シローンへ

バスはグワーハーティー駅周辺の大渋滞に揉まれながらG.S. Roadを南下していく。混雑もだいぶ緩和されてきたあたりでは道路の両側にちょっと良さそうなレストランや巨大なショッピングコンプレックスがいくつもある。はるか前方には何棟もの高層コンドミニアム群が見える。グワーハーテイーのように郊外へ発展する余地がある街でもこういうタイプの住居が売れるのは、こういうタイプの住宅の利便性や都会的な雰囲気を求めてのことだろうか。建築現場でこうした建物の『構造』を眺めていると空恐ろしくなる。大地震の到来は言うまでもなく、どんどん増殖中のこれらが老朽化して居住するのが危険な状態になったとき(そう遠くない将来であるように思える)には、大きな社会問題になるだろうし、そもそもどうやって取り壊すのだろうか。
周囲の混雑もかなり緩和され、車掌による懸命の客引きのおかげで車内はほぼ満員になる。ここから一気に加速して一路シローンへ。国道37号線をナーガーオン方面に進む途中、同40号線との三叉路を折れると、ここがちょうど州境になっている。メーガーラヤ警察のチェックポストがある。ポリスたちが乗り込んできて車内を見渡して検査は終わり。ここから急に坂道が多い山岳地帯に入った。
メーガーラヤ州に入ってから沿道の景色はガラリと変わった。地形もさることながら地元のカースィー族の家屋らしき木造の壁に浮き出た黒い梁が特徴的な家がいくつも見られる。州都のシローンなどでよく見かける教会は、こうした地元の建築から意匠を取っているような気がする。いくつかの町や集落を通過していくが、モンゴロイド系の顔立ちがよく目立つ。
ウミアム湖の美しい景色を眺めつつ、バスはダムの上を走っていく。この湖は人造湖らしい。付近には空港があり、州内のトゥラー、アッサム州都のグワーハーティーなどを結ぶヘリコプターの便が発着している。
グワーハーティーを出てから4時間あまりでメーガーラヤ州都シローンに到着。坂と緑が多く爽やかな空気の高原都市だ。行けども行けども続く丘陵地の上に広がる街中に商業地、公園、公共施設、住宅地などが散在している。街の郊外にも規模の小さな茶畑がいくつも見られる。『メーガーラヤ茶』なんて聞いたこともなかったが、気候的にも地形的にも栽培には向いているのだろう。
街中で最も密度の高い市街地のひとつ、ポリス・バーザール界隈の宿に泊まることにした。観光局、バススタンド、銀行、食堂などがあり、どこに出るにも何かと便利そうだ。
a church in Shillong
シローンの教会

『インドの軽食』ブームがやってくる?

samosa
先日はサブズィーとプーリーの朝食はどうか?と考えてみたが、何も朝食にこだわることはない。日本の外食風景の一部となったが、インド料理は現在までのところ料理屋でドッカリと着席して落ち着いて食べるものということになっているところがミソかもしれない。
サーモーサー、パコーラー、チャート類のみを立ち食いスナックとして普及させるのはどうだろう?そう、道路に面した側面がガバッと広く開いた専用のクルマでドネル・ケバーブを売るトルコ人?たちのやり方をそのまま応用できるのではないだろうか。
昼どきのオフィス街や駅前で、どこからともなくやってきたヴァンが通行人たちにインドのチャーイやスナック類を売り始めればたちまち黒山の人だかり・・・という構図がふと頭に浮かぶ。もちろん路上での販売だけではない。野球やサッカーのスタジアムの売店や祭りの縁日などでもかなりイケそうな気がする。でもこんなことを考えているのはまさかズブの素人の私だけではないだろう。
すでに店の前でスナック類を販売するインド料理店はたまに目にするようになっているが、店舗を持たずに移動販売や屋台などで売るスナック行商人たちが各地で見られるようになる日は案外近いのかもしれない。

インドな朝ごはんはいかが?

