時流

 西ベンガル州で、シャンティニケタンからビシュヌプルまで移動したときのことだ。早朝に出るという直通バスを逃してしまい、ドゥルガープルまで行きそこから乗り換えることになった。
 シャンティニケタンから2時間で到着したドゥルガープルだがそこからが長かった。午前11時に出て、地図を眺めて午後1時前には着くだろうと踏んでいたが、バスは途中あちこち迂回して走った結果、目的地に着いたのは午後3時であった。
 実はドゥルガープルのバススタンドで、電話屋の人に『公営バスのほうが早く着くよ』とは言われていたのだが、次に出るのが午後1時であるとのこと。2時間もボーッとしているよりは・・・と、タイミング良く現れた民営バスに飛び乗ったのが裏目に出た。
 近年、インドのどこに行っても公営バスのルート、発着数ともに激減しているのが見て取れる。左翼勢力が強い西ベンガル州とて例外ではない。シリグリーやラーイガンジといった州内の交通の要所にあっても、バススタンドで幅を利かせているのは民営バス。
 公営バスが道路交通の中核を担っていたころ、同じバスがいつも決まったプラットフォームから出るため、利用者とくに私のようなヨソ者にはわかりやすかった。そして決まった時間に(たとえ車内がガラガラであったとしても)出発するので時間が読みやすかった。走行ルートもそれなりに理にかなうものであったと記憶している。
 かつてはインドのどこでもバススタンドといえば公営バス専用で、民間のものは道路脇などに構えた小さなオフィス前から出るのが当たり前だったのに。だが当時のように市内各地(それでも往々にしてバススタンド付近であることが多かったが)からバラバラに発着させていた状態よりも、こうして一箇所から各社のバスが出るようになると効率がいいし、利用者にとっても便利であることは間違いなく、大きな進歩である。こうやって民間でできるようになったのだから、政府がわざわざやる仕事ではないから手を引く・・・というのが万国共通の行政側の論理なのだろう。
 そして今、色もカタチも違い行き先表示もあったりなかったりする民間バスが主体となってからは、これらの車両がどこに行くものなのか『経験的に』理解している者でなければ、何がなんだかよくわからないのだ。
 ちゃんと定められた時間どおりに走行しているものもあるが、おおむね『満員になり次第』発車し、走行中に空席が目立つようになれば市街地に入ってから車掌がドアから身を乗り出して可能な限り多くの乗客を乗せようと呼び込みに没頭するようでは到着時間が予測できない。秩序と定時走行の概念が消えるという現象面だけ眺めてみれば、時代に逆行しているようにも思える。
 公営・民間ともに同じところを走れば当然競合することになるが、それなりの棲み分けはなされているようだ。概ねこのベンガルでは公営は要所と要所を短時間で直行するもの、民間は回りまわって寄り道しながら大きな街とそれ以外の小さい町や村を結ぶといった具合に分業しているように見える。
 高い経済成長率に沸くインドだが、その伸びの背景には元々のスタート地点がやたらと低かったからという面もある。それだけに都市部から離れるとまだまだ貧しさばかりが目に付くような土地も少なくない。それでも『小さな政府』『民間でできることは民間で』という大きな流れの中で人々が生きていることは、この地球上のどこにあってもほぼ同じであるようだ。もちろんそれが正しいことなのかどうかは、後世の人々が判断することになるのだろう。

車内の人間模様

 通路挟んで隣に座った家族連れの人たちは気の毒であった。夫婦と小学生くらいの息子の3人連れ。ガタゴトと揺れる車内で、携帯電話に入ったショートメッセージを深刻な表情で見つめていた夫は、それを深いため息とともに妻に見せた。とても驚いた表情をしていた彼女は、やがて泣き崩れてしまった。突然の出来事で落ち着かない表情の夫だが、子供と一緒に彼女の手を取り、しきりになぐさめている。
 なんでも奥さんの身内に不幸があったとのこと。本当はこれから空路マレーシアへと向かうつもりでコルカタに出てきたそうなのだが、急な出来事のためそれを取りやめなくてはならなくなったが、この列車の終着駅ハウラーに着いてからどうすれば良いのかわからず戸惑っている様子。
 こうしたことがわかったのは、向かいに座ったU.P.州在住のムスリム老夫婦連れがこのベンガル人男性と話をしていたためだ。ともかくこの人は妻をなぐさめつつ、また携帯電話で彼女の身内らと連絡を取りながらも、正面に座る老人に一部始終を話していたので事情がよくのみこめた。こんなシリアスな状況下でも実によくしゃべるものだと感心。
 周囲の人たちは悲しみに打ちひしがれたこの家族連れに気を使い、彼らの取るべき行動、彼の奥さんの実家へたどり着くためのルートなどについて、さまざまな助言を与えている。
 ついさっき車内に乗り込むときの座席をめぐっての殺伐としたムードとは打って変わり、暖かい人情味あふれる空間に入れ替わっていた。
 しばらくパニック状態にあった夫はしばらく考えた末、カルカッタの親族だか知り合いだかと携帯電話で連絡を取り航空券の手配を頼んだ。しばらくして三人分の席がジェットエアウェイズで確保できたとの連絡が入っていた。彼らがハウラーに着いたら電話の相手が駅で出迎えてくれて、そのまま空港へと向かうことになったそうだ。
 やがて列車はハウラーに着き、家族連れは相席の人々に見送られて駅出口へと急いだ。

