近ごろ日本で増える人力車

ニッポンのリクシャー
 1860年代後半、横浜で走り始めた(日本橋のほうが早かったとの説もある)のが世界最初とされる人力車。インドでは今でもコルカタで走っているのを見ることができるが、同国で最初に『リクシャー』が出現したのはシムラーであったという。リクシャーという新たな交通機関が普及しはじめたころ、日本から各地にその車両を盛んに輸出していたということだ。
 のちにアジア各地で自転車によって引く『サイクルリクシャー』『シクロー』として発展してからは仕様やスタイルなどにそれぞれの地域色が出てくる。しかしオリジナルの『人力車』についてはどこを走っていたものもほとんど差がなかった。それどころか今コルカタを走っている人力車についてもほとんど形を変えていない。日本発の人力車は輸出先各地で地元の職人たちが模倣して作るようになってもほとんど改良の余地がないくらい完成された機能性とデザインを持っていたということになるのかもしれない。
 その人力車は今では日本の浅草や鎌倉といった行楽地で見かけるようになって久しいが、ふと思い立って調べてみると、こうした観光人力車のサービスは全国各地でずいぶん広がっていることがわかった。北は北海道から南は沖縄まで、その形態は個人営業から各地に支部を持つ企業組織までさまざまである。また横濱人力車くらぶのように車夫ならぬ車婦が頑張っているところもある。  ちかごろのインドでは女性のタクシーやオートの運転手も出てきているものの、日本にはリクシャー・ワーラーならぬリクシャー・ワーリーもいるなんて聞いたら腰を抜かす人もいるのではないだろうか。
 ネットで検索してみると以下のような観光リクシャーのサービスの案内が見つかる。
……………………………………………………………………………….
えびす屋(函館・小樽・浅草・鎌倉・京都・奈良・北九州・湯布院)
時代屋(浅草)
くるま屋日本橋(日本橋)
横濱人力車くらぶ(横浜)
横浜人力車 太郎(横浜)
人力車 ねこ屋(小田原)
川越陣力屋(川越)
ごくらく舎(飛騨高山)
谷口人力車(出石)※兵庫県
人力車まつもと(真庭郡勝山町)※岡山県
俥屋(長崎)
俥宿 天十平(萩)
灯八(宮古島)
……………………………………………………………………………….
 こうした人力車はどこで作っているのかと思えば、19世紀にさかのぼる『匠の技』は途中長い中断はあったとはいえ、今の日本でしっかり健在のようだ。美しいフォルムと細部に渡っての美しい仕上げを目にすると、購入しても置く場所がないどころか『一体何に使うの?』ということになってしまうのだが、ぜひ一台所有してみたくなった。
……………………………………………………………………………….
株式会社 升屋製作所
俥宿 天十平
……………………………………………………………………………….
 人力によるタクシーとして『Velo Taxi』の名で知られるサイクルリクシャーが東京、名古屋、京都の市街地のごく一部で運行しているものの、人力車については決まった観光ルート以外の行き先を指定して走らせるようなサービスは今のところ耳にしたことがない。 
 もちろん人力車もサイクルリクシャーも市街地の広がりや人々の往来が広域化したことなどにより人々から必要とされなくなって次第に姿を消していったのだから、今の忙しい時代に往時のままのカタチで復活なんていうことはありえない。
 だがそういう時代だからこそ、単なる懐古趣味あるいは物珍しさといった理由のみではなく、休日くらいはヒューマンな速度で運転手と世間話でもしながら見物を楽しむのは悪くないだろう。夏の間は炎天下で客待ちするのも市内を駆け回るのも骨が折れる仕事であったに違いない。秋口に入ってだいぶ楽になったのではないかと思うが、晴れる日もあれば雨もある。これから先に待ち受けているのは辛くて寒い冬である。リクシャー引きの方々には、くれぐれも身体と往来のクルマやバイクに気をつけて頑張って欲しい。