インドな朝食
トースト、バター、ジャム・・・なんていう朝食はノドに詰まりそうで苦手だ。寝起きのボヤ〜とした身体が受け付けてくれるのは、結局紅茶だけであとは手付かずであったりする。どうしてダメなのかといえば、おそらく食欲をそそる香りに乏しく、口に運んだときの歯ごたえに欠けており、食感も単調すぎてつまらないと感じるのは私だけだろうか。頭だけがなんとか目覚めても身体のほうはほとんど休眠状態にある朝こそ、パンチの効いた旨いものが欲しい。この食事こそがその日・・・とは言わずとも一日の前半の活力源となるのだから、朝食を抜くなんていうのはもってのほか!と痩せの大食いの私は思うのだ。
でも休日でもなければいつも慌しい朝、手間ヒマかけずにササッと手早く済ますことができる食事でなくてはいけない。それでいてエネルギーはもちろん、各種ビタミン等栄養素のバランスが取れたものは?と思いを巡らせば、和食や中華などを中心にいろいろ思い当たるものはある。でもインドのチャナ豆やサブズィーとプーリーの朝食だって栄養バランスや食感も抜群、しかも腹持ちも良くて素晴らしい朝食アイテムだ。
ここ十数年間の間に日本各地でインド人(およびその周辺国の)コックさんたちが調理するレストランが増殖したおかげで、都会のオフィス勤めの人たちの昼食の定番のひとつに数えられるほど定着したインド料理。そうしたお店は夕方もまずまず繁盛しているのだが、ふと思えば朝食を出しているお店となるとあまり耳にしたことがない。
ニッポンの朝、自宅で食事を取る時間がない、作る時間がないといった人たちは、街角の喫茶店、ファストフード店、立ち食いそば屋などでそそくさとかき込んでいる。グルメが多いこの国ながらも、屋外の朝食風景にはかなり貧弱なものがある。そこにはインド料理が参入できる余地がとても大きいように思うのだ。駅構内、バスターミナル、オフィス街の一角などに立ち食い専門の『プーリー・スタンド』ができれば、コートの襟を立てた勤め人たちが「アチチ・・・」なんていいながらちぎったプーリーでチャナ豆をすくって口に運ぶ様子が『近ごろ流行りの朝ごはん』なんて具合に新聞やテレビで取り上げられたりしなしないだろうか。この『プーリー・スタンド』最初は物珍しがられていても、あれよという間に類似の店舗が雨後のタケノコのように各地に広がって・・・などと想像してしまう。
でも汁や油でベトベト、ギトギトになった手をどうするのかという大きな問題に突き当たる。残念だがちょっと無理かもしれない。

いま何が起きているのか?

プールヴァーンチャル・プラハリー
プールヴァーンチャル・プラハリーपूर्वांचल प्रहरीというヒンディー語紙がある。アッサム州都グワーハーティーを本拠地とする会社が出している新聞で、他に英字新聞も出している。
Times of Indiaのような英文全国紙やデーニク・ジャーグランのようなヒンディー語による広域紙と違い、かなり地元密着型の新聞であるため地元ニュース満載なのがうれしい。しかもごく狭い地域で販売されるようなタブロイド版で印刷の質も悪いローカル紙よりも紙面が多くて各々のニュース記事の精度も高い(?)と思われるのもありがたいし、地元アッサム語あるいは同様に広範囲で使われているベンガル語ではなく、ヒンディーで書かれているのもうれしい。インド北東部の進歩的ヒンディー紙を謳うだけあり、本拠地のアッサム州外でもメガラーヤ州、トリプラ州その他でも売られている。
手が空いているときには何か読むものがないと落ち着かない。それに訪れた先で今何が起きているのか常々興味のあるところだ。そんなわけで、朝食のときに広げて読むことのできる新聞が見当たらない土地ではどうも消化不良気味になってしまう気がするし、逆にこのような地元紙があると食もどんどん進むのである。
近郊の広場でのメーラーの開催が書かれていれば、『行ってみようか』ということにもなるなど観光にも役立つこともあるが、数日間紙面を眺め続ければその土地で今何が問題になっているのかについておおよその輪郭を掴むことができるのがいい。

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オススメの一冊 『インドカレー伝』(Curry a biography)

インドカレー伝
昨年末に出版された『インドカレー伝』という本がある。タイトルだけ眺めると料理のハウツーものか何かみたいに見えるが、手にとって読んでみるとこれが実に中身の濃いインドと欧州の食文化交流史なのであった。
イギリスがインドの食習慣に残したものといえば、紅茶、朝食のオムレツとトーストの他にはあまりないものとばかり思っていたが、実はイギリス人向けの『インド料理』やアングロ・インディアンの家庭で作っていたものがインドの人々の食習慣の中に根付いたものが少なくないらしい。たとえば『チキンティッカ・マサラ』はその典型で、出てきたチキンティッカがパサついていると突き返したお客がいたことから、厨房の料理人がキャンベルのトマトスープ缶とクリームを混ぜてそれにかけて出してみたことがはじまりなのだと書かれている。
もちろんヨーロッパ人たちがインドの食世界にもたらした影響は、チキンティッカ・マサラ単品のみではない。15世紀にイタリアのジェノヴァ出身のコロンブスがアメリカ大陸を『発見』したことにより、トウガラシがヨーロッパに持ち込まれることになったが、この植物をインドに持ち込んだのはポルトガル人であるとされる。ポルトガル王の資金援助を受けた1498年にヴァスコ・ダ・ガマ率いる三隻の船がマラバール海岸のカリカットにて同国のインド到来の第一歩を記すことになる。トウガラシがいつインドに導入されたか正確な時期はわかっていないようだが『ヴァスコ・ダ・ガマのインド上陸の30年後にはゴア周辺で少なくとも三種類のトウガラシ属の植物が栽培されていた』とある。この時期以降、このあたらしい香辛料はインド亜大陸全土に広がっていくことになるのだから、これだけでも欧州人たちがインドの食事に与えた影響は相当インパクトの大きなものである。
トウガラシのみならず、ジャガイモ、キャベツ、カリフラワー、トマト、インゲン等々、ヨーロッパ人たちによりインドに初めて持ち込まれた野菜類は多いらしい。するとそれ以前は一体何を食べていたの?という疑問も沸いてくるが、これらの野菜がインドに根付いてこそ『菜食文化』がインドで本格的に花開くようになったという面もあると著者は分析している。

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