ふたたび不安と不信のはじまりか

 7月11日午後6時台にムンバイーの郊外電車車両や鉄道駅などで連続して起きた爆弾テロ事件により、190人前後が死亡し620人以上が負傷したとされる。事件発生後、コングレス総裁のソニア・ガーンディー、RJD党首で鉄道大臣のラールー・プラサード・ヤーダヴらはデリーから事件発生現場へと急行した。
 どの現場でも同種の時限発火装置が使用されたと見られ、現在までのところこの事件にはこれまで幾度もインドでテロ事件を引き起こしているパキスタンを本拠とする組織と地元インドで非合法化され現在では地下活動を行なう過激派組織がかかわっているとみられている。
 こうした残忍にして愚かな行為はどんな理由があろうとも決して正当化できるものではない。しかしこうした事件を計画・実行しようとする組織や個人に対して、日々不特定多数の人々が出入りするという人口の流動性、常に人々の顔を見ながら生活していても、日々付き合いのある特定の個人を除いて他はすべて見ず知らずの他人であるという匿名性などから、都市といったものがいかに計画的にして組織的な暴力に対して無力であるかということをまざまざと見せ付けられた思いがする。  都会というものは、相手の顔が見えるようでいて、実は私たちが眺めているのは仮面や虚像に過ぎないのだろうか。
 数年前、ムンバイーの市内バスが連続爆破される事件が発生した直後、シヴ・セーナーによる、事件首謀者たちとテロに対する行政当局の無策ぶりに対し、ムンバイー市街地全域に及ぶ規模での抗議活動としての『ムンバイー・バンド』が実行され、その趣旨に賛同するしないにかかわらず同党とその友党であるBJP の活動家たちが市内を巡回・監視し、インドの金融・経済の中心都市として、また市民生活を含むムンバイーの機能が日中一杯すべてストップさせた。
 また事件の実行犯たちと同じくムスリムであることから受けるかもしれない危険や不利益を避けようということもあってか、いくつかのイスラーム教団体やイスラーム・コミュニティを支持母体に含む政党などが、メディアからの声明発信や街頭での演説などを通じて積極的な支持を表明してムンバイー・バンドに『相乗り』する様子も目に付いた。
 指導部の世代交代を発端とする組織の内紛を経て、幾人かの重要幹部たちが抜けた現在のシヴ・セーナーに当時のような力があるのかどうかわからないが、同党を含めてマハーラーシュトラ州はもちろん中央政界でも下野している右派勢力がこの事件を好機とみて与党に対する揺さぶりをかければ、そのコトバが説得力を持って一部の人々の胸に響くことだろう。 事件そのものだけでなく、出来事を受けての政界による反応もコミュニティ間の緊張につながりかねない。ともかく影響は長期に及びそうだ。ここしばらくの間好転している対パキスタン関係も大いに懸念される。
 このたびの事件で犠牲となられた方々のご冥福をお祈りするとともに、これがふたたび『人』『社会』『コミュニティ』『隣国』に対する不安と不信のはじまりとならぬことを願ってやまない。