バンドから一夜開けて

 朝が来た。活気あふれ街中は前日とはまるで別の世界である。喧騒の中、もはや鳥のさえずりは耳に入ってこない。
 バンド・・・といえばインドにおける伝統的な抗議手法だが、かつてのイギリスに対する非服従運動の中でも人々に対してそれに参加するようにと、影に日向に同様の強制があったのではないだろうか?とふと想ったりもする。
 そのころのインドでは植民地行政下において鉄道の敷設と路線の拡充、道路網の整備など、工業化、商業化を進めるためインフラの整備や開発も進行中だった。 20世紀に入ってからは高級官僚など政府幹部のポストにネイティヴの人たちが占める割合が次第に高まってくるなど、行政組織の頂点部分へ現地の人々の進出が目立つようになってきた時期でもある。地元市民の発言力が相対的に高まるとともに、そのころのイギリスではインド勤務に対する魅力が次第に下降線をたどっていたことも原因のひとつだろう。
 ともあれ当時の統治システムの中で日々を送っていた上から下までさまざまな職責の公務員たちにとって、頼みとする体制の不安定化と流動化は自らの将来について大きな脅威であったはず。反英運動に対する取締りにあたった警官たちも、その大部分はインド人たちであり植民地体制化で既得権を持った人々の中では親英勢力は相当な力を持っていたはず。
 商業活動に従事していた人たち、とりわけ都市部でビジネスを営んでいた人々は当時の行政の枠組みの中でそれなりの繁栄を享受していたし、当時英領あるいは英国の保護領となっていた地域との間で活発な取引を行なうなど、英領下であることのメリットは大きかっただろう。
 たとえば当時のマドラスに本拠地を置いていたスペンサー商会にとって、この時代は大きな試練であったという。社会不安はもちろんのこと商会の根幹を成す事業のひとつであった舶来の高価な品々の輸入販売が大打撃を受けたこと、欧州系のオーナー家族による運営がなされてきた商会が、当時の世の中の動きから必要に迫られて経営の現地人化を進めざるを得なくなったのもこの時期であった。
 社会のかなりの部分の人々にとって、民族の大義や社会正義より正直言って日々の稼ぎと個々の家庭の平安のほうが大切だろう。どんな体制下にあっても世の中の大部分の人たちはそのシステムの中で折り合いをつけたり、うまく立ち回ったりして私生活の維持と向上をはかるものである。開拓精神に溢れて機転も利く一握りの人々を除き、多くの人々にとって場合体制が変わること、システムが入れ替わることは大きな不安だと思う。私自身もそういう人間である。
 しかし植民地当およびその協力者たちと反英勢力の綱引きの中で、次第に親英勢力がジリ貧になっていくにつれて鞍替えする人たちが出てきたこと、また内心どちらでもなく状況の様子見をしていた人たちが独立勢力の伸長していき、イギリスの撤退がもはや明白となったあたりで『さあ、乗り遅れるな!』と反英勢力側に飛びつく人たちが続出した・・・なんていう図が目に浮かぶのだがどうだろうか。
 世の中、誰もが『革命家』であるはずはないし、もっぱらの関心事といえば今日と明日の自分自身と家族のことだろう。いくばくかの問題意識を持っていたとしてもひとりで世の中を動かすことはできないから、せいぜい仲間内で批判めいたことを口にするくらいだ。日和見は無力な一市民だけではなく、何事か起きれば巨万の富や権力を失いかねない立場にある人たちにとっても当然の処世術である。
 時代が下れば『勝者の歴史』は美しくまとめられてしまうものの、当時の世間は様々な不協和音に満ちていたことだろう。戦争にしても独立運動にしてもつまるところ『勝てば官軍』なのである。誰もが勝馬に乗りたがるのは無理もない。
 かくして敗者たちのうち機知に富む者たちあるいはコネを持つ人々はいつの間にかスルリと立場を入れ替えて勝者の側に立ち、要領が悪かったり頑迷だったりした人たちは『裏切り者』という烙印を押されてしまうのはいつの世も同じ。かくして敗者たちの主張は闇へと葬り去られていく。

達人たちのバンド 2

ラージダーニー・バンド

予約していたホテル玄関は蛇腹式のシャッターを閉めてあり休業中みたいに見えるが、門番がカギを開けてくれて中に入れてくれる。グラウンドフロアーにあるレセプションとレストランでは通常通り人々が働いていた。

この日のバンドはムンバイーでの連続爆破テロへの抗議と与党への圧力なのだとホテルの従業員は言う。うまくそれにタイミングを合わせた感じではあるが、固く閉ざされた焦点のシャッターに無造作に貼られたシヴ・セーナーのバンド呼びかけのポスターには、留保制度反対!牛殺し反対!物価上昇に対する対策を講ぜよ!などといった内容のものもあった。

テレビをつけてみると確かに国会のモンスーン・セッションのはじまりに合わせて、シヴ・セーナーの友党であるBJPの人々が鐘を鳴らすなどして政府、つまりコングレスとその連立政権に対するアピールとしてなにやら騒いでいる様子が映し出されているため、こうした動きと歩調を合わせて行なわれているものであるらしいことはわかる。

