先の見えない「平和」に向けてバスは走った

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 反対勢力によるテロなどの妨害はあったが、予定どおり4月7日に国境ならぬ「実効支配線(LOC)」を越えてスリナガルとムザッファラーバードの間を結ぶバスルートが開通した。隔週に一度という非常に限られた機会だが、独立以来分断されているカシミールで人々が直接往来できるのは、まさに歴史的な出来事である。
 これはインド・パキスタン関係がこれまでになく良い状態にある証であり、二国間の係争地帯となっているカシミール地方に暮らす人々にとって喜ばしいことであるのは間違いない。
 だが困ったことに表面上は穏やかになりつつあるように見えても、カシミール問題自体は何も解決しておらず、たまたま小康状態にあるに過ぎない。両国が対立の手綱を緩めたことによって訪れた「平和」には裏付けや今後への保証があるわけではないのだ。
 1999年2月にデリーとラホール間を結ぶバスルートが開通し、当時のヴァジパイー首相がその第一便に乗ってラホールを訪問したことはインド・パキスタンの良好なパートナーシップの進展を世間に印象付けたがが、その後間もなくカールギル紛争が勃発して両国関係は一気に悪化した。
 また2001年12月にニューデリーで起きた国会襲撃事件後には緊張状態がエスカレートし半年以上に及ぶ一触即発の態勢が続くなど、近年においてもインド・パキスタン関係は予断を許さない状態だ。対立こそが平時ともいえる両国関係は、多少の融和とその揺り戻しであるかのような緊張との間を振り子のように行き来している。
 今回スリナガル・ムザッファラーバード間のバスルート開通後、何か不吉な出来事が待ち受けてはいなければ良いのだが・・・。
 ニューデリーとイスラーマーバード、対立する両国中枢による綱引きが行われている分断カシミールでは、土地の人々の意向を無視した大義が振りかざされ、イデオロギーが独り歩きする。
 ふたつの地域大国のパワーがせめぎあう中に一種の真空地帯が生まれ、武装組織が活動の場を得る。当局による治安維持の名目で不条理な弾圧や人権の蹂躙が行われる一方、解放の名のもとに反対勢力によるテロや暴力が横行する。
 カシミールの領有を主張して譲らない両国の間に横たわる「実効支配線」とは、土地の人々にとって自分たちに断りもなく決められたものである。
  
 百歩譲って地域の境界あるいは領有について二国家に委ねるとしても、人々が個々に「自分はどちらの国家に属するか」を決めることができても良さそうなものだ。 
 現実的ではないが「パキスタン国籍を選んで向こうに移住する」あるいはその逆、さらにありえないことかもしれないが「インド国籍を選び、外国人としてパキスタン国内に居住する」あるいはその反対が可能であってよいはずだがそうはいかない。
 分断国家によくあることだが、ある時点での居場所により国籍が自動的に決まってしまうのはあまりに酷である。
 土地の所属あるいは人々の国籍にしても、自分たちの意志ではどうにもならない宙ぶらりんで他人任せの状態が続いている。結局のところ自分たちの処遇を決めるのはカシミールから遠く離れたデリーであり、イスラマーバードであるのだ。これらふたつの権力の中枢が知恵を絞って建設的な解決を見出さない限り、カシミールの人々はその雲行きを見ながら右往左往するしかない。
 自らの意思によらず、不安定なインド・パキスタン関係に翻弄され続けなければならないことこそ、カシミールの最も大きな問題ではないだろうか。
 ともあれ実施が懸念されていたバスが走った。これからもずっと続いて欲しいものである。分断されたカシミールの間で人々が直接往来する機会が増えるのは喜ばしいことではあるが、自らの手で運命を決めることができないカシミールでは、今回のバス外交の行き着く先がどこなのか誰にもわからない。
カシミール地図(テキサス大学図書館)
Media praise Kashmir peace buses (BBC South Asia)

シェカーワティーに行こう3 屋敷町の行く末は?