ひとたび国境開けば

 このところスィッキムからチベットのシガツェ地区を結ぶナトゥラ(乃堆拉)峠経由の国境ルートが、印中間の公式な交易路として44年ぶりにオープンしたことが伝えられており、両国の国境警備担当者たちが握手を交わす姿、地域の商売人たちの談話なども報じられている。
 近年の印中関係の好転の結果であることはもちろん、長いこと旧スィッキム王国のインドへの併合を認めない立場を取ってきた中国のスタンスの転換の意味は大きい。
 結局地続きの両国である。これまでこの地域で影に日向に人や物資の移動は多少続いてきたにせよ、公には両国にとって『地の果て』でしかなかったヒマラヤの国境地帯が、いきなり『外界への窓口』になることから、これといった主要産業を持たない同地域の経済発展への期待がかかっている。
 だが単に『交易にかかわる収益+商機と雇用の増大=富裕化』という図式以外にこの交易路が地元社会に与えるインパクトがどのようなものであるか興味を引かれるところだ。
 交易・物流の拠点では商取引そのものだけではなく、運送業者や貿易手続き等にかかわるエージェント等、道路や公共施設そのインフラ整備に加えて民間による開発事業等も含めた建築関係の需要も出てくるし、宿泊、食事、娯楽等といった周辺産業もやってくるだろう。 ここが新たな『ビジネスチャンス』であるのは、アンダーグラウンドな人々にとっても同じことで、怪しげな人々の姿もチラつくようになるのも不思議ではない。
 とりもなおさず、これらすべてを包括した様々な業種に雇用を求める人々もやってくるはずだ。
 そんなわけで、このあたりでおカネが急速に回り始めるとともに、新たに定住する人とともに出張者や臨時雇いなども含めた流動的な人口をも加えた『総人口』の伸びも前例のない規模になるだろう。すると今度は住宅や子弟の教育その他生活関連のニーズも高まってくる。
 もうすでに相当規模の人口移動は始まっているのではないだろうか。従来からこの地域周辺に住んでいた人たちとはコトバも民族も異なる人々も流入してくることだろうから、今後いろいろ地元っ子たちと新住民との間での摩擦などもありえよう。
 そしてこの地域は国境の向こうからやってくる人やモノを通じて中国各地とも結ばれることになる。ボーダーの向こうとこちら側がひとつの経済圏となることから、中国側からの影響も様々な面で見られるようになるのかもしれない。このあたりの商売に従事していると、インド首都や国内他エリアの出来事よりも、国境向こうの取引先地域の動向のほうがよっぽど気になっていてもおかしくない。
 この地域がこれまでとはずいぶん違ったものになるのは想像に難くないようだ。今後の動向に注目したい。

料理屋さんもそれぞれ


 ひと昔以上前、『エスニック料理』なるコトバでひとくくりにした『非欧米・中華』のガイコク料理がもてはやされた時期があった。東南アジア、中東、アフリカ、ラテンアメリカの実に様々な料理すべてが『エスニック』であり、もちろんインド料理もその範疇に含まれていたと記憶している。ちょうどそのころだったと思う。これら種々雑多な食事をメニューに網羅する『多国籍料理屋』なるものが出現したのは。
 その後、人気躍進したタイ料理やマレー料理のなどは『エスニック』のカテゴリーから独立し、外食の新たな人気ジャンルとして定着。もちろんインド料理も同様で、従来からラーメンやうどんといった、サラリーマンのお昼の定番アイテムのひとつとしての『カレー』とは全く違う『インドカレー』として、街角にごくありふれた身近な存在となり現在にいたっている。
 だが『インド料理』といったところで、インドという国がそうであるように、何かをもってインドの料理であると簡単に定義してしまうのはむずかしいところだ。それでも現在日本にあるインド料理屋の大部分が北インドの料理、とりわけパンジャーブ料理やムグライ料理といった北西部の食事を出していることが多く、そうしたものが『典型的なインド料理』ということになっているようだ。
 それはそれで別に悪いことではないのだが、『インド料理』の看板を掲げて同じようなものを出していると思われる店の中にもいろいろある。料理屋で本のレシピに書かれているスタンダードなものばかり出す必要はないし、それなりに独創的なアイテムでお客の目や舌を楽しませてくれるのは結構なことなのだが、かなり不思議なものに出くわすこともある。たとえば魚のカレーを注文してみたら鮭が出てきたり、タンドゥーリー・チキンを頼むと赤く染めた鶏肉の唐揚が出てきたりなどといったところだ。
 ごく一部だとは思うのだが、『店先や厨房にインド人を配置すればそれらしく見える・・・』と思ってか、いい加減なものを出す店はままあるように見受けられる。
 少し前に日本の新聞のウェブサイトでこんな記事を目にした。
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「真の和食」にお墨付きマーク 仏で偽物の苦情増え(asahi.com)
http://www.asahi.com/international/update/0701/009.html
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 インド料理店が増殖を続ける中、『ウチはちゃんとしたのを作ってるよ』という認証みたいなのがあってもいいかもしれない。
 皮肉なことに、妙なものを出しているところはお客が来なくなって早々に店をたたんでしまう・・・わけではなく、いつも結構込み合っていたりする。
 それだけに『悪貨が良貨を駆逐する』みたいなことになっては、真面目に頑張っている料理屋さんが気の毒ではないかと思うのだ。