バンドの達人たるシヴ・セーナーだが、実はこの半月ほど前の7月9日に地元ムンバイーでバンドを試みて失敗している。バンドの理由が党幹部関係者の個人的な問題に起因するものであり『公共性』を欠いたものであったということもあるが、このところナラーヤン・ラーネー、ラージ・タークレーといった大物幹部が離反して党を離れていったため、求心力が大幅に低下してしまったのがその原因と言われている。

そこで『セーナーは本拠地を遠く離れたこんなところでも威力を振るうことができるのだ』と、彼らにしてみればまさに面子回復を賭けているのが今回のバンドかもしれない。

2000年11月にU.P.州から分かれて成立したウッタラーンチャル州の州都となったデヘラードゥーン。それまで学園都市として知られてきたことを除けば分割以前の旧U.P.州に数多く存在する中規模の街のひとつにしかすぎなかった。この街で前例のないトータルなバンドであったらしいが、やはり『州都』ともなれば政界への影響やパブリシティーといった面でこの類の行動を起こすメリットが出てくるのだろう。

家族をホテルの部屋に置いて出歩いてみた。暴徒に出くわしては困るのであまり遠くまで行くつもりはないのだが、そうでなくてもバスやオートは一台も走っていないので徒歩圏内しか訪れることはできない。雨が降っては晴れての蒸し暑い気候の中、喉が渇いても店がどこも開いていないので水さえ買うことができない。だから結局ホテルの近所をウロウロするほかないのである。十字路では交通警官がヒマそうに椅子に座っていた。『バンドは日中一杯。午後5時で一応終わりらしいよ』とのことだ。

静かな往来をボーッと歩いていて道路の突起でつまづいてしまった。すると靴底が三分の一ほど剥がれてしまった。こういう日なので路肩にデンと座り込んだ修理屋も見当たらない。突然壊れてしまった靴がうらめしくなる。

通りには誰もいないがガーンディー公園ではヒマつぶしにトランプに興じている中年男性たち、デート中の若い男女などの姿をチラホラ見かけた。街地中心のクロックタワーのあるあたりは大きな商業地になっている。ここでは消防車や『ダンガー・ニヤントラン』と書かれた暴徒対策の機動隊車両が駐車してある。このクルマの天井には催涙弾とその発射装置が搭載されているのが見える。治安部隊の人々がこのあたりに集結して警戒していた。

どこも歩いてみても閑散としていたが、午後4時過ぎあたりになると一部の商店が扉を開き始めていた。3年前、ムンバイー・バンドが終わるあたりで次第に街が息を吹き返していった様子を思い出す。だがインド随一の商都とは違い、デヘラードゥーンでは本日一杯休みにしたところのほうが多いらしい。のんびりした地方都市らしいところだろう。少しずつ人通りが出てくると新聞屋の姿もチラホラ見かけるようになってきた。

ウェーリー・メール(वैली मेल)というというタブロイド版ローカル紙を手にとってみると『未明から90台ほどのバイクに分乗したシヴ・セーニク(シヴ・セーナーの活動家)たちが出動。午前4時半にISBTに到着して2台のバスの窓ガラスを割るなどの破壊行為を働いた』『デヘラードゥーン市内複数の地域で公共バスを破壊』等々、今日のバンドについていろいろ書かれていた。こんな具合でシヴ・セーナーのバンドをまだ良く知らない市民たちにお得意の強烈な先制パンチで明け方前から存在感を示したわけだ。

記事には『朝から学校、郵便局その他の公私さまざま機関、会社、商店などが閉まっていた。路上の物売りたちも一部を除きことごとく姿を消していた。オートリクシャーやタクシーもいなかった。シヴ・セーナーにしてみれば彼らのバンドは大成功』ともある。

破壊行為で逮捕された活動家がポリスのクルマの中に座っている写真も掲載されていた。まだ20代に見えるが、シヴ・セーナーの創設者であり現在同党を率いる息子のウッダヴ・タークレーの後ろ盾でもあるバール・タークレーばりの細身で裾の長いクルターを着て粋がっている様子。シヴ・セーナーの連中にとってはあのBALASAHEBことタークレー親分のいでたちがたまらなく魅力的に映るのだろう。

