国内ではポンコツバスしか見かけなかった時代にも、マレーシアのペナン市のローカルバスにはインド製の車両があったし、アラブ地域でもしばしば「T」印のエンブレムを輝かせたエアコン付きでまずまずのバスを見かけたりしたので、こと大型商用車の分野ではそれなりの地位を築いていたのだろう。
 だがこの分野もインド資本の韓国進出により、大きな変化をむかえている。昨年3月のタタグループによる大宇商用車(旧大宇自動車郡山トラック工場)買収により成立した新会社、タタ大宇商用車は大型トラックを製造しており、韓国商用車市場で25%のシェアを占めている。今年からは5トンクラスの中型トラックの生産にも乗り出し、さらに売り上げを拡大する予定だ。
 韓国で商用車市場に突如出現したインド資本の存在感はさておき、注目すべきは取得した韓国メーカーからインドへの技術移転効果が大いに期待されていることだ。現在のインドの路上風景の一部ともいえる古色蒼然とした「ボンネット型トラック」は遅かれ早かれ日本で見るような「普通のトラック」に駆逐されてしまうのではないだろうか。
 インド製大型車両の「世界標準化」により、販路が従来よりも拡大されることが予想される。現在過熱気味の乗用車市場だけではなく、今後は大型商用車の分野でも海外での販売を視野に入れたうえでの地元資本と外国メーカーとの合従連衡が一気に進むのかもしれない。
 自動車大国ニッポンでは、ヒンドゥスタン・モータースのアンバサダーのように「愛好家」が存在する自家用車を除き、インド製自動車が国内市場に入ってくることはなさそうだが、世界のクルマ市場でインドの存在感が日増しに大きくなってきていることは間違いない。
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ロバは歩む

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 バングラデシュでチッタゴン丘陵地帯での物資輸送問題を解決するため、インドから輸入したロバを投入するのだという。
 このあたりには、主にモンゴロイド系の少数民族たちが暮らしていることで知られるが、地理的な要因のため非常に開発が遅れた地域である。政治的にも不安定で1997年まで20年間ほど地元の武装組織による反政府運動が続いていた。
 バングラデシュの地図を見てわかるとおり、幹線道路の多くはチッタゴン丘陵地域に入ったあたりでプッツリ切れてしまっていることが多い。ロバの投入云々というのは、まともな道路の不足のためクルマが入れない居住地が多いためである。
 下記の記事中に「ネバールやブータンでも同様の役割を担っている」とあるように、小柄ながらも、丈夫で辛抱強いロバは交通の不便な地域で、山のような荷物をのせてトボトボ歩く姿はよく見かけるので、その有用性は言うまでもない。
 ロバという動物は、その哀しげな眼差しといい嗚咽にむせぶような鳴き声といい、なんという業を背負っているのだろうか。あの大きな荷はまさにロバが負う因果そのものではないのか、と気の毒な思いがする。
 それはともかく、こうした辺境の地に何か将来有望な産業があるのか、といえば特に何もないように思えるし、開発が進めば本来ヨソ者のベンガル人たちが入植してきて、地元に昔からいた人たちは、彼らに従属するかさらに不便なところへと追いやられてしまうことになりがちなのだろう。
 世界各地で「グローバル化」が進む昨今、問題は後進性よりも地域の独自性や自主性を保てないことであることも少なくないのではなかろうか。また開発や発展を是とするのは強者の論理という側面もあるかもしれない。
 人々の生活圏や経済圏が広がるいっぽう、従来の狭い地域では日々の営みが成立しなくなってくる。経済的に低く発言力の弱い立場では、新しい論理や倫理、ルールや習慣はたいてい外から否応なく押し付けられていくものである。だが厄介なことに、強い側にいる者たちはそれらを「公平にして普遍のきまりごと」と信じ込んでいるのだ。
 多数決をもってする民主主義というシステムについても、人口の少ないマイノリティの人たちにとって、特に利害がマジョリティと相対する場合、それが公平なものであると認識できるだろうか。
 かといって、時代の流れ止めることなど誰にもできやしない。世の中、コトバだけではわかり合えないことが山ほどある。
Bangladesh turns to donkey power (BBC South Asia)

聖地に集合!

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 やはりインドという国はひと味もふた味も違う。シカゴを拠点とするNRI資本により、「ディズニーランドみたいな」テーマパークが建設されるそうだが、花形マスコットはミッキーマウスではなく、ハヌマーン神だったりするのだそうだ。
 このテーマパーク「ガンガー・ダーム」は、ガンジス河岸の聖地ハリドワールで、25エーカーもの広大な土地に650万ドルの資金を投入して建設されるという。
 予定されている入場料は35ルピーと手ごろだが、ヒンドゥーの神々のアニメーション博物館、フードコート、サウンド&ライトショー等々さまざまなアトラクションが用意されるのだという。
 ハリドワールで2010年にクンブメーラーが開催されるころには、このガンガー・ダームも全面開業しているとのことだ。

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