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 現在、ハヴェリーの主たちの多くはすでに外の土地へ出てしまっていることが多く、かつての使用人家族が番をしていたり、屋敷内の部屋を幾世帯もの他人に貸し出していたりといったケースが多いらしい。主が不在なので手入れは当然おろそかになる。貧しい間借人たちが、建物の特に壁に描かれた絵の保守に関心を持つこともないようで、ハヴェリーの内も外もひどく痛んでいることが多い。
 先述の元は寺院であった建物が他の目的に使われている例にもあるように、大型のハヴェリーの中には学校に転用されているものがいくつかある。一階部分の外側が店舗として利用されているものもあり、ペンキで書かれた屋号や下着や乾電池の広告のイラスト等が、美しい壁画の上に大書きされているのを目にすると胸が痛む。そうでなくとも厳しい日差しに焼かれて雨に洗われ、せっかくの見事な壁画が次第に失われていく方向にあることは間違いないようだ。
一部にはこうしたハヴェリーをはじめとしたこの地方独特の建造物を観光資源として地元の活性化に利用しようというアイデアはあるらしく、私設博物館として入場料を徴収したり、ホテルに改修したりするところも出ているようだ。だが今のところ、これらを地域の文化遺産として保存や修復しようという流れにはいたっていないようだ。 しかしこれらは私有財産であるし、今も人々が暮らす住宅であることから難しいのかもしれないが、このまま放っておけばカラフルなハヴェリーが建ち並ぶ景観はやがて姿を消して行くことだろう。また精緻な細工のなされた木製の扉や欄干などが本来あった場所から取り外されて、骨董品市場に流出しているケースも少なくないと聞く。こうした多くの屋敷の原型が失われないうちに、行政による何らかの手立てが必要だ。

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シェカーワティーに行こう2 見どころいろいろ

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 ラージャスターン各地に割拠した藩王たちの宮殿のような壮大さはないし、建築や装飾の洗練された美しさや職人の技の精緻さに圧倒されるとまでは言えない。しかし平民の中からたくましくのし上がっていった当時の新興階級のみなぎる力、そして彼らの進取の気性を目の当たりにするようだ。まさに中世インドにおける民間活力の勃興の証であるともいえるだろう。
 ここで力を蓄えた人々の中からは、大都会に出てより大きなビジネスチャンスを狙う者も出てきた。不断の努力により得た富をせっせと故郷に送金したことから、豪華なハヴェリー建築に更に拍車がかかった。
 彼らが建設に励んだのは、自らの大邸宅だけではなかった。寺院建築のための寄進や井戸を作ることによる地元社会への貢献もあった。カラフルなハヴェリーとともにシェカーワティー地方の風景を特徴づけるのはユニークな井戸である。地面から高く積み上げられた基檀の上から空の方向へ堂々と伸びている大きな四本の尖塔が目印だ。遠目にはモスクのミナレットかと思うような造形だが、その足元では深くて暗い井戸がポッカリと大きな口を開けている。

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シェカーワティーに行こう1 華麗な屋敷町

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 ハリヤナ州やデリーとの境の南側に位置するラージャスターン州北部に、「砂漠の中のオープンエアギャラリー」と形容される地域がある。まさにカラフルな絵であふれているのだが、こうしたタイトルの常設絵画展が開かれているわけではない。
 この地方の町の多くには、18世紀から20世紀初頭にかけて建築された、内も外もあらゆる壁という壁が派手な色彩のペインティングで飾り立てられたハヴェリー(屋敷)がいくつも連なる一角がある。まさにこれがオープンエアギャラリーと言われる由縁である。
 だが現地を訪れたのが四年ほど前であり、観光地の「発展」の速度はときに想像を超えるものであることもあることから、現状と違う部分があるかもしれないことは最初にお断りしておきたい。
 