パルタン・バーザールを抜けたところの ラーム・ラーイ・ダルバールという墓廟兼グルドワラーをしばらく見物して外に出てみると薄暗くなってきた。さきほどまでは人の行き来がまばらだった通りには、昼間まったく見かけなかったオートが何台か客待ちしている。

蒸し暑い中を歩きずくめで疲れた。ガタガタと揺られつつも腰掛けたシートに疲労が吸い込まれていくようだ。

<完>

9月8日のマーレーガーオン

 またもやテロ事件が起きてしまった。マハーラーシュトラ州のマーレーガーオンで、9月8日午後、自転車に設置された爆発物による4発の連続爆破事件が起きた。  同州にマーレーガーオンという地名は複数あるが、今回事件が起きた場所はナーシクからグジャラートのバドーダラーに向かう国道3号線の途中にあり、ムスリム人口が6割を占めるイスラミックな街である。
 事件が起きたのはムスリム地域でモスクと近隣のマーケットで爆発が起きた。ちょうど金曜日の礼拝の帰りに被害にあった人たちが多く、今までのところ死者37名で負傷者が100名超ということで、場所柄被害者の大半がムスリムであると伝えられている。事件後(治安当局の『無策ぶり』に)怒った人々がポリスステーションや病院に押しかけ破壊活動を行なう者も出たことに対する対応として、その他予想される緊張状態を回避するためもあり、当局は市内の特にセンシティヴであるとされる地域に外出禁止令を敷いた。
 商業地域や鉄道といった宗教的に中立な場所、あるいはヒンドゥーの寺院や巡礼地のようなサフラン色のスポットではなく、J&K州の外においてはモスクを含めたムスリム地域がターゲットとなったことは、インドで近年起きたテロ事件の中では目新しいものであるといえる。
 今のところ事件の犯人、犯行グループなどについて治安当局がどこまで把握しているのか明らかにされていない。このところ散発しているテロ、とりわけ7月11日に州都ムンバイーで起きた連続列車爆破テロの記憶も新しい中、あたかもヒンドゥー極右側による報復のように受け取られかねないこの出来事は、明らかに社会の分断を狙ったものであろう。 
 コミュナルなテンションが高まることを警戒して、政府も『火消し』に懸命な様子がテレビなどで伝えられている。ひょっとするとこの事件は内政面でも外交面でも今後に大きな影響を及ぼす重要なきっかけとなるのかもしれないので、成り行きを注意深く見守りたい。とにもかくにも非常に残念な出来事である。不幸にして事件に巻き込まれて命を落とされた方々のご冥福をお祈りしたい。
At least 37 killed, over 100 injured in Malegaon blasts (Zee News)

達人たちのバンド 1

rajdhani band
ひと月半くらい前の7月24日のことである。ウッタラーンチャル州の避暑地マスーリーのタクシースタンドからデヘラードゥーンの市街地まで行くところだった。

本来ならば400ルピーらしいのだが運転手は『今日ちょっとねぇ。遠回りすることになるから』などといって500要求してきた。少し離れたところで客待ちしていた別のドライバーにたずねてもまったく同じことを言う。どこかで工事でもしているのだろうか。面倒なのでそのままクルマに乗り込んだ。

数日前にデヘラードゥーンからここに来るとき、山の斜面に入ってからの九十九折れのカーブの連続で子供がクルマ酔いして困った。それを教訓に今日は『ほら、クルマ酔いの薬だよ』とテキトーに騙してトフィーを与えた。息子は翌月に5歳になる。このくらいの年ごろだと『薬』がどういうものだかわかっているし、まだ素直なので暗示にかかりやすい。そういう意味では小学校に入学する前後の子供が一番扱いやすいのではないだろうか。おかげで下りは車窓の景色を眺めてはしゃいでおり、気分が悪くなる兆候もない。これは助かる。

南方に平地を見ながら下っていく山道の風景は本当に素晴らしい。緑が多く雲もところどころに溜まっているのが見える。ときに町中が雲の中に入ってしまったり、晴れ渡ったりと5分たてば違う風景になってしまうのがこの時期のマスーリーである。

妻と子供と三人で過ごした避暑地の週末はなかなかよかった。英国時代からの古い教会、古いショッピングモールには設立年が書かれている。道路わきで見かける水道の古い蛇口も植民地時代のもの。これを住民たちが世代を継いで利用しているのは興味深い。とかく植民地時代の面影が濃い町である。

涼しい気候はもちろんのこと、避暑地のウィークエンドは都市の中産階級の人々でごったがえしていた。身なりがよく華やかで購買力のある人たちばかりがモールを歩いているので、ごくひとにぎりの豊かな人たちと大多数のつつましい庶民からなる普通の町中とはずいぶん違う雰囲気であった。

タクシースタンドを出てからずっと下り坂だ。タクシーはデヘラードゥーン郊外に出るまでエンジンをかけずにブレーキを踏むのみである。インドではバスもタクシーも坂道でこういう運転をする人は多い。昔、自動車教習所で教わった恐ろしいヴェイパー・ロック現象というのは、そうそう簡単に発生するものではないらしい。

街の入口にさしかかろうというあたりから上り坂になる。運転手はようやくここでイグニッションを回してブォブォブォンッとエンジンをスタートさせた。彼はポケットからおもむろに携帯電話を取り出して誰かと話を始めた。相手はデヘラードゥーンの街にいる知り合いにかけているらしいのだがちょっと様子が変だ。まさかここを初めて訪れるわけでもあるまいが市内の様子を詳しく質問している。

住宅がまばらに広がる郊外を抜けて市街地に入るあたりまでやってきた。すると道路の様子がちょっとおかしいことに気がついた。平日の昼近いのに他に走っているクルマがやけに少ないのだ。ドライバーはクルマを停めた。何かと思えばそこから先の状況を、ときおり向こうからやって来るバイクなどを呼び止めてたずねている。

『えっ?ひょっとして暴動か?バンド(スト)か?』と彼に聞くと答えは後者であった。どこ(誰)がやっているものかと問えば答えは『シヴ・セーナー』であった。もともとはマハーラーシュトラの地域政党である彼らがここウッタラーンチャル州都でゼネストを行なうのはやや意外であった。北インド各地でもしばしばトラの顔をデザインしたトレードマークを描いたセーナーの支部があるのをチラホラ目にするものの、この地でそれを強行できるほどの地盤があるのかどうかはよく知らない。

だが彼らセーナーのバンドは徹底していて怖いことは広く知られているため人々はそれに従う。そんな彼らはいわば『バンドの達人たち』である。それならさっき乗るときにそう言ってくれればマスーリーでもう一泊したものを。

繁華街の方角からやってきたある運転手は『破壊活動していた連中は捕まったよ』と言い残して郊外へと走り去っていったが、おおいに気になるところである。さきほど携帯で市内の人に電話していたのも様子をうかがうためだったのだ。

こういうときなら通常よりもタクシーの料金が高いのもわからない話ではない。ちゃんと目的地のホテルまで連れて行ってくれるならもっと払ってあげたい気分。彼が気にしているのはもちろん黄色いナンバー・プレートで営業車だとわかってしまい、『アクティヴィスト』たちによる攻撃の対象になってしまうためだ。もちろんクルマ自体や運転手だけではなく利用している乗客にとっても危険であることは言うまでもない。

ドライバーはその後市街地方向からごくたまにやってくる何台かのバイクやクルマなどをつかまえては状況をたずねていたが、まあ大丈夫そうだと判断したようだ。

タクシーは発進した。白昼だというのに往来がすっかり途絶えている大通り、ありとあらゆる店がシャッターを下ろし、路上の物売りさえも姿を消している街中を滑るように進んでいく。
デヘラードゥーンの中心地の繁華街らしきエリアに入った。大きな時計台の少し手前のガーンディー公園が見えてくると運転手はクルマを路肩に寄せた。『繁華街らしきエリア』と書いたのは、建物等の具合からしてそうと思われるのだが、あたりに誰もいないし店もすべて閉まっているためよくわからないのだ。白昼なのにまるで深夜過ぎの雰囲気である。

『早く降りて。早く早く』と私たちを急かして放り出すように降ろしたドライバーは、アクセルを踏み込んでUターンして今来た道を一目散に飛ばして退散した。乗ってきたクルマのエンジン音が遠ざかるとインドの街中にいるのが信じられないほどシーンと静まり返った空気。木々のこずえでさえずる鳥たちの声しか聞こえない。クルマや店先のスピーカーなどによる騒音さえなければインドの街はこんなにも静かなのだ。ということは自動車や電気のなかった中世のインドはさぞ静粛であったのだろう。

数年前の7月にちょうど居合わせたムンバイー・バンドを思い出した。あのときも主役はシヴ・セーナーだった。今回のバンドは『ラージダーニー・バンド』と銘打ってある。ウッタラーンチャルの州都(ラージダーニー)で打って出たゼネストだ。

<続く>