 インドで「壁画」言った場合、古代の寺院などに描かれたもののように深遠な思想背景や途方もない歴史的価値を持つもの、ワールリーやサンタルといった部族の村々で見られるトライバルアート(差別的な言葉ではあるけれども・・・)と呼ばれるもの、あるいはミティーラー画のように特定の地域で社会区分の枠を越えて広がる民俗画など様々だが、シェカーワティーの場合は商業という極めてグローバルかつ世俗的な分野で台頭してきた人々による豊かな経済力を背景にしたものであることから、それらとは性格も絵そのもののありかたも大きく異なる。
 こうしたものを見物できる主な町としてジュンジュヌ、ドゥンドロッド、ナワルガル、ファテープル、マンダワ等がある。
 屋敷を見るといっても、これらは遺跡ではなく現在も人が住んでいる住宅であるため、居住者の好意で中を見せてもらう機会があっても礼を失しないようにしたい。
 このあたりはラージャスターン西部へと続く広大な砂漠地帯への入り口にあたり、緩やかに起伏する大地が広がっている。地味が豊かとは決して言えない荒野と貧しい田舎の町々から成るこの地方に、なぜこのような大邸宅群が多数建設されたのか誰もが不思議に思うに違いない。

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ハリウッド白黒映画に見るインドの英軍

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 モノクロ時代のハリウッド映画「ベンガル槍騎兵(The Lives of Bengal Lancer)」を見た。
1935年製作のこの作品は、若き日のゲイリー・クーパーが出演する英領インドを舞台にした冒険もので、相当好評であったらしく第8回アカデミー賞にノミネートされている。あらすじは以下のとおりだ。
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 ストーリーはゲイリー・クーパー扮するベンガル槍騎兵第41連隊のマクレガー中尉に新しいふたりの年下の後輩たち、挑発的で生意気なフォーサイス中尉とやんちゃで子供っぽさの残るストーン中尉が加わったところから始まる。舞台は現在のパキスタン西部のアフガニスタン国境近くということになっているらしい。
 何かと先輩マクレガーの手を焼くストーンは、なんと連隊の所属する守備隊のストーン司令官の子息。しかし軍の中での規律を何よりも重んじる司令官は、息子への愛情とは裏腹に、周囲から自分の子に対するえこひいきととられるようのないよう、公平に振るおうと努める。その結果、周囲の人々から見ても不自然なほどに息子を遠ざけることになり、父親の「冷たい仕打ち」にストーン中尉は大いに失望する。
 そんな中、英軍からの武器弾薬の援助を依頼している地元豪族モハメド・カーンが、実は周辺の他勢力とともに守備隊に謀反を企てているという情報が、カーンの身辺に潜伏中のイギリス側のスパイからもたらされた。
 企みが露見したことを知ったカーンは、策略を変えて強引な手法に訴える。夜な夜な外出しては遊び歩くストーン中尉を捕らえられて人質にしたのだ。
 父親である司令官は「これは英軍をおびきよせて殲滅させる企みである」として、息子を救出するため自軍を展開することを拒否するとともに、彼に服従せず「それでも父親か!」と詰め寄るマクレガーには「軍法会議にかけるぞ」と脅しをかける。
 そこで一計を案じたマクレガー、「同志」のフォーサイスとともに行商人に変装してストーン救出へと向かうがすぐに相手に身元が割れて、ふたりも同様に囚われの身となる。
現地に駐屯する英軍への補給路を絶ち、武器弾薬を横取りしたいカーンとその手下たちは、物資輸送にかかわる機密を聞き出そうと三人の人質に厳しい拷問を加える。マクレガーとフォーサイスは必死に耐えたがストーンは簡単に口を割ってしまい、二百万発もの弾丸を含む大量の武器がカーンたちの手に渡る。
 装備で大幅に上回ることになった地元勢力を前にして、ストーン司令官率いるベンガル槍騎兵300名は、守備隊の存続を賭けてイチかバチかの大勝負に臨むべくモハメド・カーンの一味に急襲をしかけた。
 カーンの城砦の中で、マクレガーとフォーサイスは機知をめぐらせて牢獄から脱出。相手の機関銃を奪い敵兵を次々と倒す。カーンの弾薬庫に火を放ち大爆発を起こさせたマクレガーだが、英軍の進軍ラッパが響いてくる中で命を落としてしまう。
それまでまったくの厄介者の過ぎなかったストーン中尉は、マクレガーの死を無駄にしてはならぬといきり立ち、敵軍の混乱に乗じて不倶戴天の敵モハメド・カーンを首尾よくナイフで仕留めた・・・・。

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